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伊勢神宮が一番古い神社というわけではなく

伊勢神宮よりも熊野神社のほうが、もっと古いが、それよりも、もっと古い神社が筑紫の筑紫城、ここが、松峡宮である。
この松峡宮が遷宮したのが現在の松峡こと松延のことで、今は慶長六年に、篠隈と改められた。
この篠隈に慶長六年甚九郎正成が、祖にのっとり、社殿を造るのが今の児島宮である。
甚九郎正成父甚九郎正勝は江戸城にいて、三代にわたり、徳川の安泰を見守っていた。
徳川家康とか、うわさされているが、記録では三千石とされているのが?どうも、間違いのようである。
甚九郎正勝の一族にゆかりの、天海僧正の母はこの、甚九郎正勝分家の女であった。
家光が、秀忠の後継になったのも、甚九郎正勝こと徳川家康?の力ゆえか?
またこれを、裏付ける、背景が狩野孝信の室に、妹が嫁いだことから、探幽が狩野孝信に連れられて、登城して、徳川家康と対面したので、あれば、筋書きは、つながる。
またこれに相して、狩野孝信が、天皇の御用絵師について、いたり、春日局が天皇から名前を拝したのも、これなら、うなづけられる。
天皇の縁戚関係にあった、甚九郎正勝は、宮家本家であった、ことから、三位のくらいが、あったのは、甚九郎正勝父佐久間信盛が、信長の御香に際して、正倉院開封のらんじゃたい、という、歴史で知られる足利義満くらいしか、開封することが、できなかったと、いう事からも、判るように、正倉院開封は天皇でも、開封は出来ない決まりが、あった事からも、関係が伺いしれる。

このように、愛知でも、佐久間信盛は五器所に神社をたてた、札書きが、残されている。
これには佐々家も連座していた。
この佐々家には、佐久間信盛女が鷹司家に嫁いで、生まれた女が、佐々成政の兄に、とついでいた。
この関係からも天皇家との繋がりが佐久間信盛に、あったことが、裏づけされている。

ここに甚九郎正勝長男、甚九郎正成は宮を造り、伊勢神宮の建物の構造「唯一神明造り」平山大明神としていたのを、現祭主が、祖に因み、児島宮とし、遷宮させた。
甚九郎正成弟、助九郎長興は、黒田長政から、養子に向かえられ、て、後継ぎのところ、忠之の抵抗にあい、やむなく、長政遺言の通り、秋月に分藩された。
この助九郎長興男長重の鎧には、秋月郷土館に展示されている鎧に、宮家の紋章が、記され、助九郎長興が、黒田長政から三番目養子に向かえられた事を、現している。

又天草四郎の乱に、犠牲にされたのは、天海僧正の男であったので、秋月藩の天草四郎の乱に奮闘したのが、秋月郷土館に展示されている、御用絵師斉藤秋圃の手になる、屏風が、それを物語るものである。
by kouhoka | 2008-12-06 20:55 | 伊勢神宮の総本社児島宮
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