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日光東照宮の建築造形方創設者は誰か?

日光東照宮の建築造形方には、見てめずらしい、と感じるものもいれば、そこからつかむ、何かをという、表現がある。
これを、主のみちびき によってなされた事だと、する考えは日本にはただ一人の人物しか、いなかった。桃山時代までは戦国の世の中で、このような、事を言い伝えられた人物や記録した人物も、見えない。

このことは現代でも同じことが言えるでしょう。
この「みちびき」を何も感じないで読んでいるのと、同じことである。
これは人間の能力の測り、が計測できるのか出来ないのかを、表わしているが、明治以降に、これが判る者は学者や有名教授とてわからないでしょう。
神のお導きを、伝えることが出来るのは、この著者だけだろう。
このことを、神の世界では「とうとい」と発言する。
尊いとは、神の世界にしかないと云う、事なのです。
これを伝える事が出来るのを、伝統と言い表します。
自然のおみちびきにさかろうたらいかん。
人類の叡智は、”天使のみちびき”に違いない。

この事から主のみちびき によってなされた事だと、する考えは日本にはただ一人の人物しか、いなかった、となるのです。
物の始まりのこと、同じ事なのです、これで皆さんは、どう、感じられましたか、これくらいの事は、判っていると、答えられる人物が、今の日本にいると思いますか?
これが仮に、それくらいと答えた人は、ではあなたは、天孫は誰かと、尋ねたら、答える事が出来ますか?
これが判るのが、天孫しかいないのです

ここで、日光東照宮の建築造形方を、伝えたのは、いったい、誰だと、思いますか?
それくらい、前から判っていたと、いう人は、何人もいるでしょう、が然し、現実には、それは出来ないのです。
歴史で知られる人物は江戸の創設に名が上がっている人物では、大田道潅や、天海僧正くらいしか、いませんね?

何人もいない、はずです。

では大田道潅はどうでしょう?本当に、「神からの伝言」が託宣されていたのでしょうか?になるのです。
これしかないわけです。
大田道潅に関する書物の中に、先祖の中で、記録されていたか?で判ります。
江戸城を築いて東京の基礎を作ったとされている?

天守閣(天主閣)という言葉が初めて使われたのは織田信長の築いた安土城。
江戸城天守閣は大田道潅が建てた望楼式の櫓建築で、静勝軒と呼ばれ後北条時代もそのまま存在していましたとある?楼閣

が現実に楼閣は、弥生時代に始まっていたのですが、奈良飛鳥、平安時代に於いては、寺社を除いては、見えていません。
それほど、恐れ多いものでした?そこには神の託宣なしでは、出来ない暗黙の世界があったからです。
織田信長の言葉がこれで誰も知っている、吾は神なりと、したことに反復して、殺されたのは、いうまでも有りません。
天罰がくだったという、事になるのです。
この成敗は誰の手によっても?天守閣(天主閣)や日光東照宮の建築にも、答えが出ています。
いまでは、歴史作家堺屋太一も、推理していて、こんなことが言われていますね?犯人探しでは、明智光秀?いや時の天皇か正親町天皇?足利義昭前将軍? 明智家の重臣、斉藤利光の娘が長曾我部元親に嫁いでいる。いや、秀吉?

これはみんな想像が、間違っているといえます。
これを解く鍵は、江戸城を築いて東京の基礎を作ったと同じ、内容解釈になります。

主君に謀殺されるという悲劇が起こったのだ。文明18年(1486) 7月、伊勢原の上杉定正邸に招かれた道灌は、もてなしを受けた後、風呂から上がったところで定正の家臣に殺された。
ここに、はっきり、記録されていますので、後世に誰がが、いいふらしたのでしょう。
大田道潅ではなかった、ことが判りましたね?
ではもう一人の、人物、天海僧正は?
天海僧正」と日光東照宮の建築造形方
天海(てんかい、1536年(天文5年)? - 1643年11月13日(寛永20年10月2日))は、安土
桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧である。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の
ブレーンとして江戸幕府の設立に活躍した政僧。南光坊天海。
三浦氏の一族である芦名氏の出目で、陸奥国に生まれたとされる。
「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。
遺言を天海らに託す。とこれは後世の作者が書いただけのものです。
「三宅輪宝」は、文字通り三河国豊田市の三宅氏の家紋である。家紋は苗字と同じ。


天海という僧が突如、歴史の舞台に登場します。この天海は、それ以前はどこで何をしていた人物なのか全く不明です。とある
春日局と天海?の関係
春日局は、本名「お福」といい、光秀の腹心の部下であった斉藤利三の子である。斉藤利三の妻は光秀の妹。
家康の帰依を受けるようになったのは慶長一四(1609)年のころ
織田信長に焼かれた後の比叡山の復興、川越・喜多院の再興、東照宮の造営、上野・寛永寺の建立などにも深く関わった

11歳の時に出家し、比叡山、三井の園城寺、奈良の興福寺などで学問と修行をおさめ、天台宗の寺院の住職を歴任したあと3代将軍に仕え、108歳の天寿を全うしたと伝えられる。

芦名重盛という殿様に攻め滅ぼされ、この重盛が江戸崎城主になっていた。重盛公は天海僧正という大変偉いお坊さんを連れてきた。天海僧正は慈眼大師ともいわれていた。不思議な力を持っていたので天下人の徳川家康の知恵袋として徳川家に迎えられていた。
 その天海僧正がこの江戸崎へやってきたのだ。天海は重盛公の計らいで不動院の院主(住職)になった。


狩野探幽作という 「天海大僧正画像」ここに出目が出ている?

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天海の生い立ち
漆塗り職人の子として誕生しました。天海が生まれたのは会津(あいづ)高田(今の福島県)で幼名を兵(ひょう)太郎父は舟木(ふなき)氏、母が芦名(あしな)氏の出といわれています。
この頃は、蘆名盛氏の直下に置かれて、塗り師を父はしていた。
ここには、天海が天文学を、受け継いでいた事は、ありえない、この後に、明智光秀の姻戚関係から、明智秀満と名乗る。
ここに佐久間信盛から、明智光秀が率いられて、付いたのが織田信長であった。
当然、この頃も、まだ天文学を、受け継いでいた事は、ありえない、それは武士に引き立てられたからである。
ここに佐久間信盛と、芦名重盛とは、姻戚関係があった。これは三浦氏の一族和田義盛、に関係している。
ここに三宅氏、との関連があり、天海が三宅氏出身だとされている。
これを語るには、明智秀満の過去について、調べるとよい。

父は舟木氏母が芦名
福島県伊達市保原町富沢字向舟木
福島県伊達市保原町富沢向舟木
福島県会津若松市 舟木(ふなき)
     伊達市   向舟木(むこうふなぎ)舟木(ふなぎ)
陸奥国大沼郡の生まれで芦名氏の一族
◆会津若松の南西、高田町。
◆天海は芦名氏の一族である舟木景光の長男として誕生した。(1549年生まれ)
『新編会津風土記』は永禄三年(1560)天台宗・道樹山龍興寺にいり、随風といった。11歳で僧となる。1536ごろ 随風(天海)

二本松氏(にほんまつし)は陸奥国ニ本松城に拠った二本松畠山氏が嫡流、家臣の子孫・船木景光。
二本松氏(にほんまつし)は(1345年)畠山高国と吉良貞家が奥州管領に任ぜられて陸奥国に入った。戦国時代に入っても、周囲の伊達氏や蘆名氏などの有力国人に圧迫された、天文16年(1547年)、二本松畠山氏十四代を継いだ二本松義国の頃には『二本松畠山家、次第に衰微して、ようやく安達半郡、安積半郡を知行せられ、この節、会津の蘆名盛氏の武威輝かしかば、彼の風下にぞ属せられける』と古記録にはある。源姓足利氏の系統


舟木景光
父は二本松畠山氏家臣の子孫・船木景光。母は葦名盛常の娘。陸奥国会津郡高田郷の出身で三浦氏の一族

信玄没後、葦名盛氏の請で黒川城稲荷の別当になる。磨上ヶ原で敗れた葦名義弘と伴に、江戸崎(霞ヶ浦南岸)に移住。
天海が死去したのは寛永二十年(1643)、百十歳
こうしてたどって見ると、どの時期、(天海)が知識を身に付けていたとは、ならない。
ここに、(天海)と関わっていたのが、同じ徳川家康の伽をしていた、佐久間信盛子息、不干斎甚九郎であった。
すべての要因はここにあり、ものの根源は、この佐久間甚九郎にあります。

ここで、神の手縛を表わすものが、伝えられております。相撲甚句は、佐久間甚九郎によって、はじまり、それが甚句の始まりとも言われている。
これは神の祝詞に類する、祭祀で、天文学が判るからです。「甚句は神の九に由来する」
まだまだ他にも、記録されている天文学に関わる、ものは、
佐久間甚九郎が、秀吉の朝鮮征伐の頃に、九州の天草で、日本最初の活版印刷で、「イソップ物語」を本にして、つくりました。ここには童話と神話が、一体となっていることに着目されたい。
勿論、安土城の設計も、佐久間氏以外には、天文学を身に付けた人物は、いなかったとなります。
佐久間甚九郎と天海り先祖は、同じ児島高徳となる要因かも知れない。
明智秀満事天海は、徳川三代家光まで、同じところに、いた事はあまり知られていません。
明智秀満室(元は荒木村重の息子に嫁いでいたが、村重謀反の際に光秀の下に戻された)、嫡男光慶(十五郎)がいる。
明智秀満(?~1582?) 左馬助、三宅弥平次。これが天海

あけち ひでみつ
1537(天文 6)
1582(天正10. 6.14)
◇安土桃山時代の武将。初名は三宅弥平次。明智光秀の弟。
光秀の女婿(妻は細川ガラシャ
の姉)で元は三宅弥平次といい、『明智軍記』では左馬助光春の名
明智弥平次秀満である。秀満は光秀の長女を娶り明智姓を名乗った
秀満は光秀の信任厚い侍大将で、丹波福知山城主となった。
信長を討ち取った後の近江平定の際、先手を務めている。
明智左馬助秀満や明智弥平次秀満等とされる。明智光秀の娘婿である明智秀満(光春)弥平次、旧姓:三宅
明智光秀の妹が、母である家老級斉藤利三の妹は、土佐の長宗我部元親の妻である。
(秀満)の三宅左馬介光昌 「三宅左馬介光昌は弥平次秀満」

妾腹の子、太郎五郎が、いるとある。(土佐坂本家)
維新の英雄の一人、坂本龍馬の実家は「先祖は明智弥平次秀満?。
東照宮のある日光には明智平という地名がある、名を残す?
藤兵衛重利は三宅弥平次の子天草の乱の際に討ち死。

天正10年(1582)6月15日
丹波福智山城主。三宅弥平次(三宅藤兵衛綱朝の実子もしくは養子)、正六位下。
、細川家から移籍して唐津藩主・寺沢堅高の家臣として天草四郎率いる「天草・島原の乱」一揆軍と戦って討死した天草富岡城代・三宅藤兵衛重利はこの明智秀満の子である。また幕末期に活躍した坂本龍馬の生家に伝わる伝承によると、坂本家は明智氏の親類である長宗我部氏を頼って落ち延びた明智秀満の子の末裔とされており、「坂本」は坂本城があった近江坂本に由来するという。
天海が秀満というのは、家紋でわかります。その家紋は、「丸に二つ引き両」と「三宅輪宝」です。前者は足利と同時に遠山の家紋、後者は三宅氏しか用いません。
秀光は最初、遠山景玄、次に母方を継いで三宅弥兵次、さらに光秀の娘婿となってから明智秀満を名乗ったのです。父は、ご存知のように遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘です。弟の利景が旗本遠山の先祖で、金さんの先祖となります。

光安は斉藤義龍が父・斎藤道三に反旗を翻したときに道三側についたため、義龍の軍勢の攻撃を受け、居城・明智城は陥落。
一説によれば、明智光安には光春という子が居たが余計な疑惑を避けるため、三宅氏に養子に出し、これが後の明智秀満であるという。
『明智軍記』によると、光安は城中に居た光秀、光安の子の光春、弟・光久の子の光忠らに明智家再興を託して場外に逃れさしている。

土岐頼貞─頼基──頼重──土岐成頼ー頼尚ー明智光継ー光安ー秀満

明智光継
あけち みつつぐ別名:頼典、十兵衛尉
子供:長男…明智光綱、次男…山岸光信、三男 …遠山景行(明智光安)、四男…小里光忠(明智光久)、五男…原頼房、六男…明智光廉(三宅長閑斉)、長女…小見の方、次女…斉藤利賢の妻(後に石谷光政の妻)

明智光綱の弟の光安が後を継いでいる。という事は、姻戚から、あり得る、遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘三宅氏に養子に出し、三宅弥兵次、これが後の明智秀満であるという。以後三宅弥兵次を名乗る。
ここより、遠山景行(明智光安)が妻の、里三河広瀬城主三宅高貞から、嫁いできていた事から、児島氏と姻戚が始まっている。

三河広瀬城主三宅高貞
父は第12代明智城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。

http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=203
秀満は、 秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初
は遠山景玄を称しています。
秀満と三宅氏の関係は母方との関連のほか、姉妹が三宅氏に嫁いでいます。現在の明智町の三宅氏はこの系 統です。
三宅出雲(長閑斎)は、秀満の実父ではなく、叔父(父の末弟明智光廉)で岳父です。光秀の長女、次女は、
実際には三宅長閑斎の娘です。このことは、喜多村家に伝わった「明智系図」と『美濃国諸旧記』を見比 べればすぐにわかります。

東広瀬城 豊田市東広瀬町 伝承では興国5年(1344)児島高徳が築城したといわれる。

松平久子の娘(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いでいる。利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智秀満である松平七代清康(家康の祖父)の妹・久子の墓がある。
久子は、家康が生母於大と生別して以来、家康を養育した人。
明智秀満と遠山利景の兄弟の父は、明知城主遠山景行、母は三河の広瀬城主三宅高貞の娘である。



三宅 高貞 みやけたかさだ. 三河・広瀬城主、三宅右衛門尉高貞、松平清康に居城を攻め
られ討たれた.

三宅 重利 みやけしげとし (三宅藤兵衛)

明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係、三宅重利、山崎の合戦後に細川家に保護される、のちに細川家を辞去し寺沢家に仕え知行三千石、天草の乱では富岡城代として一揆軍と戦い討死した




天正八年(1580年)頃本能寺の変に際しては本能寺に織田信長を攻める。


今の皇室の天皇や美智子さんは、この事をわかっていたかも、鍵になります?

「神からの伝言」が託宣されていた、人物が天孫の証拠です。
ここに、神の手縛の歴史があるのです。
ここで、現代の相撲は、誰が開いたのでしょうか?これと、日光東照宮の建築造形方創設と、同じ、事が言えるのです。
「おおそれおそい、事をしてはならぬ」

これを破る現代社会は、どんどん奈落の底へ、落ちているのです。
現代で起きている、ことば、の伝達や聞き取り方が出来なくなったと言われているのも、これが、示しているのです、それは神への反感が根深いことを、表わしています。



児島宮歴研会著作製作
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by kouhoka | 2007-12-23 08:42
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