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広瀬城 西広瀬城 三河 児島高徳 佐久間氏

三宅姓を名のる者は美男美女として知られている、『三宅系譜』では、
「児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)のため興国年間に、現在西加茂郡
猿投町大字東広瀬とよばれる矢作川に臨んだ高さ五十メートル周囲四百メートルの孤
立した天険の地をえらび築城し、その後この西加茂一帯を征圧していた」となってい
て、没落したのは三宅右衛門高清のときとある。
児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)

南北朝内乱期の動向 葦名氏 (桓武平氏三浦氏流)
幕府滅亡後の建武二年(1335)に起きた「中先代の乱」で子の高盛とともに足利尊氏に参加し、鎌倉の片瀬川で戦って討死した。そのため、高盛の弟の直盛が葦名氏の家督を継いだ。
高盛13181335盛員子次郎左衛門. 直盛盛員子盛宗子?三郎左衛門左京若狭遠江瑞林賢秀. 詮盛13561398直盛子会津小太郎右衛門弾正盛詮遠江. 満盛詮盛子
藤原 (勘解由小路) 兼綱 (1315~1381)宮氏は本来藤原姓であったが、祖父の高盛公が源姓に替えた」とある。『平家物語』に出てくる奴可入道西寂は宮氏の先祖である」
高盛は葦名氏に属していたのかも (桓武平氏三浦氏流)かも知れない?
或は葦名式部太輔高盛(盛員男)

三宅氏の勢いは凄まじく、本城はこの広瀬
だが、同じ猿投町大字殿貝津には、高清の弟の三宅清宣(きよのぶ)の伊保城。
 いまはトヨタ自動車で知られる豊田市の梅坪三丁目にある
豊田市の梅坪三丁目にある丘には、高清の伯父の、
「三宅右近太夫光貞の梅坪城」
 そして同じく今の豊田市挙母(ころも)町大字城本町には、三宅高清の義兄にあた
る者の、「挙母城」の、つまり四つの城が三宅氏にはあったのである。
『愛知県史』では、「永禄三年徳川氏に攻められ、城主三宅右衛門尉高貞は討死。城
は陥落しこれより廃墟となる」となっている。
「永禄三年庚申の年こそ徳川家発祥の年」という
神君二郎三郎が深謀をもって、信長を今川義元の本陣へ導いて裏切らせ殺
させた‥‥」という尾張徳川家の所説

松平蔵人元康の姉婿が三宅光貞‥‥そうか、あやつらは義兄弟
われこそは新田義貞の末裔世良田の二郎三郎なり。
「何をか申す。われこそは松平蔵人元康なり。いで、この槍先の錆にしてくれん」
 また槍の柄をたぐって、ひと突きにせんと掛ってくる。
それを二郎三郎は丁々発止と防いでいた
「うぬは誰でありしか‥‥」これには元康も怪訝そうに聞き返した。
 すると二郎三郎は、からから笑ってのけ、
「その昔、宮ガ崎の人質屋敷に居られた頃、和子さまの遊び相手として参上していま
したる者」と、それに答えた。
「ややッ、それでは吾が子竹千代を誘拐し、逐電なしたるは汝なりしか。いざ返せ‥
‥」
うぬら卑怯にも、よくも空から火の玉を落しくさったな‥‥男らしゅう尋常に勝負
せい。かく申すは広瀬の城主三宅右衛門尉高貞なり」と、大音声をはりあげ恨みつら
みをいった。
こりゃ昨夜、火を放ってきた広瀬三宅の兵か」酒井浄賢は
咽喉をならし声を震わせた。

広瀬城主三宅高清
広瀬城は興国5年(1344)、
矢作川を天然の堀として当地の豪族だ. った児島高徳が築城したといわれるが、永禄3
年(1560)時の城主、. 三宅高清が松平元康(家康)に攻められ落城した
11代目の三宅高清が織田方についたため永禄3
年(1550)松平元康(家康)に攻められ落城した 愛知県 (説明板より)
永禄3年、三宅高清が織田方に寝返ったため、松平元康(徳川家康)によって攻められ落城し、三宅氏は松平氏に臣従した。 天正18年、三宅康貞は徳川家康の関東移封に従い、武蔵見賀尻5,000石を領して移封(後に三河田原12,000石)して、東広瀬城は廃城となった。
三宅高清公の息子高貞

東方にそびえる標高108mの山頂に広瀬城はあります。
東西300m、南北150mのこの城は、1344年この地の豪族、児島高徳が築城、その後戦国時代には三宅高清の居城となったが、三宅氏は織田信長についた為、1560年松平元康(家康)は織田方の広瀬、梅坪、挙母の諸城を攻め、広瀬城は落城したそうです。

御船城址築城は応仁の乱で戦功のあった児島右京義明によりなされ、戦国末期の城主は三宅氏である

猿投神社猿投山の麓には猿投神社の本社、山頂付近には東の宮、西の宮が鎮座し、3つの社を総称して猿投三社と言う。南北朝の頃挙母城主中条氏は度々神田を寄付している

猿投山猿投山は標高629m、西三河に

佐久間 殿、三河の国、広瀬城主、三宅様にございます。

信長  三宅殿、面を上げられよ。よくお越しくだされた。

三宅  三宅高清にございます。

信長  佐久間、仔細を申せ。

佐久間 は。三宅殿をはじめ広瀬、梅ヶ坪、挙母の三つの城の三宅氏は、三河武士団として天下にその名がとどろいております。三宅殿は、矢作川をはさんで私の城と接するところにあります。
信長  三宅殿、誤りはないかの。
三宅  すべて佐久間殿の申された通りでございます。
木下  木下藤吉郎と申します。三宅様、信長様は上機嫌のご様子。よろしゅうございますな。
佐久間 こら、猿。出すぎたまねをするではない。
木下  はは。これは申し訳ございません。
三宅の息子 母上。ご心配くださりますな。われわれには、百丁の鉄砲がありまする。そ
して、なによりわれらは三河武士団。おめおめ死んだりはしませんぞ。
元康  それ。攻撃じゃ。松平の力を存分に見せてやれ。
家来3 三宅高貞様、山本様(家来1)討ち死にされました。
三宅  なに、高貞が?おのれ、元康め。
広瀬城は落城しました。三宅高清公の息子高貞様 は自害なされ、妻、娘も捕らえられました。

高清の伯父の、 「三宅右近太夫光貞の梅坪城」 そして同じく今の豊田市挙母(ころも)町大字城本町には、三宅高清の義兄にあた る者の、「挙母城」の、つまり四つの城が三宅氏にはあったのである。
三宅右近太夫光貞の梅坪城と児島高徳の東広瀬城

三河 豊田市 広瀬城 址

東広瀬城

あけち ひでみつ 明智 秀満 1537(天文 6) 1582(天正10. 6.14) ◇安土桃山時代の武将。初名は三宅 ... ヒサマサ)の父、長政(ナガマサ)の祖父。 1516(永正13)近江に小谷(オタニ)城を築いて城主になる。

「岩松八弥」
「天文23年(1554年)に主君暗殺の黒幕が佐久間全孝と知った松平家家老らは憤激し、義元の後盾で広瀬城に攻撃した」「松平軍と結託した御船・東広瀬城主の三宅高貞(右衛門太夫貞保)と三宅光貞(帯刀)らに攻められ、重行はついに居城に火を放ち自尽して果てた」
天文23年11月5日「御船ノ三宅右衛門太夫貞保 同名右近申合 佐久間全孝息長七郎ガ居城三州広瀬ヘ不意ニ取懸ケ乗取リ入城シテ御船ノ郷ヲバ三宅帯刀ニ与ヘ」(巻1 孕石竹千代殿ヲ悪口スル事 并ニ 三宅貞保三州広瀬城ヲ攻メ取ル事)。

東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保

熊野クマノ社シャ(佐久間町サクマチョウ大井オオイ間マ庄ソウ)社殿シャデン造ゾウ立リツ。地頭奥山平三定茂。『静岡県史資料編⑦』


天文13年(1544)8月26日水野下野守信元、今川反し、織田に属す。松平マツダイラ広忠、大と別離。家康3歳。形原松平紀伊守家広の妻も、水野忠政娘なので離縁


永禄3年(1560)20日「広瀬城(豊田トヨダ市シ東ヒガシ広瀬ヒロセ)戦タタカい」 松平元康、広瀬城三宅高清攻める。
永禄3年(1560)25日広瀬城ジョウ三宅ミヤケ右衛門ウエモン大ダイ夫フ高タカ貞サダ、松平元康に攻セめられ落城ラクジョウ討死トウシ。『岡崎市オカザキシ史シ①』
by kouhoka | 2008-01-30 18:24 | 三河の三宅氏
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