広瀬城 西広瀬城 三河 児島高徳 佐久間氏

三宅姓を名のる者は美男美女として知られている、『三宅系譜』では、
「児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)のため興国年間に、現在西加茂郡
猿投町大字東広瀬とよばれる矢作川に臨んだ高さ五十メートル周囲四百メートルの孤
立した天険の地をえらび築城し、その後この西加茂一帯を征圧していた」となってい
て、没落したのは三宅右衛門高清のときとある。
児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)

南北朝内乱期の動向 葦名氏 (桓武平氏三浦氏流)
幕府滅亡後の建武二年(1335)に起きた「中先代の乱」で子の高盛とともに足利尊氏に参加し、鎌倉の片瀬川で戦って討死した。そのため、高盛の弟の直盛が葦名氏の家督を継いだ。
高盛13181335盛員子次郎左衛門. 直盛盛員子盛宗子?三郎左衛門左京若狭遠江瑞林賢秀. 詮盛13561398直盛子会津小太郎右衛門弾正盛詮遠江. 満盛詮盛子
藤原 (勘解由小路) 兼綱 (1315~1381)宮氏は本来藤原姓であったが、祖父の高盛公が源姓に替えた」とある。『平家物語』に出てくる奴可入道西寂は宮氏の先祖である」
高盛は葦名氏に属していたのかも (桓武平氏三浦氏流)かも知れない?
或は葦名式部太輔高盛(盛員男)

三宅氏の勢いは凄まじく、本城はこの広瀬
だが、同じ猿投町大字殿貝津には、高清の弟の三宅清宣(きよのぶ)の伊保城。
 いまはトヨタ自動車で知られる豊田市の梅坪三丁目にある
豊田市の梅坪三丁目にある丘には、高清の伯父の、
「三宅右近太夫光貞の梅坪城」
 そして同じく今の豊田市挙母(ころも)町大字城本町には、三宅高清の義兄にあた
る者の、「挙母城」の、つまり四つの城が三宅氏にはあったのである。
『愛知県史』では、「永禄三年徳川氏に攻められ、城主三宅右衛門尉高貞は討死。城
は陥落しこれより廃墟となる」となっている。
「永禄三年庚申の年こそ徳川家発祥の年」という
神君二郎三郎が深謀をもって、信長を今川義元の本陣へ導いて裏切らせ殺
させた‥‥」という尾張徳川家の所説

松平蔵人元康の姉婿が三宅光貞‥‥そうか、あやつらは義兄弟
われこそは新田義貞の末裔世良田の二郎三郎なり。
「何をか申す。われこそは松平蔵人元康なり。いで、この槍先の錆にしてくれん」
 また槍の柄をたぐって、ひと突きにせんと掛ってくる。
それを二郎三郎は丁々発止と防いでいた
「うぬは誰でありしか‥‥」これには元康も怪訝そうに聞き返した。
 すると二郎三郎は、からから笑ってのけ、
「その昔、宮ガ崎の人質屋敷に居られた頃、和子さまの遊び相手として参上していま
したる者」と、それに答えた。
「ややッ、それでは吾が子竹千代を誘拐し、逐電なしたるは汝なりしか。いざ返せ‥
‥」
うぬら卑怯にも、よくも空から火の玉を落しくさったな‥‥男らしゅう尋常に勝負
せい。かく申すは広瀬の城主三宅右衛門尉高貞なり」と、大音声をはりあげ恨みつら
みをいった。
こりゃ昨夜、火を放ってきた広瀬三宅の兵か」酒井浄賢は
咽喉をならし声を震わせた。

広瀬城主三宅高清
広瀬城は興国5年(1344)、
矢作川を天然の堀として当地の豪族だ. った児島高徳が築城したといわれるが、永禄3
年(1560)時の城主、. 三宅高清が松平元康(家康)に攻められ落城した
11代目の三宅高清が織田方についたため永禄3
年(1550)松平元康(家康)に攻められ落城した 愛知県 (説明板より)
永禄3年、三宅高清が織田方に寝返ったため、松平元康(徳川家康)によって攻められ落城し、三宅氏は松平氏に臣従した。 天正18年、三宅康貞は徳川家康の関東移封に従い、武蔵見賀尻5,000石を領して移封(後に三河田原12,000石)して、東広瀬城は廃城となった。
三宅高清公の息子高貞

東方にそびえる標高108mの山頂に広瀬城はあります。
東西300m、南北150mのこの城は、1344年この地の豪族、児島高徳が築城、その後戦国時代には三宅高清の居城となったが、三宅氏は織田信長についた為、1560年松平元康(家康)は織田方の広瀬、梅坪、挙母の諸城を攻め、広瀬城は落城したそうです。

御船城址築城は応仁の乱で戦功のあった児島右京義明によりなされ、戦国末期の城主は三宅氏である

猿投神社猿投山の麓には猿投神社の本社、山頂付近には東の宮、西の宮が鎮座し、3つの社を総称して猿投三社と言う。南北朝の頃挙母城主中条氏は度々神田を寄付している

猿投山猿投山は標高629m、西三河に

佐久間 殿、三河の国、広瀬城主、三宅様にございます。

信長  三宅殿、面を上げられよ。よくお越しくだされた。

三宅  三宅高清にございます。

信長  佐久間、仔細を申せ。

佐久間 は。三宅殿をはじめ広瀬、梅ヶ坪、挙母の三つの城の三宅氏は、三河武士団として天下にその名がとどろいております。三宅殿は、矢作川をはさんで私の城と接するところにあります。
信長  三宅殿、誤りはないかの。
三宅  すべて佐久間殿の申された通りでございます。
木下  木下藤吉郎と申します。三宅様、信長様は上機嫌のご様子。よろしゅうございますな。
佐久間 こら、猿。出すぎたまねをするではない。
木下  はは。これは申し訳ございません。
三宅の息子 母上。ご心配くださりますな。われわれには、百丁の鉄砲がありまする。そ
して、なによりわれらは三河武士団。おめおめ死んだりはしませんぞ。
元康  それ。攻撃じゃ。松平の力を存分に見せてやれ。
家来3 三宅高貞様、山本様(家来1)討ち死にされました。
三宅  なに、高貞が?おのれ、元康め。
広瀬城は落城しました。三宅高清公の息子高貞様 は自害なされ、妻、娘も捕らえられました。

高清の伯父の、 「三宅右近太夫光貞の梅坪城」 そして同じく今の豊田市挙母(ころも)町大字城本町には、三宅高清の義兄にあた る者の、「挙母城」の、つまり四つの城が三宅氏にはあったのである。
三宅右近太夫光貞の梅坪城と児島高徳の東広瀬城

三河 豊田市 広瀬城 址

東広瀬城

あけち ひでみつ 明智 秀満 1537(天文 6) 1582(天正10. 6.14) ◇安土桃山時代の武将。初名は三宅 ... ヒサマサ)の父、長政(ナガマサ)の祖父。 1516(永正13)近江に小谷(オタニ)城を築いて城主になる。

「岩松八弥」
「天文23年(1554年)に主君暗殺の黒幕が佐久間全孝と知った松平家家老らは憤激し、義元の後盾で広瀬城に攻撃した」「松平軍と結託した御船・東広瀬城主の三宅高貞(右衛門太夫貞保)と三宅光貞(帯刀)らに攻められ、重行はついに居城に火を放ち自尽して果てた」
天文23年11月5日「御船ノ三宅右衛門太夫貞保 同名右近申合 佐久間全孝息長七郎ガ居城三州広瀬ヘ不意ニ取懸ケ乗取リ入城シテ御船ノ郷ヲバ三宅帯刀ニ与ヘ」(巻1 孕石竹千代殿ヲ悪口スル事 并ニ 三宅貞保三州広瀬城ヲ攻メ取ル事)。

東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保

熊野クマノ社シャ(佐久間町サクマチョウ大井オオイ間マ庄ソウ)社殿シャデン造ゾウ立リツ。地頭奥山平三定茂。『静岡県史資料編⑦』


天文13年(1544)8月26日水野下野守信元、今川反し、織田に属す。松平マツダイラ広忠、大と別離。家康3歳。形原松平紀伊守家広の妻も、水野忠政娘なので離縁


永禄3年(1560)20日「広瀬城(豊田トヨダ市シ東ヒガシ広瀬ヒロセ)戦タタカい」 松平元康、広瀬城三宅高清攻める。
永禄3年(1560)25日広瀬城ジョウ三宅ミヤケ右衛門ウエモン大ダイ夫フ高タカ貞サダ、松平元康に攻セめられ落城ラクジョウ討死トウシ。『岡崎市オカザキシ史シ①』
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# by kouhoka | 2008-01-30 18:24 | 三河の三宅氏

秀満と三宅氏の関係は母方を継いだ

明智秀満三宅弥平次、明智左馬助実父:三宅秀朝(?)、義父:明智光秀

三宅 重利 みやけしげとし (三宅藤兵衛)

明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係、三宅重利、山崎の合戦後に細川家に保護される、のちに細川家を辞去し寺沢家に仕え知行三千石、天草の乱では富岡城代として一揆軍と戦い討死した

三宅重利(明智秀満の息子。天草富岡城代。天草四郎率いる一揆軍に敗死。) 細川忠
隆(細川忠興の嫡男。後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となる。)

島原の乱
10月27日には天草でも蜂起し、11月14日に富岡城代の三宅重利を殺した。
1637(寛永14) 天草・島原の乱勃発、城代の三宅重利討ち死に
熊本県苓北町富岡字本丸
重利は山崎の合戦後、細川家に保護される。
その数3万7千にもなり廃城となってた原城址に篭城します! これに対処出来ず自らの
失政を認めずキリシタンの反乱として幕府に救援を求めます!

明智滅亡後ガラシアに従って細川氏に仕官した秀満の子・三宅藤兵衛重利(のち、
寺沢氏に仕え富岡 城主)と、三宅一族(式部大輔綱朝・藤兵衛秀朝・周防守業朝・孫十郎光景・出雲守某))

秀満が三宅を名乗ったのは、母方を継いだものです(母は三河広瀬城主三宅高貞の娘)。秀満は、 秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初は遠山景玄を称しています。

三宅出雲(長閑斎)は、秀満の実父ではなく、叔父(父の末弟明智光廉)で岳父
秀満と三宅氏の関係は母方との関連のほか、姉妹が三宅氏に嫁いでいます。

明智秀満は母方にいり、三宅弥平次を称す。
又天海僧正も、この三宅弥平次である。

ここで三宅系図
母は三河広瀬城主三宅高貞の娘であり、児島高徳の後胤とされる一族である。
三宅新十郎出雲弥平次(明智左馬之助)藤兵衛

三宅藤兵衛重利(のちに寺沢家に移籍して天草富岡城代。天草・島原の乱で討死。)



肥後細川藩侍帳

三宅平太郎 (南東50-1) 出雲 弥平太・秀満(明智左馬之助・光昌) 明智光秀女婿 藤
兵衛・重則(重利 初・与平次) (富岡城代三宅藤兵衛書状写) 1、藤右衛門・重元 人
持衆并組外衆 千五百石 (真源院様御代御侍名附) 千五百石 (真源院様御代御侍免撫 ...

三宅新十郎

1、新兵衛(二男) 御使番衆 七百石 (真源院様御代御侍名附) 
                七百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
                有吉頼母允組 御番頭 七百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                  **  ~ 寛文三年(病死)番頭
              細川光尚公御書出(正保二年)七百石
                  細川綱利公御書出(寛文元年)七百石
    2、新兵衛       延宝元年十二月~延宝六年九月 中小姓頭
                 延宝六年九月~天和弐年(病死)番頭
    3、九郎兵衛(養子 三宅加右衛門子)  
               人持衆并組外衆・金左衛門組 七百石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・平八郎
              細川宣記公御書出(正徳六年)七百石
    4、権兵衛・重房(初・平八郎)
                 正徳元年 ~ 享保元年 中小姓
                 享保元年 ~ 享保九年 留守居番頭
                 享保九年 ~ 享保十四年 番頭
              細川宗孝公御書出(享保十九年)七百石
    5、八郎右衛門(養子 実・白木氏 初・丹弥 新兵衛)
             (1)七百石 御弓廿張頭御中小姓御留守居御番頭 屋敷・山崎
             (2)御町奉行 七百石外百石
                 享保十八年~元文二年 熊本町奉行、寺社奉行兼
              細川重賢公御書出(寛延元年)七百石
    6、平八郎(九郎兵衛)  御物奉行 七百石 宝暦六子八月十一日当役
              知行引渡差紙(寛延二年)七百石
                  知行引渡差紙(貞享三年)七百石
    7、栄喜(養子 伊兵衛)   七百石
              知行引渡差紙(明和六年)七百石
              細川治年公御書出(天明六年)七百石
                  細川斎茲公御書出(天明八年)七百石
    8、八郎右衛門    御物頭列・大頭組 七百石
              細川斎樹公御書出(文化九年)七百石
    9、新兵衛    七百石
              知行引渡差紙(文政五年)七百石
    10、九郎兵衛  須佐美権之允組・御留守居御番方 七百石
              知行引渡差紙(天保九年)七百石
              細川慶順公御書出(万延二年)七百石
    11、新太郎(新兵衛・新十郎) 七百石


■ 三宅勝之進
     左馬之介光昌
     藤兵衛重利
    1、庄之介
    2、善左衛門
    3、勝之進   三百石七勺五才  御小姓役


■ 三宅平次郎
     出雲守
     左馬之介光昌
     藤兵衛重則
    1、藤右衛門重元
    2、伊兵衛   御弓廿張頭・金左衛門組 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、平二郎   三百石 御番方九番 屋敷・京町


○ 三宅(八木)勘三郎  
          (1)供之者・御扈従与也 百六拾二石壱斗壱升弐合三勺四才 (於豊前小倉御侍帳)
          (2)御小姓組衆 百六拾二石壱斗余 (肥後御入国宿割帳)
○ 三宅亀之助(吉左衛門嫡子・午ニ三ツ)  十二番津田治左衛門組 十二人扶持 (御侍帳・元禄五年比カ)


■ 三宅作太郎    御船頭 (南東58-21 船)
    1、清兵衛  拾石二人扶持
    2、五郎兵衛
    3、新助
    4、兵左衛門
    5、兵左衛門
    6、伴助(兵左衛門・夘左衛門)
    7、伊吉(伊三太・伴助)
    8、夘左衛門(五郎左衛門)
    9、作太郎

三宅藤兵衛重利)は寺沢堅高の家臣となり、天草富岡城代であったときに、天草の乱の際
に天草四郎率いる一揆軍に殺されました。
南光坊天海の息子、三宅藤兵衛重利
明智秀満の子三宅重利の嫡子重元の子孫。光尚に召され1500石。
三宅藤右衛門重元
明智左馬助秀満の子で島原乱で討死にした寺沢志摩守家老三宅藤兵衛重利の子。
 自らも千石備頭、乱に当っては天草富岡城に籠城。寛永十九年長岡休無(忠隆)の勧めにより弟新兵衛重長、同右京と共に熊本入り、光尚公召し出し百人扶持。正保二年千五百石。上着座次席定席 の家格にて代々重職を務め明治にいたる。


三淵家・・・細川藤孝の実弟長岡好重の嫡子三淵重政の子孫。忠興に召され3200石。老中。

「遠山の金さん」は明智光秀の同族? ◆遠山左衛門尉景元
寛政5年(1793)~安政2年(1855)
通称金四郎。時代劇で有名な遠山の金さんが江戸北町奉行に任命されたのは天保11年(1840)3月2日。
遠山家は源頼朝の家臣・加藤次景廉が美濃国恵那郡遠山荘の地を与えられ、その長男の景朝が遠山荘にちなんで遠山氏を称して岩村城を築いて祖となり、その子らが三家に分かれ、その内の明智遠山氏が金さんに繋がる。

・岩村遠山氏(本家)
・苗木遠山氏(分家)
・明智遠山氏(分家)―直景(北条早雲に従って退去。以後相模遠山氏)―景行(明智家から光安が入って遺領引継?)―景重(江戸遠山氏)―景好―景晋―景元(金さん)

南光坊天海(実は明智光秀?秀満?)
秀満は、 秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初
は遠山景玄を称しています。


幕末期に活躍した坂本龍馬の生家に伝わる伝承によると、坂本家は明智氏の親類である長宗我部氏を頼って落ち延びた明智秀満の子の末裔とされており、「坂本」は坂本城があった近江坂本に由来するという。
晴豊が秀満の妻に引き合わせた継子の一人が太郎五郎、もう一人が細川家に預けられた三宅藤兵衛重利。

富岡城代三宅重利は明智光秀の娘婿秀満南光坊天海(実は明智光秀?秀満?)の子供

三河広瀬城主三宅高貞
父は第12代明智城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。
東広瀬城 豊田市東広瀬町 伝承では興国5年(1344)児島高徳が築城したといわれる。
三宅 高貞 みやけたかさだ. 三河・広瀬城主、三宅右衛門尉高貞、松平清康に居城を攻められ討たれた。
三河国広瀬城主佐久間全孝が遣わした岩松弥八に暗殺されたともいわれ、あるいは、病没 竹千代は、八歳(六歳四ヶ月)家康
西加茂郡広瀬城主佐久間全孝の謀略により岡崎城で家臣岩松八弥に 刺される。
岩松は加茂郡広瀬城主佐久間九郎左衛門に命ぜられてのもだとも言う
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%C5%B7%B3%A4/detail.html?

三河 広瀬城主佐久間九郎左衛門

1533年佐久間全孝が入る。1549年全孝は
岡崎に刺客岩松八弥(片目の八弥)を送り込み、松平宗家8代広忠は殺害される。1554年佐久間九郎左衛門重行(全孝)の子長七郎居城の時、御船、東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入る。1558年高貞は織田方に寝返り、松平元康に攻められ、1561年の再戦で大敗した。
岩松は加茂郡広瀬城主佐久間九郎左衛門に命ぜられてのもだとも言う(岡崎古記)。
天文十八年(1549)三河・松平広忠、佐久間九郎左衛門に謀殺された

1558年高貞は織田方に寝返り、松平元康に攻められ、1561年の再戦で大敗した。1560年「桶狭間の戦い」の際、佐久間信直は
信長方の善照寺砦を死守し、戦功を挙げている。1576年頃、佐久間信盛も居城したが、その後、信直、甥の正勝は織田信雄に属し、1584年「小牧、長久手の戦い」で蟹江城を護り、軍功を挙げた。
佐久間信直兄広瀬城主佐久間九郎左衛門(全孝)二男佐久間信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間右衛門尉信盛

広瀬城主佐久間九郎左衛門(全孝)ー二男佐久間信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間右衛門尉信盛ー

高徳ー高光ー正綱ー正光ー弥平次ー朝次ー信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間信盛ー信栄と続く児島宮。

明智左馬助秀満は備前三宅氏、児島高徳の血統という名門の出。
旧姓 三宅。光春、弥平次。
光秀の二女(伊丹城主荒木村重の嫡男村安に嫁いだが、村重が信長にそむいたため離別され秀満に再嫁した)
この為佐久間信栄は子息秋月長興に命じ荒木村重女二人を信栄の世話で家臣田代に嫁がせたとある。荒木又兵衛姉二人が嫁いだ。


紫野大徳寺高東院の高徳廟は、細川三淵家家の佐久間信栄の死により殉死した一族の墓が同所高徳廟に、埋葬されている。
後に細川忠興も隣に、石碑が立てられたのは、姻戚からの、ことであろう。



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# by kouhoka | 2008-01-23 14:12

日光東照宮の建築造形方創設者は誰か?

日光東照宮の建築造形方には、見てめずらしい、と感じるものもいれば、そこからつかむ、何かをという、表現がある。
これを、主のみちびき によってなされた事だと、する考えは日本にはただ一人の人物しか、いなかった。桃山時代までは戦国の世の中で、このような、事を言い伝えられた人物や記録した人物も、見えない。

このことは現代でも同じことが言えるでしょう。
この「みちびき」を何も感じないで読んでいるのと、同じことである。
これは人間の能力の測り、が計測できるのか出来ないのかを、表わしているが、明治以降に、これが判る者は学者や有名教授とてわからないでしょう。
神のお導きを、伝えることが出来るのは、この著者だけだろう。
このことを、神の世界では「とうとい」と発言する。
尊いとは、神の世界にしかないと云う、事なのです。
これを伝える事が出来るのを、伝統と言い表します。
自然のおみちびきにさかろうたらいかん。
人類の叡智は、”天使のみちびき”に違いない。

この事から主のみちびき によってなされた事だと、する考えは日本にはただ一人の人物しか、いなかった、となるのです。
物の始まりのこと、同じ事なのです、これで皆さんは、どう、感じられましたか、これくらいの事は、判っていると、答えられる人物が、今の日本にいると思いますか?
これが仮に、それくらいと答えた人は、ではあなたは、天孫は誰かと、尋ねたら、答える事が出来ますか?
これが判るのが、天孫しかいないのです

ここで、日光東照宮の建築造形方を、伝えたのは、いったい、誰だと、思いますか?
それくらい、前から判っていたと、いう人は、何人もいるでしょう、が然し、現実には、それは出来ないのです。
歴史で知られる人物は江戸の創設に名が上がっている人物では、大田道潅や、天海僧正くらいしか、いませんね?

何人もいない、はずです。

では大田道潅はどうでしょう?本当に、「神からの伝言」が託宣されていたのでしょうか?になるのです。
これしかないわけです。
大田道潅に関する書物の中に、先祖の中で、記録されていたか?で判ります。
江戸城を築いて東京の基礎を作ったとされている?

天守閣(天主閣)という言葉が初めて使われたのは織田信長の築いた安土城。
江戸城天守閣は大田道潅が建てた望楼式の櫓建築で、静勝軒と呼ばれ後北条時代もそのまま存在していましたとある?楼閣

が現実に楼閣は、弥生時代に始まっていたのですが、奈良飛鳥、平安時代に於いては、寺社を除いては、見えていません。
それほど、恐れ多いものでした?そこには神の託宣なしでは、出来ない暗黙の世界があったからです。
織田信長の言葉がこれで誰も知っている、吾は神なりと、したことに反復して、殺されたのは、いうまでも有りません。
天罰がくだったという、事になるのです。
この成敗は誰の手によっても?天守閣(天主閣)や日光東照宮の建築にも、答えが出ています。
いまでは、歴史作家堺屋太一も、推理していて、こんなことが言われていますね?犯人探しでは、明智光秀?いや時の天皇か正親町天皇?足利義昭前将軍? 明智家の重臣、斉藤利光の娘が長曾我部元親に嫁いでいる。いや、秀吉?

これはみんな想像が、間違っているといえます。
これを解く鍵は、江戸城を築いて東京の基礎を作ったと同じ、内容解釈になります。

主君に謀殺されるという悲劇が起こったのだ。文明18年(1486) 7月、伊勢原の上杉定正邸に招かれた道灌は、もてなしを受けた後、風呂から上がったところで定正の家臣に殺された。
ここに、はっきり、記録されていますので、後世に誰がが、いいふらしたのでしょう。
大田道潅ではなかった、ことが判りましたね?
ではもう一人の、人物、天海僧正は?
天海僧正」と日光東照宮の建築造形方
天海(てんかい、1536年(天文5年)? - 1643年11月13日(寛永20年10月2日))は、安土
桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧である。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の
ブレーンとして江戸幕府の設立に活躍した政僧。南光坊天海。
三浦氏の一族である芦名氏の出目で、陸奥国に生まれたとされる。
「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。
遺言を天海らに託す。とこれは後世の作者が書いただけのものです。
「三宅輪宝」は、文字通り三河国豊田市の三宅氏の家紋である。家紋は苗字と同じ。


天海という僧が突如、歴史の舞台に登場します。この天海は、それ以前はどこで何をしていた人物なのか全く不明です。とある
春日局と天海?の関係
春日局は、本名「お福」といい、光秀の腹心の部下であった斉藤利三の子である。斉藤利三の妻は光秀の妹。
家康の帰依を受けるようになったのは慶長一四(1609)年のころ
織田信長に焼かれた後の比叡山の復興、川越・喜多院の再興、東照宮の造営、上野・寛永寺の建立などにも深く関わった

11歳の時に出家し、比叡山、三井の園城寺、奈良の興福寺などで学問と修行をおさめ、天台宗の寺院の住職を歴任したあと3代将軍に仕え、108歳の天寿を全うしたと伝えられる。

芦名重盛という殿様に攻め滅ぼされ、この重盛が江戸崎城主になっていた。重盛公は天海僧正という大変偉いお坊さんを連れてきた。天海僧正は慈眼大師ともいわれていた。不思議な力を持っていたので天下人の徳川家康の知恵袋として徳川家に迎えられていた。
 その天海僧正がこの江戸崎へやってきたのだ。天海は重盛公の計らいで不動院の院主(住職)になった。


狩野探幽作という 「天海大僧正画像」ここに出目が出ている?

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天海の生い立ち
漆塗り職人の子として誕生しました。天海が生まれたのは会津(あいづ)高田(今の福島県)で幼名を兵(ひょう)太郎父は舟木(ふなき)氏、母が芦名(あしな)氏の出といわれています。
この頃は、蘆名盛氏の直下に置かれて、塗り師を父はしていた。
ここには、天海が天文学を、受け継いでいた事は、ありえない、この後に、明智光秀の姻戚関係から、明智秀満と名乗る。
ここに佐久間信盛から、明智光秀が率いられて、付いたのが織田信長であった。
当然、この頃も、まだ天文学を、受け継いでいた事は、ありえない、それは武士に引き立てられたからである。
ここに佐久間信盛と、芦名重盛とは、姻戚関係があった。これは三浦氏の一族和田義盛、に関係している。
ここに三宅氏、との関連があり、天海が三宅氏出身だとされている。
これを語るには、明智秀満の過去について、調べるとよい。

父は舟木氏母が芦名
福島県伊達市保原町富沢字向舟木
福島県伊達市保原町富沢向舟木
福島県会津若松市 舟木(ふなき)
     伊達市   向舟木(むこうふなぎ)舟木(ふなぎ)
陸奥国大沼郡の生まれで芦名氏の一族
◆会津若松の南西、高田町。
◆天海は芦名氏の一族である舟木景光の長男として誕生した。(1549年生まれ)
『新編会津風土記』は永禄三年(1560)天台宗・道樹山龍興寺にいり、随風といった。11歳で僧となる。1536ごろ 随風(天海)

二本松氏(にほんまつし)は陸奥国ニ本松城に拠った二本松畠山氏が嫡流、家臣の子孫・船木景光。
二本松氏(にほんまつし)は(1345年)畠山高国と吉良貞家が奥州管領に任ぜられて陸奥国に入った。戦国時代に入っても、周囲の伊達氏や蘆名氏などの有力国人に圧迫された、天文16年(1547年)、二本松畠山氏十四代を継いだ二本松義国の頃には『二本松畠山家、次第に衰微して、ようやく安達半郡、安積半郡を知行せられ、この節、会津の蘆名盛氏の武威輝かしかば、彼の風下にぞ属せられける』と古記録にはある。源姓足利氏の系統


舟木景光
父は二本松畠山氏家臣の子孫・船木景光。母は葦名盛常の娘。陸奥国会津郡高田郷の出身で三浦氏の一族

信玄没後、葦名盛氏の請で黒川城稲荷の別当になる。磨上ヶ原で敗れた葦名義弘と伴に、江戸崎(霞ヶ浦南岸)に移住。
天海が死去したのは寛永二十年(1643)、百十歳
こうしてたどって見ると、どの時期、(天海)が知識を身に付けていたとは、ならない。
ここに、(天海)と関わっていたのが、同じ徳川家康の伽をしていた、佐久間信盛子息、不干斎甚九郎であった。
すべての要因はここにあり、ものの根源は、この佐久間甚九郎にあります。

ここで、神の手縛を表わすものが、伝えられております。相撲甚句は、佐久間甚九郎によって、はじまり、それが甚句の始まりとも言われている。
これは神の祝詞に類する、祭祀で、天文学が判るからです。「甚句は神の九に由来する」
まだまだ他にも、記録されている天文学に関わる、ものは、
佐久間甚九郎が、秀吉の朝鮮征伐の頃に、九州の天草で、日本最初の活版印刷で、「イソップ物語」を本にして、つくりました。ここには童話と神話が、一体となっていることに着目されたい。
勿論、安土城の設計も、佐久間氏以外には、天文学を身に付けた人物は、いなかったとなります。
佐久間甚九郎と天海り先祖は、同じ児島高徳となる要因かも知れない。
明智秀満事天海は、徳川三代家光まで、同じところに、いた事はあまり知られていません。
明智秀満室(元は荒木村重の息子に嫁いでいたが、村重謀反の際に光秀の下に戻された)、嫡男光慶(十五郎)がいる。
明智秀満(?~1582?) 左馬助、三宅弥平次。これが天海

あけち ひでみつ
1537(天文 6)
1582(天正10. 6.14)
◇安土桃山時代の武将。初名は三宅弥平次。明智光秀の弟。
光秀の女婿(妻は細川ガラシャ
の姉)で元は三宅弥平次といい、『明智軍記』では左馬助光春の名
明智弥平次秀満である。秀満は光秀の長女を娶り明智姓を名乗った
秀満は光秀の信任厚い侍大将で、丹波福知山城主となった。
信長を討ち取った後の近江平定の際、先手を務めている。
明智左馬助秀満や明智弥平次秀満等とされる。明智光秀の娘婿である明智秀満(光春)弥平次、旧姓:三宅
明智光秀の妹が、母である家老級斉藤利三の妹は、土佐の長宗我部元親の妻である。
(秀満)の三宅左馬介光昌 「三宅左馬介光昌は弥平次秀満」

妾腹の子、太郎五郎が、いるとある。(土佐坂本家)
維新の英雄の一人、坂本龍馬の実家は「先祖は明智弥平次秀満?。
東照宮のある日光には明智平という地名がある、名を残す?
藤兵衛重利は三宅弥平次の子天草の乱の際に討ち死。

天正10年(1582)6月15日
丹波福智山城主。三宅弥平次(三宅藤兵衛綱朝の実子もしくは養子)、正六位下。
、細川家から移籍して唐津藩主・寺沢堅高の家臣として天草四郎率いる「天草・島原の乱」一揆軍と戦って討死した天草富岡城代・三宅藤兵衛重利はこの明智秀満の子である。また幕末期に活躍した坂本龍馬の生家に伝わる伝承によると、坂本家は明智氏の親類である長宗我部氏を頼って落ち延びた明智秀満の子の末裔とされており、「坂本」は坂本城があった近江坂本に由来するという。
天海が秀満というのは、家紋でわかります。その家紋は、「丸に二つ引き両」と「三宅輪宝」です。前者は足利と同時に遠山の家紋、後者は三宅氏しか用いません。
秀光は最初、遠山景玄、次に母方を継いで三宅弥兵次、さらに光秀の娘婿となってから明智秀満を名乗ったのです。父は、ご存知のように遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘です。弟の利景が旗本遠山の先祖で、金さんの先祖となります。

光安は斉藤義龍が父・斎藤道三に反旗を翻したときに道三側についたため、義龍の軍勢の攻撃を受け、居城・明智城は陥落。
一説によれば、明智光安には光春という子が居たが余計な疑惑を避けるため、三宅氏に養子に出し、これが後の明智秀満であるという。
『明智軍記』によると、光安は城中に居た光秀、光安の子の光春、弟・光久の子の光忠らに明智家再興を託して場外に逃れさしている。

土岐頼貞─頼基──頼重──土岐成頼ー頼尚ー明智光継ー光安ー秀満

明智光継
あけち みつつぐ別名:頼典、十兵衛尉
子供:長男…明智光綱、次男…山岸光信、三男 …遠山景行(明智光安)、四男…小里光忠(明智光久)、五男…原頼房、六男…明智光廉(三宅長閑斉)、長女…小見の方、次女…斉藤利賢の妻(後に石谷光政の妻)

明智光綱の弟の光安が後を継いでいる。という事は、姻戚から、あり得る、遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘三宅氏に養子に出し、三宅弥兵次、これが後の明智秀満であるという。以後三宅弥兵次を名乗る。
ここより、遠山景行(明智光安)が妻の、里三河広瀬城主三宅高貞から、嫁いできていた事から、児島氏と姻戚が始まっている。

三河広瀬城主三宅高貞
父は第12代明智城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。

http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=203
秀満は、 秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初
は遠山景玄を称しています。
秀満と三宅氏の関係は母方との関連のほか、姉妹が三宅氏に嫁いでいます。現在の明智町の三宅氏はこの系 統です。
三宅出雲(長閑斎)は、秀満の実父ではなく、叔父(父の末弟明智光廉)で岳父です。光秀の長女、次女は、
実際には三宅長閑斎の娘です。このことは、喜多村家に伝わった「明智系図」と『美濃国諸旧記』を見比 べればすぐにわかります。

東広瀬城 豊田市東広瀬町 伝承では興国5年(1344)児島高徳が築城したといわれる。

松平久子の娘(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いでいる。利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智秀満である松平七代清康(家康の祖父)の妹・久子の墓がある。
久子は、家康が生母於大と生別して以来、家康を養育した人。
明智秀満と遠山利景の兄弟の父は、明知城主遠山景行、母は三河の広瀬城主三宅高貞の娘である。



三宅 高貞 みやけたかさだ. 三河・広瀬城主、三宅右衛門尉高貞、松平清康に居城を攻め
られ討たれた.

三宅 重利 みやけしげとし (三宅藤兵衛)

明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係、三宅重利、山崎の合戦後に細川家に保護される、のちに細川家を辞去し寺沢家に仕え知行三千石、天草の乱では富岡城代として一揆軍と戦い討死した




天正八年(1580年)頃本能寺の変に際しては本能寺に織田信長を攻める。


今の皇室の天皇や美智子さんは、この事をわかっていたかも、鍵になります?

「神からの伝言」が託宣されていた、人物が天孫の証拠です。
ここに、神の手縛の歴史があるのです。
ここで、現代の相撲は、誰が開いたのでしょうか?これと、日光東照宮の建築造形方創設と、同じ、事が言えるのです。
「おおそれおそい、事をしてはならぬ」

これを破る現代社会は、どんどん奈落の底へ、落ちているのです。
現代で起きている、ことば、の伝達や聞き取り方が出来なくなったと言われているのも、これが、示しているのです、それは神への反感が根深いことを、表わしています。



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# by kouhoka | 2007-12-23 08:42

相撲と角かどルーツ

抹茶を使う日本の茶道とはルーツからして異なると思います。 ... あ、あと、手乞についてご存じの方はいらっしゃいますか?相撲の起源らしい
日本の文化は日本のものです。
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ルーツへの原点回帰こそ歴史そのもの
闘牛は、色々と考えさせられる所があり、ルーツ ... があっちにも、こっちにも、この角あわせ。
相撲と角かど
東と向正面の角西の角は原則になっているかたや、ひがし方まるまる山西方まるまる山。
耶麻と山のぶっつかりが相撲の起こり。

角力ともいう。

中国には、960年に書かれた『角力記』という書物がある。 相撲と?角との違い. 日本の相撲は江戸時代に土俵ができたが、中国には古来より土俵は存在しない。
古代より互いに組み合ってから、相手に投技をかけあう格闘技。

中国の格闘技で、漢書には手縛と表現されていた、後の時代によって角抵・角抵戯・角觝・角力・相撲・?角と表現が変わる。
中国の歴史角力は、また「角觝」、あるいは「角抵」とも呼ぶ。魏晋南北朝時代からは、「相撲」(すもう)http://peopleschina.com/maindoc/html/200406/fangtan.htm
春秋戦国時代の前は、角力は軍事訓練の一つであった。
前漢の正史『漢書』「武帝記」の元封3年の記録には、「春、角抵戯をおこない、三百里のうち、みなこれを観る」とある。

◇「角抵」「角抵戯」「相撲」等の用語の由来
相撲/頭からぶちかまして押し合う相撲の起源。
動物調教は、春秋戦国代以 来角抵や百戯からおきたものらしい。
相撲にあたる中国の格闘技で、漢書には手縛と表現され、後の時代によって角抵戯・角觝・相撲・シュアイジャオと表現が変わる。

角(しゅつかく)、シュアイ・ジャオ(''shuai-chiao''、シュワイ・ジャオ)とは、日本で言う所の相撲。相撲の源流。
歌戯・百戯・散楽・角抵 歌舞戯 等がある。

日本や中国では朝鮮相撲を相撲、角力、角戯、脚戯、角抵、角てい、高麗戯、僚こうと表すが、朝鮮語ではシルムである。自然と伝統文化
闘鶏、競馬、競犬、蹴鞠、角抵戯、呑刀、呑火、 魚龍、漫衍なども。 元封三年の角抵戯では、畿内三百里から観衆が押し寄せたという

中国の「摔角」(シュアイジャオ)(そうかく)である
漢書には手縛と表現されていた、 後の時代によって角抵・角抵戯・角觝・角力・相撲・摔角と表現が変わる。

「浙江余姚河姆渡」
農耕に従事させた。呉は気候が温暖で、土地が肥沃なので、三国から東晋にかけて、避難のため江南に移った。浙江はもともと経済が繁栄し、文化が発達していた上に、中原、北方文化の新しい要素が加えられて、内外が交流し南北が融合し、更に角抵、百戯も習った。
浙江余姚河姆渡で骨哨(骨笛)を139本発掘した。そのうちの1本は、長さ10センチ、横に6つの孔が開けられていた。ほかに孔吹きの陶?(陶土笛)があった。ここでは、骨笛や土笛は単なる労働や狩猟の信号だけでなく、簡単な音調があることから、原始的音楽・舞踊の独創の吹奏楽器になったのである。
河姆渡文化で残されている多孔骨笛と穴吹き陶土笛は、古越の肥沃な土地における音楽・舞踊文化の最も早い実証と見られる。古越舞踊に関する今までの最も早い文字による記録は、「祭防風氏舞」である。
http://www.zhejiang.gov.cn/zjforeign/japan/node248/node249/node255/index.html

仲尼曰く、『丘これを聞く。昔、禹、群神を会稽の之以に致す。防風氏、後に至る。禹これを殺戮す。その骨節を専ら車(けず)る。これを大と為すべし。』と。客曰く、『防風氏、何れの守や。』と。仲尼曰く、『汪芒氏の君なり。封の守。嵎之以の者なり。』と。

「封:封山。嵎:嵎山。現在の呉郡永安県にある。」永安県は西晋太康年間に武康県に改められ、現在、浙江省徳清県に属する。
。「昔、禹は塗山に集会した。玉帛を献上する者は万国を数えたが、防風氏は遅れて来た。禹は彼を殺したが、彼の身長は3丈もあり、骨をわざわざ削った。現在、南に防風という姓があるが、彼の末裔であり、皆成人している。越の風俗を守る。防風神を祭り、防風古楽を演奏する。竹を3尺の長さに切り、それを吹いてその音は吠えるようである。3人で髪を結わないままに舞う。」舞踊の歴史から

奴隷制政治と経済の現れとして、不可避的に祖先祭祀、神霊、英雄崇拝が一体に結び付いた音楽・舞踊は、浙江省の他の地方にも見られる。例えば、金華市磐安県深沢郷金溝遺跡から出土した商周楽器青銅鐃は、祭祀用具であると共に、士気高揚のための手柄者祝賀宴会のときの打楽器でもある。春秋戦国時代、浙江省は呉、越の覇権争いの地であった。呉が滅亡して越になり、後に越が滅亡して楚になる。秦が中国を統一してから、全国を36郡に分けた。その時期に、巫呪術的舞踊が流行した。「浙江の古百越人……先秦時期……祭祀は厖雑で、巫術が流行した。」(于?《浙江?俗概?》)巫の仕事は、音楽・舞踊で神様を楽しませることであり、また、巫術の中の巫舞は特殊形式の民間舞踊である。余杭良諸反山遺跡から出土した文物の中に、遅い、速い太鼓の音にあわせて歌い、袖を振りながら舞う絵がある。また、浙江省嘉興市海塩県長川?で戦国時代初期の原始磁質楽器45点、編鐘1組13点、及び紐鐘、勾?鐓于などの多くの楽器が発見された。それらの楽器の出土は、古越の王侯貴族、少なくとも資産家の当時の歌舞享楽を証明している。紹興306号戦国墓から出土した銅屋模型は、中に楽師が6人跪いており、前列東一番は太鼓叩き、西二人は歌い者、後列の三人はそれぞれ笙や琴を奏でたりしている。銅屋に舞う巫はいないが、歌舞で神を楽しませる儀式であることは明らかである。その文物は、奴隷社会から封建社会へと転換する舞踊には、楽器の伴奏及びある程度の体裁や儀式があったことを証明している。同じ時期は、民間と王室官邸の間で女楽倡優も活躍していた。彼らは民間で歌ったり踊ったりしたが、種々の原因で、王侯貴族の好みに合わせて民間の歌舞を作り直して、宮廷において新しい舞踊の形式を形成させた。伝説では当時、越国?蘿西村(今の浙江省諸曁南)の人施夷光――西施の舞踊がその典型の一つだと伝えられている。漢・趙曄著「呉越春秋」及び明・梁辰魚著「浣紗記」にいずれも西施が舞踊を練習した記述が見られる。紀元前491年、越国が呉国との覇権争いに敗れ、西施が越王に呉国に送られる前に、紹興土城で歌舞儀容を練習した。呉国に到着した後、美貌と歌舞で呉王夫差を惑わせ、呉王は「盛んに妓楽を楽しみ、一日中西施と歌舞や水遊びを楽しみ……国事を疎かにした。」
西施が「館娃宮」に入ってから、よく宮女たちを率いて、足に下駄を履きスカートに小鈴を吊るして木の板で踊った。明・張岱著「陶庵夢憶」で明の人が演じた西施歌舞を詳述している。長い袖と緩やかな帯、体を廻らして輪の如く、身を回すと、たおやかで、弱きこと秋薬の如し。
http://www.zhejiang.gov.cn/zjforeign/japan/index.html



相撲は後鳥羽上皇が民に取らせたのが始まりと言われる。
院が隠岐島に流されてから、
その隠岐でも、始められたのがこの、
牛相撲で、院の流れの児島高徳の後胤佐久間宮家は、江戸になり、現在の相撲を始めたと同時に、甚句も生み出して、相撲甚句は他に甚九郎甚句とも云われる。
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# by kouhoka | 2007-12-06 13:34 | 相撲と角かどルーツ

神の手縛と表現した甚九郎

神に従属していた宮家ならではで、手縛とは自然に教える手立てなり。
教育とは意味が違い、憲法のような、ごり押しする事ではない。
これを取り入れたのがようやく、戦乱のおさまった、江戸になり家康の伽衆に居た佐久間甚九郎なる者によって、はじめ、られた。
甚句はこの相撲にも取り入れて、相撲甚句の語源はこの、佐久間甚九郎から、取り入れた名称なり。

このような、発想は神に従属していなければ、何も生み出せないのは、云うまでもありません。
この佐久間甚九郎はまだ他にも「平家物語」の作者としても知られている。
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佐久間甚九郎墓 京都大徳寺高東院宮家墓所 代々の墓が並んでいる。
現在は細川家で知られる。高桐院は、以前は宮家児島高徳から始まる。一休上人とは縁戚。

ここから神の法則が、江戸にも伝えられた。
天海も佐久間甚九郎の縁戚である。明智で知られる光秀の養子となり、本名三宅光綱という。
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# by kouhoka | 2007-12-06 13:26 | 神の手縛と表現した甚九郎

神々が選んだ人間の為の役割

日本古来より伝わる縛りの数々を古典緊縛を継承する
これはいろんなものに応用されている。
起源は善悪の測りからきている。

神がさずけしもので、野獣の中から、つくり上げたものの、手だて、がこの神の法則で、手立てにより、人間にすることになっていた。
この神の法則で、以って人間が生まれました。
ここに従うものが人間で、神の法則に手縛従わない者は、けだものとなる。
角から生まれるたづな、という。

外縛の印(げばくのいん)左右の手を合わせることを、合掌といいます。仏教では右手で仏さまを、左手で自分を表す
真言宗では、合掌は自分が仏さまと一体(つまり仏さま)であるということを示しています。
日本用うる所の柔術也」を「中国には拳法という武術があり手縛ともいう。
人は緊縛に魅了され、自ら縄を手に ... を踏まえ「応用」を施したものです。

表具とは 経巻および書画を保護・装飾することから始まったのが表具です。
泛縛(うけしばり)→上張(うわばり)という順序で張る。
中国より伝来して以来、創意工夫により、独特の発展をしてきている。
絹や紙に記された書画が、千年を越えても今なお残存している様に、巻くことにより、痛まないように保存できる。

「手綱(たづな)」とは
馬の首にかけてこのつなを人がつかんで 馬をあやつりました。
馬は農作業をするときや荷物を運ぶときにはとても大切な役割をしたのです。

神々が選んだ人間の為の役割のことを云う。

馬結び. 馬の手綱(たづな)を結ぶときの方法です。
これのように、日本人は結ぶことがかせられている。
無論神とのむすびの事なり。

現代はわがままになっているので、神のたずな、がきれているのです。
かわりに?憲法で縛られている。これが自由と言えるか?はきちがえもある。
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# by kouhoka | 2007-12-06 13:15 | 神々が選んだ人間の為の役割

平山とは天空とある事から天の神という

>天空を耶麻という。
解釈では平山とは天空とある事から天の神という
だから耶麻台も天空の事になるのですね?早くいえば
「天(あま・あめ)」=「邪馬・邪靡」
神々の住まいは、天空にあり、宇宙万物すべてを支配している
これでいいでしょうか?
神話上の神々が住まうとされた
女神の住まいである天空を目指し成長を続ける。
天空の城は、神々の住まいである
天空です、空想のことでは、ないのですよ。
邪靡は天空にあります、すべて三神は天空にある。
yam天空部落 とかいいます。
天空神のことを、天神とかいいます。
これらを相して平山とは神の王と言われていました、ゆえに、天皇の総称ともなります。
ウガヤ、神武天皇、舒明天皇、天智天皇、桓武天皇、後鳥羽天皇皆、王の名ひらやまと、いふ。

「天草」(あまくさ)の由来「苓州」

苓北という名前は天草全島が「苓州」と呼ばれていたことでつけられました。 「苓」は「あまくさ(甘草)」を意味し、苓州の北部に位置する町ということで「苓北」と名付けられました。
由来は天草の別称「苓州」の北側にあることから。
テングサ・天草(てんぐさ)
天草の別称「苓州」
天草100%のところてん
天然天草を使用し、市販の寒天よりも柔らかいです。
天草の主流であるマクサ
「晒し天草」としてトコロテンの原料となっています。
平安時代から日本人に親しまれてきた海藻で、かつては天草に混ぜる配合藻として寒天製造によく使われていたそうです。
テングサ科のオバクサ属に属するオバクサは、ドラクサとも呼ばれ、マクサに似た形をしていますが、枝そのものがマクサよりも太いのが特徴です。
天草れいほく由来
実のところ中国古来の三州の一部にはいっていたのでしょう。
「苓州」「泉州」「越州」が三州です。
造園策定でも使われています,何が大切なのかと?

中国古来の三州
中国古来の神仙と同列に表現されていました。
「苓州」「泉州」「越州」が三州です。
中国古来の神仙、鬼神

中国では五代十国の時代に焼造された、越州
中国古来の思想・道徳
日本古来のアニミズム信仰に関係するもの
中国古来の霊山であり、神仙への信仰の対象となった「崑崙山」である。

中国南方諸国の崑崙人には、貴州、雲南省の民族を当てはめることができます

勾践、諸侯と徐州で会同し、覇者となる. 越王允常が没して、子の勾践が立つ。 ... 古来、 臣下のあり方としてこの両者は例にあげられました。

これはシュメール信仰の表現したもので,中国の西湖にも三州庭園 があり,有名です。 ですから,三州の内のれいしゅう,というものが,一番大切な宝物という意味が込められています。
中国の西湖をモデルにして造られた大濠公園。

中島には、中国で仙人が住 むと云われる山、蓬莱山「崑崙山」
この形式が、三州の由来となっています。
金閣寺もこの西湖のことを知っていた人が、模してつくりました。
正式名称を臨済宗相国時派鹿苑寺といいます。
中国の西湖を模して創られたものです。小石川後楽園西湖の堤と園路をはさんで向かい側に位置しています。
蓬莱形式の枯山水庭園


「黄帝封禅不死」や「渤海に蓬莱・方丈・瀛洲の三神山がある」とした伝承
東方にあるという不老不死の妙薬がある。 三神山の一つ。



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# by kouhoka | 2007-11-14 12:16 | 平山とは天空とある

天王史観を植え宮家先祖になりすまし、国民をあざむく

皇位は、皇宗の神裔(しんえい)安国と夜須国は比類している。是太一事也。
神々が記載されている「古事記」における、はじまりは、あるモノのはじまり、からである。神々の多くが万物の神となって、いるのは、みなさん知っていましたか?まだ解明されて居ないようですので、幕開けにならないと、何も始まらないでしょうから、こちらで進めていきましょう。これらの神々は、あるモノに宿りそれを、古代の人達は神に例えていたのです。

人々は「理想の王」と崇めた醜いアヒルの子と同じで 実は白鳥だったから空を飛べましたそしてつづきが「いちだんと輝いていました」これがこの原型は、角力にあり、禹に角天に委ねるモノらしい。静と動が入り混じると書いたが、静はまるで誰かに語りかけるような美しい音と規制を利かせた不協和音を上手く取り入れなければ、ならないのです。

夜須人について述べよう。弥生の名は土器から付けられた名で在るゆえ、ここでは、年代を取り上げてみました。起源は紀元前200年前の頃、中国では丁度秦時代の頃、秦の始皇帝が除副仮の名で記されていました。この一団が住み着いたのがここ夜須(この頃はまだ夜須とは呼んでいません、では何とつけていたのか?皆さんは祝詞のことは、ご存知であろう。この祝詞の中にちゃんと、記憶されていたのです。

夜須という呼び名 の言語 日本語は語彙にある。古代語原型について、どうして出来たのか? それから調べてみよう。古代語の語と彙 文字、絵文字、記号、亀甲亀裂等に伝達形式が残っている。語彙は音韻変化語と彙が結ばれて出来た。語はあいうえお、彙は語の複合したもの。で語彙が出来ている。神はかとみの語彙なのである。

日本人が知らなかったこの神社が、この国で神様の始まりの地だという事が、夜須の地名の夜須は夜須礼祭りの名前の始まりだそうで、ある事が最近判りました。 この神社には神武天皇父から皇統すべての祭神が祭祀されています。 をはじめ、桃山にも書物を書いたハビアン事信栄作いそぼ物語も残されています。 私たちの誇りを大切に未来へのこしましょう。

火とかまどの縁起物はどこの国でもみられるが、わが国に於いても、伝承している。 帝禹神話古代中国 特に多いのが、神話形態の台にまつわる形式で記されている。台知らずして、耶麻台なし。 火とかまどにまつわるものと云えば? 「炭焼き長者」ものがたりとして、広く分布している。これは火にかかわる、はなしで、鍛冶のようなものも、含まれている。

北部九州の弥生における都の存在はまだ、解明されていなかったが、児島宮歴研会により、解明にいたる。新たな証拠が確認でき、そのもの、とは形に見られる。出雲文字の原型は、中国王朝の春秋時代にも見られ、象形文字との関係がこの夜須で見られた点に注目したい。形は縄文時代と呼ばれる時期とは、くいへだたりが、あり、それはロクロ台を用いて造る土器で、弥生後期になり始まったと見ている。

今は誤った天王史観を植え付けられ、宮家児島の先祖になりすまし、国民をあざむく、ふとどきな、皇室は、反省の色も示さず、天の神々は之を、許さないだろう、天が怒るのは、もうすぐそこ、迄きている。

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この文字は古代中国の春秋時代の象形文字でかかれた、出雲文字と言われた祝詞である。
この中に神の記しがいくつも、記されている。
耶麻台祝詞です。
180通伊勢神宮に保管されています。

これは、児島宮家の紋章として、今も見られます。
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# by kouhoka | 2007-10-02 20:09 | 皇宗の神裔

皇位は、皇宗の神裔(しんえい)

皇位は、皇宗の神裔(しんえい)
安国と夜須国は比類している。是太一事也。
天之益人等が、 過ち犯しけむ小泉構造改革は反日-天つ罪である
天津罪と、畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸、 許許太久の罪を天津罪と法り
天之益人


天之益人等賀過知犯志介牟雜雜乃罪事波天津罪斗波畔放溝埋樋放 頻蒔串刺生剥逆剥屎戸許許太久乃罪乎天津罪斗法里別介

悪行非道な天之益人等

皇宗の神裔(しんえい)なのか? 
現皇室は名乗るが、今明かされている大室明治天皇はその、神裔(しんえい)なのか? 
神裔(しんえい)には、形見が残されているというから、皇室には、それがあるのか、いまだ、そのような話は、耳にしていません。
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# by kouhoka | 2007-09-07 22:12 | 豊葦原瑞穂国を 安国と

神宮皇后の原形は女王太一神


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神々が記載されている「古事記」における、はじまりは、あるモノのはじまり、からである。
神々の多くが万物の神となって、いるのは、みなさん知っていましたか?
まだ解明されて居ないようですので、幕開けにならないと、何も始まらないでしょうから、こちらで進めていきましょう。
これらの神々は、あるモノに宿りそれを、古代の人達は神に例えていたのです。
邪馬台国とあるのも、何かから、になっているのですが、その原形すら、見えていないようです。
邪馬台国も勿論モノで、あるのですが、古代ではそれを神とも呼んでいました。
この神も類比したモノも、宇宙の万物のように、地球の外にも類比したモノ(天体)がありました。
その天体の中の中心にある星座がモノ神にも、なっていました。
これが夜須の由来の語源の安の原と、祝詞にもあるように、天体の中の安の原に神の宮があると、されていました。
このやす、の由来が実は誰も知らないところに、あったのですが、誰も知らないところに、あったために、類比した神宮皇后の伝説の中に、あると信じて、羽白熊鷲退治したので、安心したから、これが福岡県朝倉郡夜須町の教育委員会は、これを信じて、公表したのが、これまでの、夜須町の由来になっていました。
これはあくまでも、幻想の中での、神宮皇后とは、誰も知りません。
ここでは児島宮伝記にある、神々の由来の、神宮皇后或は天神也、を知るに、これまでの町の起こり、は誰かの幻想した、書き留めであることが判ります。
神宮皇后は他にも類比した名前を持っていますので、これは原形が、神にある事は児島宮伝記以外、誰も気がついていないのです。


神宮皇后の原形

神宮皇后の原形は女王とされていると、『児島宮伝記』はしています。
この女王は神々の中でも、卑弥呼伝説にもあるように、類比した女王の原形は、ここから、きていたと、記しています。
「魏志倭人伝」は男王も記されています、この男王も神の一人として、取り上げられて、いるのです。
女王も男王も対比した神々ということが、、『児島宮伝記』のなかに記されています。
これは男女一対で、モノだけが神の姿ではないのです。
神は三対揃っていなければ、神ではないとされています。
ではもう一つは何か?それは中心となる測りのことで、ものさし、を加えて三対の神とあります。
これが謂う神宮皇后の原形になっている中心の、太一とされ、これを天神とも記しています。

天一,地一,太一の3神
「天一」とは中国古代思想における神で、その神が天上にいて地上にはいない為、その期間は方位の吉凶を気にしなくともかまわないとされる日。

地一
地王
地一族

太一
太一は天の中心に位置する北極神
天皇大帝や昊天上帝といった至高神
太一 (たいいつ)宇宙の最高神
〈大一〉〈太乙〉また〈泰一〉とも表記される。
《淮南子(えなんじ)》天文訓に〈紫宮は太一の居なり〉
苫玄(じようげん)が〈太一は北辰の名なり〉
〈天皇大帝〉ともいう
天一,地一,太一の3神が祭られた。前112年(元鼎5)には,雲陽(陝西省淳化県)に置かれた甘泉宮の南に泰畤(たいじ)とよばれる太一祠壇が設けられた。
泰畤は紫色で3層,八角形をなし,補佐神の青,赤,黄,白,黒の五帝の壇が環状にとりかこみ,太一神の祭はもっぱらここで行われるようになった。

太平御覧巻第七百五十
昔在二帝三王、宮館・臺沼池・苑囿、林麓・藪澤、財かに以て郊廟に奉じ、賓客に御め、庖廚に充つるに足るのみ。百姓の膏腴穀土、桑柘の地を奪はず。女に餘布有り、男に餘粟有り、國家殷富にして、上下交々足る。

正しい事とは?自然観こそ、現実であり真実でもあり、眼で捉える事が出来ます。
耶麻台とはここでは耶麻について述べたい
やまとは、普通山と発音します。
とは? 二つのたぐいを測るもの。
それはものさし、といわれるもの。
伊勢には太一がある、この太一の中に、云われが記されている。
太一ゆらい
妙見宮は北極星と北斗七星からなる星辰信仰が妙見苦薩の仏徳の中へ包摂されている。
北辰(北極星)を太一神とするものから国常立尊・天御中主神へと習合発展してきました。 
太一神が九宮を巡行としてそれにもとづき禍福を占ったり、
九宮貴神壇を設けて祭祀を行ったりした。
太一は以下のモノを指す。
天の中心に位置する星官(星座)、またはその神格。大一・泰一・太乙とも書く。太は至高を、根元を表す語
『淮南子』天文訓において「紫宮は太一の居」としたり、『史記』天官書において「中宮天極星、其の一に明るきは太一の常居」
天上世界における宮殿である紫微宮のなかに位置する星

太一を天神の尊きもの
日本の至高神である天照大神を太一とする。
太一とは合わせた物という説がある。
太一は天の中心なり
帝(太一神)
神世七代の神を,北斗七星の雌雄の神
「太極即ち太一」
紫宮〔の星垣〕は、太一神の居処である。
神は同神とされる神が多く、中国では太一神(北極星を神格化したもの)
太一神(北極星)と同一とも見なされる
天極星とは、全宇宙を支配している太一神司馬遷
地皇・人皇の上に立つ太一神。
太一星=北極星、太一神=唯一神。


「天皇」という称号は最高神のひとり天皇大帝に由来するといわれている。
神格化され3世紀ごろに登場し、天皇大帝の前身を紫宮(しぐう)に住む太一神と称する。
北極星を太一神平山大神。
帝王は九州を制する。児島宮歴史列伝

天一,地一,太一の3神が祭られた。前112年(元鼎5)には,雲陽(陝西省淳化県)に置かれた甘泉宮の南に泰畤(たいじ)とよばれる太一祠壇が設けられた。この王が夜須のウガヤ王である。児島宮のウガヤ王平山王也。

この文章は児島神の力により、未開の内容となっているこの文章は、児島宮歴研会著作製作によるものです。掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属し、記事の無断転用を禁じます。 著作者の許可無く無断転載を禁じております。 児島宮歴史刊行会 - 問い合わせ先-奉賛会 

我皇御孫命は 豊葦原水穂国を 

やすくにとたいらけくしろしめせとことよさしまつりき かくよさしまつりしくぬちに
安国と平らけく知食せと事依奉りき 如此依奉りし国中に
 
あらぶるかみたちをば むとはしにとはしたまひ かむはらひにはらひたまひて
荒振神等をば 神問はしに問賜ひ 神掃ひに神掃賜ひて

こととひしいはねきねたちくさのかきはをもことやめて あめのいはくらはなち
語問ひし磐根樹立草の垣葉をも語止めて 天之磐座放ち

あめのやへぐもをいづのちわきにちわきて あまくだしよさしまつりき
天之八重雲を伊頭の千別きに千別きて 天降し依奉りき

かくよさしまつりしよものくになかと おほやまとひたかみのくにをやすくにとさだめまつりて
如此依奉りし四方の国中と 大倭日高見国を安国を定め奉りて

したついはねにみやばしらふとしきたて たかあまはらにちぎたかしりて
下津磐根に宮柱太敷立て 高天原に千木高知りて 

すめみまのみことのみづのみあらかつかへまつりて あめのみかげひのみかげとかくりまして
皇御孫命の美頭の御舎仕奉りて 天之御蔭日之御蔭と隠坐して

やすくにとたひらけくしろしめさむくぬちに なりいでむあめのますひとらが
安国と平けく知食さむ国中に 成生でむ天之益人等が

あやまちおかしけむくさぐさのつみごとは あまつつみと
過ち犯しけむ雑雑の罪事は 天津罪と 

あはなち みぞうめ ひはなち しきまき くしさし いきはぎ さかはぎ くそへ
畔放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺 生剥 逆剥 屎戸

ここだくのつみをあまつつみとのりわけて くにつつみと
許許太久の罪を天津罪と法別けて 国津罪と

いきはだたち しにはだたち しろひと こくみ おのがははをかせるつみ
生膚断 死膚断 白人 胡久美 己が母を犯せる罪

おのがこをかせるつみ ははとことをかせるつみ ことははとをかせるつみ
己が子犯せる罪 母と子と犯せる罪 子と母と犯せる罪 

けものをかせるつみ はふむしのわざはひ たかつかみのわざはひ たかつとりのわざはひ
畜犯せる罪 昆虫の災 高津神の災 高津鳥の災 

けものたふし まじものせるつみ ここだくのつみいでむ かくいでば
畜仆し 蠱物為る罪 許許太久の罪出でむ 如此出でば 

あまつみやごともちて あまつかなぎをもとうちきりすえうちたて
天津宮事以て 天津金木を本打切り末打断ちて 

ちくらのおきくらにおきたらはして あまつすがそをもとかりたちすえかりきりて
千座の置座に置き足らはして 天津菅曾を本刈断ち末刈切りて

やはりにとりさきて あまつのりとのふとのりとごとをのれ 
八針に取辟きて 天津祝詞の太祝詞事を宣れ 


かくのらば あまつかみはあめのいはとをおしひらきて
如此宣らば 天津神は天磐門を押披きて 

あめのやへぐもをいづのちわきにちわきてきこしめさむ
天之八重雲を伊頭の千別きに千別きて聞食さむ

くにつかみはたかやまのすえ ひきやまのすえにのぼりまして たかやまのいほり
国津神は高山の末 短山の末に上坐して 高山の伊穂理

ひきやまのいほりをかきわけてきこしめさむ
短山の伊穂理を撥別けて聞食さむ

かくきこしめしてば すめみまのみことのみかどをはじめて あめのしたよものくにには 
如此聞食してば 皇御孫命の朝廷を始めて 天下四方国には

つみといふつみはあらじとしなどのかぜのあめのやへぐもをふきはなつことのごとく
罪と云う罪は在らじと科戸之風の天之八重雲を吹き放つ事の如く

あしたのみぎりゆふべのみぎりを あさかぜゆふかぜのふきはらふことのごとく おほつべにをるおほぶねを
朝の御霧夕の御霧を 朝風夕風の吹掃ふ事の如く 大津辺に居る大船を 

へときはなちともときはなちて おほうなばらにおしはなつことのごとく   
舳解き放ち艫解き放ちて 大海原に押放つ事の如く 

をちかたのしげきがもとを やきがまのとがまもちてうちはらふことのごとく 
彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以て打掃ふ事の如く 

のこるつみはあらじと はらへたまひきよめたまふことを たかやまのすえ ひきやまのすえより 
遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 

さくなだりにおちたぎつはやかわのせにますせおりつひめといふかみ
佐久那太理に落たぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云ふ神
おほうなばらにもちいでなむ かくもちいでいなば あらしほのしほのやほぢのやしほぢの
大海原に持出でなむ 如此持出往なば 荒塩の塩の八百道の八塩道の

しほのやほあひにますはやあきつひめといふかみ もちかかのみてむ
塩の八百会に坐す速開都比咩と云ふ神 持可可呑みてむ 

かくかかのみてば いぶきどにますいぶきどぬしといふかみ ねのくにそこのくににいぶきはなちてむ
如此可可呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と云ふ神 根国底国に気吹放ちてむ

かくいぶきはなちてば ねのくにそこのくににますはやさすらひめといふかみ
如此気吹放ちてば 根国底国に坐す速佐須良比咩と云ふ神

もちさすらひうしなひてむ かくうしなひてば あめのしたよもには
持佐須良比失ひてむ 如此失ひてば 天下四方には 

けふよりはじめてつみといふつみはあらじと はらひたまへきよめたまへとまをすことのよしを
今日より始めて罪と云ふ罪は在あらじと 祓ひ給へ清め給へと申す事の由を

あまつかみくにつかみ やほよろづのかみたちともにきこしめせと かしこみかしこみもまをす 
天津神国津神 八百萬の神等共に聞食せと 恐み恐み申す
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# by kouhoka | 2007-09-07 20:36 | 神のはじまり夜須

日本の始まりはこの夜須からだった

人々は「理想の王」と崇めた
醜いアヒルの子と同じで 実は白鳥だったから空を飛べましたそしてつづきが
「いちだんと輝いていました」これが
この原型は、角力にあり、禹に角天に委ねるモノらしい。
静と動が入り混じると書いたが、静はまるで誰かに語りかけるような美しい音と規制を利かせた不協和音を上手く取り入れなければ、ならないのです。      

それは中心に心地よく目元に、輝いてきます。に類比している。
規制を利かせた不協和音を上手く取り入れなければ、ならないのです。
尭・舜に、禹を加えた三人を、後世の人々は「理想の王」と崇めた。 ... 大自然の道を悟って、在りのままに、委ねる。 という事を世人に知らしめしました。
この話の原型は?
道を悟って、在りのままに、委ねるという意味。
五帝、三王は皆仁義を以って而して(王)化をし,而して能く肉刑を用いて以って俗を正した,是ぞ勇を為したというのである也
天は五刑を以ってして罪有るを討つ,五刑を用いるは必当であることを言う也
「尚書」
イエスは「ユダヤ人の裁きをシュメールの神の御手に委ねる」と語ったのだ。

天下は聖人に功績を帰するが、聖人は天下に功績を委ねる。 だから尭・舜・禹・湯の天下の治め方は、どれも自然であったと言われる。

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古代まだ未開地だった夜須に、ウガヤ王が降臨しました。それを示すかのように、この夜須に角力にあり、といわしめた、二代民族がいました、いつも争いが絶えずにと卑弥呼が、居たとして、原型の角力でもって、王ウガヤは、たちまちにして、これを、治めました。
それからというものは、倭人たちは、道を悟って、すべてを在りのままに、委ねることと、なりました。大木遺蹟にはそれが、甕棺に線刻されて、残されていました。
それから、二代民族は王によるすべてを在りのままに、委ね、稲作を作ることを与えられました。そのほか道具等も、方法を与え惣利遺蹟では木製工房を造って、やりました。又ヒルハタ遺蹟では、青銅器鍛冶工房を造り与えて、鏡など工法を与えていました。
ウソのようなほんとの話です。


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角力とは児島宮の神様の、相撲が日本で一番最初に取り入れられた跡になっていて、江戸末期までは、相撲御用という、角力で行われていました。
吉田司家から、児島宮に向かえを差し向けてから、角力で行われていました。
この原本こそ、日本人のルーツが、わかる角力で、物語にもなって、かぐや姫や鶴の恩返しの、神話にもなりましたのは、ここ夜須が、なければ、日本の歴史は、なかった事にもなるでしょう。




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# by kouhoka | 2007-08-23 21:09 | 夜須弥生民族の正体

夜須人の源流は何処から来たのか? 

夜須人について述べよう。
弥生の名は土器から付けられた名で在るゆえ、ここでは、年代を取り上げてみました。
起源は紀元前200年前の頃、中国では丁度秦時代の頃、秦の始皇帝が除副仮の名で記されていました。
この一団が住み着いたのがここ夜須(この頃はまだ夜須とは呼んでいません、では何とつけていたのか?
皆さんは祝詞のことは、ご存知であろう。この祝詞の中にちゃんと、記憶されていたのです。
何と呼んでいたのか?それは祝詞を見れば、正しく記されていました。
ら豊葦原の国をと、とよあしはらの、国と記していました。
これが二度目の中国からの渡来と同時に、天子の一団が住み着いたのがここ、夜須の地でした。 どうして夜須なのかと、思われるので、ここでは夜須の名の語源について述べておこう。

夜須の名の語源
このやすと発音している源は、天すなわち、宇宙に基点を置いています。七夕で知られる宇宙の、住いが野洲の原としています。是すなわち北斗七星にわし座が、並んでいます。
ここが発起点で、この時点でメソポタミアに神々が現われたのです。
それで神々の住いはこの野洲の原という事です。
これが紀元前3、000年前に中国に移動してきました、これがあの夏王朝の姿なのです。
幾多の長い年月が過ぎて、夏王朝の天子は、この時は会稽の安邑に都を受け継いでいました。
この安邑の語源はというと、
メソポタミアの天子がそのまま、引き継いでいたのは言うまでも、ありません。
ここに天子は都と神々の住い神殿を造りました。これが中国の最初の歴史と言われています。

ここで付けられたのは、神々の住いの野洲の原をそのまま、類比していたのです。
ここに会稽の安邑が起こりました。
すべては類比するという自然の法則に従い、天子はその地を安邑やすむら、としたのです。
凡そ検討が付いてきたと思い、ここ弥生の南越王は豊葦原の国をたいらけく、やすらけく、安
と名づくとしています。
ここに始めて、夜須の名の語源となったというわけです。
それと同時に、夜須の名の語源は神殿に捧げる器を作る黄土土を、はに夜須彦神、と名づけています。

こうしてこの夜須では稲作農耕がはじまったと言うわけです、それに付随しているのが、農耕の祈願する為の祭祀も、はじまったという訳です。
夜須町教育委員会が調査して、これらの出土品土器は、会稽の安邑の土器と類比していたのですが、この理由がわからず、二年前から、児島宮歴研会により論文が公開されて、インターネットを通じて、みんなが知るようになりました。
いまだに夜須町教育委員会は出遅れております、がプログで論文が出てからは、盛んに聞き入れた方々が、プログに載せて説明していますが、根幹がないままて、考古学者はやはり出遅れていますので、まだ実情がつかめていない、となるでしょう。

それは考古学者が知らないのに、外の盛んに聞き入れた方々には、神の定義さえわかっていないでしょう。
最近になり星座や神々の正体が取り上げられてはいるが、どれも盗作したものに、なるでしょう。


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# by kouhoka | 2007-07-21 22:14 | 夜須弥生民族の正体

夜須という呼び名 の言語

夜須という呼び名 の言語
日本語は語彙にある。
古代語原型について、
どうして出来たのか?
それから調べてみよう。
古代語の語と彙

文字、絵文字、記号、亀甲亀裂等に伝達形式が残っている。
語彙は音韻変化語と彙が結ばれて出来た。
語はあいうえお、彙は語の複合したもの。で語彙が出来ている。
神はかとみの語彙なのである。
花 ハナ は語彙なのである。
語はハとナが結ばれて語彙になったもの。

この事は非常に大切なことです。「日本語の基本」

「最初の中国人は、長江、淮河の流域に都市文明を作った夏人
漢字を発明したのも夏人
その夏人を征服して黄河を南に渡った殷人
もともとインドラ系の言語を持っていたが、黄河の南で夏人から都市

生活を学んで、夏人の雅言を採用した
夏の王の後裔と自称するのが越人
夏王朝の始祖の禹の墓がある会稽山を聖地としている。
日本列島に弥生文化を持ち込んだのは、越人
夏王朝(東南アジア系)の後裔の越人が日本に渡来して、
弥生文化(水稲耕作など)をもたらした

夏(シュメール系) → 越 → 倭 → 邪馬台国 → 大和朝廷 → 日本
という流れにある。

「日本語の形成」は、ドラヴィダ系のタミル語いや、そうではなくて、
シュメールで学んだドラヴィダ系が新たに語と彙で方言としたもの。
がドラヴィダ語彙となっている。

基礎語彙同士のように一義的に意味が確定できる

満州語で書いた史書「満文老档」に最後、末、末端、終端などの意で
“dube”という言葉が登場
タミル語でも、[r],[l],[rr],[ll]は語頭には立たない。
朝鮮語でもr音は語頭に立たない。
唯一の例外が万葉集にある。(巻五、山上憶良の貧窮問答歌の「鼻ビ
シビシに」)
日本語では、本来r音は語頭に立たない。
古代日本語には「母音調和」があります。
日本語はどこの言語にも似ていて(特に音節が「子音+母音」の言語
)、どこの言語とも違う
音韻の単純さ・語彙取り入れてきたのが日本語の本質
日本語とアイヌ語との間にも、蒙古語との間にも、朝鮮語との間に
も、ポリネシア系言語の間にも、ありませんでした。
古代色(特に万葉言葉)が色濃く残っている
http://hexageon.cool.ne.jp/todofuken_link/dialect/dialect_sub3.html

格(かく)とは、名詞ないし名詞相当語句が文の中で他の要素と結ぶ

日本語古代語=他の要素と結ぶ?
古代日本で天地万物を産み出す神「産霊の神」
四つの語の中には、対義語あるいは類義語の関係になる組み合わせ
「結ぶ」という言葉に何か意味がありそう。「固める」という

「ピジンとしての大和言葉」
「異言語」
ルイジアナ州で話される、フランス語をベースにしたクレオール言語
基本的には、優位な言語の「方言」~「姉妹語」という

従来の比較言語学の「基層言語」の上に、「征服者」或いは「新参者」
の言語が、被さって⇒新参者の言語の下位区分の言語~方言へ。
hn2602 さん

ツマリ、「クレオール」や「ピジン」というのは、「2言語(以上)
」が接触して、どちらか優位な言語の「新しい方言」~「姉妹語(こ
の場合は、優位言語を「母語」~「基語」とする。 hn2602 さん

そうでしたか、
私の考えでは、古代語はhn2602 さんと同じように、2言語(以上)
がくっついて、+して出来ている。
あちがい文字でなければ、「ピジン」というのは、美と人がくっつい
て、言葉ができ、これが古代語原型としていますが。
美(うつくしい、きれいは、方言)でも古代語原型の解釈はまちまち。
絵文字もこれと同じょうな組み合わせで、出来ていたと、考えてい
ます。

主にに基層言語の相違がある。
半島を通過した「日琉祖語」自体、列島渡来税前に3~4の方言を含
んでいた可能性があります。hn2602 さん
基層言語の相違により、日琉祖語は方言分化して、少なくとも、4方
言(任那、加羅などの半島南部残留倭人語、列島内の九州・中央・東
国3上代日本語方言の前身)以上に分かれていた。hn2602 さん

基層言語とは何処に始まるのか?
敷き詰めれば、中国古代を築いた王国に基層言語があり、ここに単を
発し、
その基層言語の原点は?やはり絵文字に、行き着く?
絵文字といえば、シュメールに行き着くと、なりますね。

訂正

「クレオール」
本来は、新大陸や他の植民地圏で生まれた白人または黒人(さらに、
その混血)を指す。フランスのアメリカにおける植民地だけではなく
やがてその習慣や言語
クレオール語はピジン語がネイティブ・スピーカーを獲得した時に発
生する。 全世界の旧植民地に広く点在する。



ピジン語
共有する言語を持たない複数の集団が交易などの目的で継続的に接触
を繰り返す際に、相互のコミュニケーションの必要性から生まれた一
種の簡略化された言語。「母語」とはならない。言語の語彙を、力の
劣る集団(基層集団)が借用する。
混種の言葉。それがクレオール大半は発音が二重母音になっている。
(例)ああ二字体系のクレオール

もともとは植民地生まれの白人を意味
植民地をつくると、やがて本国を知らない子供が生まれる。その子を
本国生まれの子供と区別するためにクレオールと呼んだ。

遍歴した「移動性」と「交差性」と「流動性」によって言語も生まれ
ていた。

言語学
クレオール化する日本語
「純粋でありつづける言語」「純粋な日本語」「漢字
以前のやまとことば」本家本元は中国大陸そこに、漢字文明がある。

「けがされてしまったあとの くずれた日本語」クレオール化する。
俗論を展開することになる、ってカラクリのゴチャゴチャ つめこみ
「ニホンゴ」は クレオール化している
痛感するのは、ローマ字/カタカナがき周辺の 音素体系
ニホンゴを ローマ字がき するときの、ローマ字自体を どうよぶか?
大半の日本人は 「エー/ビー/シー/ディー……」これ自体が、ニホン
ゴが英語クレオール的
ほんとうは 「ア/ブ/……」と音訓ニホンゴ音素体系一字

『日本人の源流といえば言語語彙』
ことば、ははじめに、絵で表わしていて、音がいって
から、語が出来た。
それはイラクのシュメール人によって始まったもので、語彙(ごい)
とは何か
語彙とはあいうえお、の語一文字とのつなぎ「彙」合わせの事?
あ+うであう、となりこれのことを、語のつなぎという?
まずは「語」と「語彙」の違いから考えてみましょう。
 「語彙」の「彙」という文字を漢和辞典で調べてみると、この文字
には「集まり」という意味があることがわかります。
「語」は単語のことで、「語彙」は語の集まりだと考えられます。

(「彙」は「集まり」むすび、つなぎの意味)

日本はこのむすび、がある。
自民党のような単独では、まず無理がある。日本的なやり方ではない。
安陪晋三の言ってる事には、美しい日本とかは、美しい事ではない
ように、ことば、は語りかける。
西洋はビジン?
シュメール間では筆談?
いや、絵文字だから、絵語と絵語をつないで、語彙(ごい)を作り上
げた。
語彙はビジンのようなもの?
だから、よく間違われるのが言葉?
日本語と英語ビジンの違いが、間違われている。
シュメールの絵語が語彙になり、そこから、セム人が取り込んで
英語ビジンの始まりとなる。
英語にの「語」は単語?いえ其処にはビジンしかなかった?
すると古代インド、ドラヴィダ語は
敬語で話す?となれば
そこには、語彙しかなかったとなりますが、まだこの事は
はっきりとは、していないのでしょう?
殷時代か縄文かにヒントはあるかも知れないが?
タミル地方とスリランカはビジン語といわれるから。
でもビジンタミル語と一字日本語では違う音訓になっている。
語彙とは自然界で言う全ての物質を形成する「最小
単位の要素」である。
日本語の一字単語あいうえお。は語
Aエィ Bビィは語彙になってる。

語彙とは容を定義
するため用語の集合である。
文法が同じ
韓国語は文法がほとんど同じ
文法は決まっているが、語彙は自分で決める。
語彙を定義する=言語を定義する
日本語・英語などの自然言語には「文法」があり、その「文法」に従
って「言葉(語彙)」を並べることによって、相手に内容を伝えるこ
とができます。この「言葉(語彙)」は、言語によってそれぞれ違っ
ています。

韓国語は日本語と文法が同じなので単語さえ覚えてしまえば簡単です。
日本語と韓国語は文法が同じという

単語は地域ごと、個人ごとに違いがかなりあり、文法が同じようだ
文法が同じ名前で定義された複数のパターンを含む場合には、重複し
ている定義が
どのように結合して1つにするか、という情報をcombine属性を使って
指定する必要が
ある。
インドグローバル・ヒンディーでヒンディー語「アーイエ」とヒンデ
ィー語
ヒンディー語の親しみやすさはまず、日本語と文法が同じ事
「言葉(語彙)」と文法が同じ事
ハングル”は、日本語と文法が同じ
言語=言葉(語彙)

朝鮮語の違いはただ漢字を用いるということだけで、語彙も文法も全
く同じです。
韓国の言語は、日本と文法が同じです。懐かしさあふれる国です!

和文体と普通文とでは語彙が大幅に異なりますし、文法にも若干の違
いが見られます。
敬語を用いる対象は階級に限らず神者等尊敬すべき者に広げるのが妥
当かと考える。

夜須という呼び名 の言語の由来は?こにあったのです。

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京都紫野の夜須良居(やすらい)画像

語はあいうえお、彙は語の複合したもの。で語彙が出来ている。
神はかとみの語彙なのである。

すると、夜(や)+須(す)の彙は語の複合したもの。で語彙が出来ている。

ここで先ほどの、京都紫野の夜須良居(やすらい)に見える語彙はこの夜須
の神々の祭祀がそのまま、線上で引き継がれていた証しでもあるのです。
ここで夜須の語源の由来は、神々の起こりに関係していたことが、解る。




三福神にさしかける天蓋(てんがい=絹張りの笠)「博多松ばやし」


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天蓋(てんがい)はやすらい、のかさほこ

この笠鉾は神輿にも用いられている。
昔は御囃子隊が篠隈まで来てここから出発していたのは、黒田長溥公のキン
さんが児島宮だからか、或は神々の里のなごりで、ここまで神々を迎えに、来て
いたのかも、知れない。
女と三味線でしゃもじ、を鳴らしていたと伝わる。

「はかた」と言う地名が記録に現れたのは、「続日本書紀」の天平宝字3年(759)、
太宰府の報告に「異国の侵略に備えて博多大津の警護を厳重にしなければならぬ」
とあるのが初見とされる。
鳳が羽を広げたような地形から「羽形」と名ずけられた説。
これは羽はうとも音訓することから、神に例えられている。
神話むに羽があるカラスもこれに由来している。
とかくこの地名夜須は羽のうがやふきあえず尊の土地の名残りかも知れない。

8世紀頃には「ハカタ」は中国でも良く知られていて「覇家台」「八角島」「花旭塔」と
「ハカタ」という音をそのまま表現している。




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熊野の旗も羽のうを表現している

「八角島」に縁起するものに、「やたのかがみ」がある

京都紫野の夜須良居(やすらい)の夜須という呼び名 の言語
夜須は神ことば、だった
夜須は神言葉なのか?
そういえば、中国会稽の安邑も「やすむら」と音訓したが
中国では、あんと語彙で発音している。
大祝詞の安はやすと、原語語彙で発音している。「やすらけく」
この日本人に大切な地名の夜須を変更した、人間は
知恵足らずのしわざ、だった事になる。
神よりも他の地名の筑前を選んだのは徳田とか助役のしわざ?
神様よりも偉いとしているのだろう?
言葉遊びやすらいで意味が解る耶麻台
夜須良居は「やすらい」で台は神に捧げる台。
耶麻台国とは「やすらい」祭祀する国の名?
天蓋をかむる?
「やすらい」は別に太一也。
太一=夜須良居に戻る。
回転しているという意味の、耶麻台国とは?
天文学文字?

紫野に春を呼ぶ「やすらい祭り」の風景です。
今宮神社は、玄武神社と並んで「やすらい祭り」が執り行なわれている
風流傘に競って入る

桜が意味するものとは?清浄?このはなさくや姫?に関わる。
それの証が傘鉾の天蓋にあるんです。
天蓋は太一のことなんです。
博多どんたくも、傘鉾の天蓋があるけん。
これなかったら、意味ありはひません。
そやけど、
やす(夜須)の意味わかりませんと、いけませんな?
(夜須)という語は何かわかりませんと、いけませんな?
平安遷都後、都に疫病が流行、朝廷がこの地に神殿を 造営したの
が起源とされる。
そやから、
御所が作られはったんで、はじまったんでやすな。
やすらい祭りはその典型であり、語源としては「安居」とする説もある。
「花や咲きたる、やすらい花や」とか「やあすらい、ヨーホイ」とか囃しながら、鬼の扮装の氏子たちが、鉦や太鼓を打ち、ちょいと風変わりな踊りを見せながら町を練り歩く。
花傘巡行とは?
美しい花がさの周りを踊る。
「伴大納言物語」を意識したと思われる「やすらい祭り牛祭図屏風」
桓武天皇は造りかけの長岡京をそのままにして、平安の新京を造ることにした。うまいところにあったのが船岡山だ。平安時代 正暦5年(994年)御霊会(ごりょうえ)が、この船岡山の頂上で行われたそうです。
船岡山の北に、今宮神社があるんです
正暦5年、都で疫病が流行ったらしいのです。これを鎮めるために御霊会が開かれたそうですが、その際、船岡山に神社(社殿)が建てられたのだそうです。
それが、今宮神社の創建となっています。



かんがえといて、くれやす?


京ことばのやを強調する神ことば

京都弁はおくれやすとか、
おいでやすとか、
三重県の志摩国の方言。公家言葉
生粋の京都人は実にまろやかに、ふわーっと(ふにゃーっと)話します。

「まぁ、おあがりやしてお茶づけ(ぶぶづけ)でもいっぱいよばれておくれやす。」
「いやぁ、ほんまにあのひといけずやわぁ」

「きばっておくれやっしゃ」
「おきばりやすぅ 」

「よろしゅうおあがり」
「どうぞ、おあがりやす。」さらに丁寧な場合は「どうぞ、おあがり やしておくれやす。

おいやす( いらしゃる、居られる )
おいわいやす(いただきます、正月3が日雑煮を祝うときにいう言葉)
おはようおかえりやす (いってらしゃい )
これらは、神ことばでたいせつな時に使うことば。

やすらい祭りもこの神ことばでたいせつな時に使うことば。




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# by kouhoka | 2007-04-20 18:33 | 夜須の語源

神様の総本宮児島宮

日本人が知らなかったこの神社が、この国で神様の始まりの地だという事が、
夜須の地名の夜須は夜須礼祭りの名前の始まりだそうで、ある事が最近判り
ました。


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この神社には神武天皇父から皇統すべての祭神が祭祀されています。


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をはじめ、桃山にも書物を書いたハビアン事信栄作いそぼ物語も残されています。


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私たちの誇りを大切に未来へのこしましょう。
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# by kouhoka | 2007-04-08 17:26 | 伊勢神宮の総本社児島宮

弥生の始まりは耶麻台

火とかまどの縁起物はどこの国でもみられるが、
わが国に於いても、伝承している。


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帝禹神話古代中国

特に多いのが、神話形態の台にまつわる形式で記されている。
台知らずして、耶麻台なし。

火とかまどにまつわるものと云えば?

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「炭焼き長者」ものがたりとして、広く分布している。
これは火にかかわる、はなしで、鍛冶のようなものも、含まれている。
大分県の臼杵日本各地に伝播している


ここで台の語源は伊勢の太一のたいち、のたの日本語から、できている。
太一とは
太一とは「北極星」の神名です。
神名は、尊星王、紫微大帝、北辰、妙見菩薩等とも呼ばれています。
七夕もこの妙見菩薩太一からきている。


ここですべての太一は



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ものの原点という意味があります。

ものの始まりには?
何を始めにしますか?
ものの始まりが一
「原因」とはものの始まり
それは哲学の基本用語
出発点]を意味する。
物事の第一のものすなわちその根本の原理
生成した事物に内在しているところのそれ[すなわち事物の第一の
内在的構成要素]

物が第一に生成
自然的に始まる
論証の前提する仮定は論証のアルケー[前提]と言われる。
[すなわち反対の物事がおこった原因である]
やきものの始まりは土器です。
火とかまどの始まりは弥生である。
これが皆台になっています。
当然耶麻台も是。


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ものの始まりで原因がわかる。
七夕の歴史の始まりは台からきている。
日本ではまだ誰も知り尽くしていませんでした。
まず始まりはこの台から。
流れには、始まりというものがある。 すべての始まり
「炭焼き長者伝説」は、日本各地に存在している(昔話)「初婚型」

昔話や物語でありすべてが、ここ台からきている。

桃太郎・金太郎・山んばのもち 、浦島太郎・花坂じいさん等。
卑弥呼はものに宿った女のように、 生成した事物に内在しているところのそれ[すなわち事物の第一の
内在的構成要素]の事。

仮に考古学会とした場合は、 卑弥呼は無用の人物となる。
こうなれば、
古代中国の資料と日本の資料が食い違うようになるので、これでは
読取れなくなるであろう。
どちらも同じでなければ正しくないのである。
今までは、各国では別々に捉えてきていたが、著者による段階で、歴史
の一致が、解き明かされたのは、根幹なくしては、始まらないのも現代
日本の特徴なのだ。
ここでの根幹とは共通する卑弥呼と西王母である。
又あまてらす大神も、西王母に興じている。

未開な古代史は何時解き明かされるであろうか?
何をしても考古学会なくしては、始まらないのも現代日本の特徴なのだ。
これは神についても、同じことが云え、
神なくしては、考古学会は無価値となるであろう。
いわばたまご、が先か鶏が先か?
これは基点があっての事でもある。
神は天然のごときものである
卑弥呼もまた女神で、西王母のようなもの。
理解するのも肝心なり。

弥生時代の稲作における卑弥呼の役割は、人間にとっても大切な役目
を果たしていたので、あるから、女神として慕われていた。
卑弥呼の国は何処などやぼな、発想を懐いている日本人は、神につい
ても、理解できていなかったのであろう。

日本の歴史に於いてもまだ、考古学での見解が、誤解を招いてきたので、
始めからやり直す事も必要である。
特に名前の知られる卑弥呼と弥生の始まりは、火とかまどの、時代の始
まりである事と、米を蒸して食べるように、なって、次は
火と土器の始まりでもあったのです。

何故神を差し置いて、先行したいのだろか?
それが解らないから、現代人は空に落ちている。
ことは確か。
神の上に立つは、法と秩序は果たして良いのか?
神は全人類の上に立つ。
たとえ仮の神を置くとしても、世界で一人だけ自由である。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。

権威は神さまによるものであるから、上に立つ権威を否定する現代人。
神を認めていないのはその為。

改革とは新しきものなりて、古き神を捨て去る。必要外にしている日本。
神は天然のごときものである。

周代において、天はすべての神の上に立つ人格神であり、自然界・人間界を支配するものであった。

道家は、天の上に根源的な道という概念を置いた。
邪馬台国の位置などどうでもいいこと。
大切なのは、理由があるか無いかだけ。
無いならば無意味。
あるから大切に扱わなければならないのに?
どうして反対ばかり繰り返しているのだろう?
卑弥呼はものに宿った女という意味の語源。
耶麻台は山に宿った神の語源。
すべてのものの、一番大切な尊いものを、女神が染めている理由?
女はすべてのものを生み出す力があるが、男にはそれがない。
ここに巫女よりも、先行して現代のような思想では、一代限りになる。
こうしてみると、卑弥呼のことが判ります。

自然のあつまりでなければ
邪馬台国に関係がありません、一つしかないお菓子は百人では分けられないですね。
出来ることは、誰か食べる者を一人えらばなければならないでしょう。
これ最近おおいですね、何いってるのか判らないことが。
重陽って何の事か解りますか?
陽数の九が重なることからきているのです。
通称菊の節句とかいいますけど。
それと陽数は人間にとてもいいんだ、そうですよ。
「重陽」って書いてはあるん
だけど、「重陽の節句」っていったいどれだけの人が知ってんだろう?
中国から来ていて、陽の数9が重なるめでたい日なんだそうな。
菊を愛で、長寿を
願ったりする風習があるそうです。
でも今は違うようにやなりました。
あでやかなのが展覧会で競ったりして意味が全然違うの。
これが人間が明治以後変わった証拠です。
これは重陽ではなかけん。


児島宮歴研会著作製作
掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属し、記事の無断転用を禁じます。 著作者の許可無く無断転載を禁じてお
ります。
私的使用又は引用等著作権法上認められた行為として、適宜の方法により出所を明示することにより、引用・転載
複製を行うことが出来ます。

児島宮歴史刊行会 -問い合わせ先-
奉賛会 FAX .0946-42-2055
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# by kouhoka | 2007-03-14 13:58

北部九州の弥生における都の存在

北部九州の弥生における都の存在はまだ、解明されていなかったが、児島宮歴研会により、解明にいたる。
新たな証拠が確認でき、そのもの、とは形に見られる。
出雲文字の原型は、中国王朝の春秋時代にも見られ、象形文字との関係がこの夜須で見られた点に注目したい。
形は縄文時代と呼ばれる時期とは、くいへだたりが、あり、
それはロクロ台を用いて造る土器で、弥生後期になり始まったと見ている。
稲作との関わりもこれにはある。
台の始まりともしてもいいだろう。
まずこれを先に見てほしい。


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これは鳥巣窯で作られた、刻印のある壷である。
これとよく似たものが早良周辺からも出土していて、


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これで、弥生夜須での台によるロクロを使う技法がわが国で一番最初に始まったと見ても云いであろう。


次に早良周辺で同時に同じ形のものが見られ、これも参考に上げる。


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これと同じ形のものが、夜須でも何処よりも数多く見られます。
夜須でも中心的な遺蹟松延の『梨の木遺蹟』での土器はかまどの、発見に続き井戸も確認されたことだ。
これでもうお判りであろう、此処夜須では中国にかかわる民族が居た証拠となっているのです。
伊都博物館の西谷正氏は当社との、見解でも、弥生に関しては九州は大和よりも、ずっと後の時代と断言されていました。
ここには考古学会では日本では、当社一人しか、弥生の都については、
無関係としていました。
ここに至るまでは、随分と掲示板でも悪口はかり叩かれていました。
それは古代史は千葉の歴博を中心とした見解しか、通用しては、いなかった事が上げられます。ここを中心とした日本の考古学会で、その下には全国の地方の県の教育委員会直属が置かれ、文化財報告書が作成されて、それしか通用しなかったのは、いうまでもありません。

歴史の見解の流れはこうして現在では少しずつ変わり、
世界の分布も受け入られようとしています、まだはじまりに近いのです。
歴史の幕が少しずつ解き明かされるようになりつつあります。
「ものの見つめる常識の変化古代史」

大方の説明でここからは続きをお眼にかけましょう。
『梨の木遺蹟』での土器類


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これと似た形の硬質土器は福岡の西新遺蹟の土器です。
形に着目してくださいね。


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西新町遺蹟の土器は朝鮮半島の土器と解釈していられるのは、前原の伊都歴史博物館長の西谷氏と思われるが、
これはものの、原点における解釈とは、ならないと思います。
それは、このものの原理とは、に理由があるからで、
このものに宿るが、解釈になっていないからです。
神の原点根幹はものの原理から始まります。
すべてはこのものの原理から始まるという意味です。
西新町遺蹟の土器にも、ものの、始まりがあり、これは朝鮮半島に始まるものでもありません。
何故なら、このもの、に見えるこしき、(甑)三個は中国の古代夏王朝に類するモノであって、
ここより稲作が始まっていたのです。
かとば遺蹟、が稲作の始まりとされ、この民族の都と王のモノが関わっているのは、当たり前の事です。
この「こしき」は北部九州の名の語源とも、もので、繋がっているのです。
これら、西新町遺蹟の土器も夜須の都と勿論繋がっていないはずはありません。
そこで、


夜須の都の中心地となる松延の、梨子木遺蹟から出土した土器と繋がっているところを、
ご覧下さい。
形に注目するたけでいいのです、理由はいりません、ただモノに宿るとしておきます。


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この土器はみな類似したものがものに宿る、都の明かしでもあります。
勿論夜須から朝鮮半島にへと、伝播していたのは言うまでもない。



これは夜須町教育委員会報告書を参考としたものである。
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# by kouhoka | 2007-02-24 14:44

夜須の弥生人の暮らしが見えた

これこそ、弥生のはじまり、
それ以前縄文人の名で知られる民族の生活とは、狩猟で、家がまだ定着したくらし、ではなかった。
男たちは、集団を組んで、住いから離れて、獲物を探しているのは、現在のアフリカ集落に見られるような、くらし方を、していました。これは原始的、ないとなみを、
していて、現代日本人は、現在これに近い暮らし方に転向している。
原始とは人間の眼に見えないものの事で、人間が感性が備わっていない事、のようなもの。
つまりは現状を感じる事が出来ないこと。
人はこれを知恵とよんでいる。
現代では便利な暮らし方をしていると思っていますね、確かに便利な生活ではありますが、
この便利な生活の裏には、私たちが感じていないものと、取引により、この便利よさが、なりたっています。

取引により、この便利よさがの感じていないものとは?お金がかかわっていますね。
こうして便利の代わりに、とられる、はらう、ものが犠牲になっていて、この犠牲にされるのは、
自身の身にふりかかります。
この事で犠牲とは、失うばかりで、ふえる事はありません。
これは倍働かなくてはならないという意味が根底にあります。
こうした繰り返しの、現代ですから、お金がかわりに、ふえていき、借金が増え続けているのです。これが縄文(この名まえは、土器に付けられた縄模様から、きています)原始的暮らしの原理なのです。(つまりは何かに縛られているようなものの事なのです)

夜須の弥生人はどんな生活なのかと、いうと
文明の創設者となり、この地に開いたという、稲作農耕と宇宙天文学から、数々のものが生み出されました。
これが弥生のうむ、力から付けられたのでしょう。
原始的暮らしでは、
便利の代わりに、とられる、はらう、ものが犠牲でしたが、
この弥生開始では、新しいものが次々と生み出され、現代の元になっているのですが、
残念ながら平山神に感謝すらする事はしていないのです。

ここで、その証しを、文化財調査書鳥巣遺蹟・来る町遺蹟で、知られていないものを見つけました。まだ文化財調査書にも、書かれていないもので、
この鳥巣遺蹟や夜須広域遺蹟でも、同じものが発見されていたが、ここに人間が感性が、失われている為に、この事さえ、発見できなかったのです。

それは竈跡が夜須の遺蹟のあちこちから、出土しているので、容易に見えているのですが、ここにも、失われている感性が備わっていないので、見つけても、稲作と関係しているとは、鑑識できなかった。
これには、一つだけではありません、他にも
いろんなものが、生み出されている事を知らねばなりません。
竈跡には、何に使うのか感じられ、ここには煮るという事が連想されますね。
煮るという事が連想されると、果たして何かそれが答えです。
煮る為には鍋のようなものが必ず要りますね。
この鍋の元が、土器で焼成されて作られたかたい、甑(こしき)というものです。



これは同じ形の、こしきです。
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それは米なのです。米を食べる為に煮るのがこの容器甑。かまどにかけて、煮る。
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# by kouhoka | 2007-02-22 15:59 | 夜須弥生民族の正体

夜須の宮ノ前遺蹟に見られる遼寧人の足跡

夜須の宮ノ前遺蹟に見られる遼寧人の足跡は、夜須全体広がる遺蹟からも、似たよなものが、沢山出土しています。これは夜須町文化財が調査したもので、佐藤正義氏がまとめられ、配布したもので、
これによると、宮ノ前遺蹟特版となっているが、夜須の全体像もしめされており、
これによるところが大きいのも、氏のまとめられた内容が、三部構成になっていて、出土品の監察が、容易に出来る特典となっている。
これで、今日まで不透明だった夜須の弥生の住人が何処からきたのか、似たよなものから、発見できた次第である。
ひいては、日本の古代の姿が確実化したわけになる。
遼寧省の春秋時代は夜須の遺蹟と、似たよなものがまだ他にもあり、
古代文字は夜須の鳥巣窯で焼かれた土器で、土器に刻印された、これと似たよなものが、遼寧省の春秋時代に見られる古代象形文字であり、今日まで、解明されて、いませんでした。


春秋時代に見られる古代象形文字
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この中にたまわるの文字があります、これが夜須の鳥巣窯から出土した、この
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椀や
壷の首のところに、刻印されて、とてもよく似ています。


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一つでは証明は無理でしょうから、
此れも、
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これは出雲文字とされるもので、夜須と出雲との関わりが似たよなものとなっています。
これは出雲で出土した刻印です。

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そしてこれは、夜須の遺蹟から出土した穴窯式土器に刻印されたものです。


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似たよなものが明かすものとは、実は再生していたことの明かしでもあり、それは民族が受け継いでいる証明でもあります。

ではここで、宮ノ前遺蹟から出土したものが、遼寧省にも見られるでしょうか。


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器台が多く見られ、これは食生活が始まり、火と竈と稲作開始の似たよなもので、宇宙天文学が、夜須に始まったことを、表わしています。
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次に131の画像の上に模様がありますね、この模様は山形を表わし、宇宙天文学の標です。
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相変わらず器台が多いでしょう、これは何を表わしているかと、云えば上に器を乗せる、為
に用いる、台なのです。弥生には煮炊きが竈を用いて、つくりますから、盛る為の台として用いたものでしょう。
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次は水に関わる容器で汁や、水分のあるものを、入れる容器として、使われたものでしょう。
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次に中央に柄杓か、しゃもじ、なのが見えていて、煮炊き時期なので、掬うための用具です。
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ここでは、お椀も見られ、竈を使い煮炊きしたものを、入れておく用具みたいな、容器でしょう。

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戦国時代には燕国に属し、秦では遼東、遼西等の郡を設置。
6000年前の新楽遺跡の発見により、この地に古代文明が栄えていたことが判明した。
遼寧省地図
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中国遼寧省羊頭窪遺跡. 黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 卜骨
中国遼寧省牧場駅東墓. 明器(耳杯 尊鼎 かまど 燭台 井戸 家屋)
6000年前の瀋陽の新楽遺跡、阜新の査海遺跡、朝陽の牛河梁遺跡などの発掘
文物により、約5000年前から6000年前、この地に古代文明が栄えていたことが立証された。
戦国時代には燕国に属し、秦では遼東に属した。
近年、資料が増加しつつある中国・遼寧省の三燕時代墓葬出土遺物に注目
遼河上流の遼寧省朝陽市喀左県では商末から西周前期の青銅器が数多く出土する。
河南省の王墓から出土した漢時代の金縷・銀縷の玉衣は、名品中の名品です
1996年河南省出土
商丘市博物館蔵

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中国産の鉛を使った銅剣の産地は遼寧省である
荒神谷遺跡から発見された銅剣は「中細形銅剣c類」または「出雲型銅剣」と呼ばれ、発見された358本の中で朝鮮半島産の鉛を使っているものが1本、残りすべてが中国産の鉛を使って作られていることが判明。

夜須吹田遺蹟からは、銅剣が出土している。

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中国本土東北部に位置する遼寧省の査海で発見玉耳飾

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太陽や鳥それに蛇を信仰する太陽族・鳥族・蛇族が明白にすみわけて存在していた。
太陽や鳥はメソポタミア都に住んだシュメール王が、始めたものと、云われています。

中国最古の約七千年前の漆遺物が出土している長江下流域の河姆渡遺跡をはじめ黄河中下流域の遺跡 遼寧省など調査 中国遼寧省本渓県で中国遼寧省で漆文化の調査始まる 。


遼寧省・凌源牛河梁の新石器時代遺跡、河南省・鄭州大師姑の夏代城跡
河姆渡遺跡は河姆渡鎮にあり、7000年前の新石器時代の文化遺跡
遺跡は寧波市に25キロ離れている。面積が4万㎡あり、1973年11月と1977年10月二度に渡って発掘された文化財は7千点余りある。木造の高床式建築が多く発見され、長いのは25mもある。寧波市
半坡遺跡は陝西省西安市郊外の、仰韶文化前期(B4800頃~B3600頃)を代表する遺跡。
環濠集落跡で、住居は半地下式の竪穴住居。堀は幅・深さとも5~6mあり、区画された共同墓地を伴う。仰韶文化と竜山文化の相関関係が初めて確認

竜山文化 B2500?~B1700?

黄河の中流~下流域を中心とし、類似の文化は遼寧・江蘇・甘粛各省に及ぶ。還元炎による黒陶・灰陶を特色とし、後期には銅器の鋳造も見られ住居は円形の竪穴住居が主

長江文明
黄河流域の麦作農耕に先行する稲作農耕が確認されたことで水稲農耕、
水稲農耕のほか黒陶・玉器・漆器・竹工芸・磁器・養蚕製絹・茶など中国を代表すると認識されてきた文化伝統の多くの源流が確認され、中国最古の都城跡も長江流域で発見された。その伝統はのちの楚文化に継承されて大型の青銅器やすぐれた漆器が多数出土している。
越の国の頃にあたる。

石家河文化 B2800?~B1500?
湖北省天門県石家河で発見版築城壁をもった都市土器は小型で楕円形のものが多い。灰陶器を主流とし、銅器もみられる。城壁の基底幅50mで、造形には竜・鳳凰などのほか人頭像(神像)・獣面など独自のものが看られ、玉器の加工技術があった。城外からは夥しい紡錘車のほか石器や玉器などの工場址が出土銅片の発掘によって冶金が行なわれていた?
。『呂氏春秋』などで、堯~禹の時代に中原と抗争を重ねたとされる伝説三苗部族と地理的にも時代的にも重複する。。『尚書』には、苗民は祭祀より刑法を重んじた。東アジア史データーより。
河姆渡文化
長江下流域最古の稲作文化。浙江省余姚市で発見稲籾の堆積があったことから、稲作を行っていたことで知られる。木造の高床式住居に暮らしていた。
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# by kouhoka | 2007-02-06 17:32 | 夜須弥生民族の正体

弥生王国の遼寧人の姿が見えた

弥生王国の姿が見えた、それは之までの、朝鮮から渡来したとされる、ものが一転して、覆される証拠が、確実なものに、なった。
これは夜須全体に広がる、遺蹟の状態から、確認できる。                       
はじめに、
日本の開花となる、暮らし方が、これまでの常識をはるかに超えることになったのだ。
中国書等が記す、この国の生い立ちが、確実なものとなりました。
これは夜須に於いて神の登場が、第一歩で此れなしには、語られない。
神とは農耕から起きたもので、神が始めに誕生したのでは、ありません、そこには世界でいち早く、文明が王によって開かれました、これがメソポタミア文明です。そしてこの文明の創設者が、ウル王といいました。
このウル王の名は世界に神を印象付け、そしてここに人間という、名前が始まりました。動物から、人間へと変化の時がこの、今から8000年前におこったメソポタミア文明です。
そして長い年月が過ぎて、いますが、今も変わらないのが、神の存在感です。
ここに当社歴研会が、発表する人間と神とのかかわりが語るものとは? 似るという、親子が似ているの、似るに根幹があり、私たちはかけ離れていて気づくきませんが、日本には似ているという文字がありますね、この似ているが明かすものとは、
親子関係のようなものに、根幹がありました。
ここに、夜須の弥生人から見た、似ているの語源に、挙げられるものが、夜須の遺蹟に眠っていました。
まず似ているから取り上げたいと思います。
弥生といえば銅矛、銅戈の原産地から、この夜須内の弥生人が似た、銅戈で暮らしていたという事は、似ているのではなくて、民族そのものが、この夜須に居ることの証明になります。


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この銅戈は夜須の勝山というところの遺蹟から出土したものですが、まだ他にも似たものが、


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遼寧省に見えるのが、この銅戈の一番古い土地とされています。
ここにも似たものが、揃っているのがあり、日本に古代の昔からつくられていた下水菅の施設は天智天皇の頃にも見えてきました。
この下水設備が始めて登場したのも、日本と似たよな、メソポタミア都に住んだシュメール王が、始めたものと、云われています。
ここにも似たよなものがありますね。
この似たものが中国でも、古代の遼寧省に住んだ民族の他を於いては、みられません。
これは似たよなものとは、受け継いだから、似たよなものが再生しているのです。
現存して似ているものは、再生の外にはないのです。
昔の日本では土管で造られた、下水があちこちに、ありましたが、現在は似たものから、かけ離れているとしたのが、ここにあるのです。


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まだ外にも似たよなものがあり、
これは
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土偶にも見えるが、殷の後の時期になるので、同類の民族ともとれますが、これは焼き方が
素焼きではなくて、登り窯で焼かれているのです。
この技法は、火と関わる民族にしか、似たよなものとはならないのです。
竈に関わる民族は、似たよなシュメール人にしか、受け継がれていないのです。
それはすべての似たよなにかかわるもので、人間でも白人と黄色人とは、似たよなものには、ならないことを、明かしています。
それは受け継いでいないという現実です。
このままいけば半永久まで、このすべてのものは、再生しないでしょう。
それは現在の下水道のあり方にも、問題を残しています。
このこのすべてのものは、再生しないでしょうのことば、の中にあるものは、
二度と再生しないという、事は似たものが続くことには、ならないという、神の教えです。
今民営化ということばがあり、改められていますが、これも、このままいけば再生は不可能となるでしょう。
これは人間の根幹を失わせる行為となるでしょう。
後で生まれてくるものは、それまでのすべてのものと出会うことは、出来ないという事を示し暗示ています。

貝い合わせや鋏もこの似たよなものとして、昔の日本にはありました。倭鋏の原産地はメソポタミアと、云われているのがそれです。c0095642_164173.jpg


こうしたものは、とてもよく似ています、それはこの鋏が明かすものには、日本だけの特徴の着物の絹織物は、このメソポタミアの宇宙農耕天文学を説いたシュメール王の他を於いては、似たよなものとは、ならないのです。ここに機織りと宇宙農耕天文学が結びついているのです。


この似たよなものの原点はすべてこのシュメール王に集約されているのです。
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# by kouhoka | 2007-02-06 16:10 | 夜須弥生民族の正体

赤飯と日本の歳時記

日本の風習にはつきものの、祝いの習慣に出されるのが、赤飯である。
この赤飯は原本は古代の、赤米にあることが、新年に判りました。
誰も考えのつかなかった、日本の伝統は祝いの習慣にあるとは?


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古代米の赤米
と赤飯の関係が、日本の伝統の祝いの中にあったとは、学問でも未解決でありました。
それは、似ていることは、よく見てもわかるが、ここにはすべてが共通していることには、気付いていませんでした。
赤飯はあずき豆を混ぜて、一緒に蒸すのであるが、赤米は元々赤色で、そのままであったと感じ気がついて、いたのです。見忘れたもの、
ここには共通した豆との関係はありません?
豆はほかに節分にももちいられますが、歳時記と巻くという習慣が古代にはすでに、共通していたことも、判りました。

塩を巻き清める
これは相撲でも用いていますね。
相撲の塩まきのはじまり. 相撲の歴史は、紀元前までさかのぼるそうです。


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平安の時代になると神社のお祭りの中で相撲がはじまります。
取組みの前に「占いの場=神聖な場所」を浄める「清めの塩」として、土俵に塩をまく風習が生まれたと言われています。
三段目以下の力士は、「塩をまく事ができない」そうです。
日本の力士達が土俵に塩まきをして悪い
鬼を追い出す、という儀式があるそうですが、韓国にもこのような風習があります。
鬼やらいの風習の原理からきていた。
すべてのものの対抗に、払うの慣習がある。

鬼やらい
の風習は古く中国に始まり、奈良時代から平安時代に掛けて、わが国に伝えられたものです。
悪疫を祓う「追儺」の儀式として宮中で行われていました。
鬼やらい 豆をな、まくのだ。
「おにはーそと ふくはーうち」 
神子さまの世界には、春の節分に豆を撒く習慣があるのだそうでございます
伝統行事「追儺(ついな)(鬼やらい)」

紫式部の日記に「つごもりの夜」に鬼やらいを行ったと書かれてあるという。
節分(せちぶん)は立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日を言うそうですが疫病などで多くの人が亡くなったときに、中国で行われていた鬼追い(鬼やらい)が行われたようです。
平安期は一年をしめくくる追儺の行事
この伝統は中国を始めとして韓国などアジアにつたわっています。
ここにあるのは、伝統だけで誰の手によって始められたモノかについては、言及されていません。となれば、

現代も同様に、この伝統は神々のてなるもので、神の退けられた国ではない事がはっきりしますね。
中国でも、文化革命で失われたとされています。
私たちの日本も同じ事が云えるでしょう。
神と付き合う司なる者、それは現天皇の居る皇室でもありません、それは受け継いでいないという事になります。
すなわち、神々の根源に関わる天孫でなければ、司役とはならないと云うことなのです。
それは夜須に居るとされています。
この夜須こそ天孫とのつながりを受け継いで居たのです。

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今は失われた日本の風習は日本人の暮らしと深く共存していたのです。
ここに留めていなければ誰も日本の伝統の大切さにきがつかないでしょう。
すべてのものが自民公明党の政治家や現天皇により、代えられています、それは明治天皇依頼、日本の歴史のすべてが取り払われたのです。

日本には対抗する日本人の、何かがありましたが、現代では何もありません。
それは人間が神々よりもえらいのだと、思っているからなので、大臣のほうが偉いのだと、私したちが、感じているだけなのかも知れません?
ここには人間の知恵はもう失われていたのですね。
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# by kouhoka | 2007-01-03 20:33 | 古代米と食する用具

古代米赤米の開始と弥生

古代から伝わるお米です。赤飯のルーツとも言われています。

「古代米」赤米を新年に食する機会をへて、古代の食が、夜須との遺蹟関係で明らかになりました。
            「児島宮歴史刊行会発表」
出されたので、気がついたのであるが、
小粒の赤米は今年植え付けて、精米したままで、加工は施していません。
蒸し器で蒸して、赤飯と同じあずきを入れた、様式で炊き上げられたと、聞いた。
出されたときは、何の変哲も感じなかったのであるが、これは赤米だと説明された時は、えっ、と感じる思いがした。
あまり、おこわ、と変わらなかったからである。
もちもちした、食感も同じで、味もあまり変わらなかったのだが、
違うところが、この謎を解明していた。
それは、
赤米の食感にあり、少しもち米に比べるとやや、
こつぶの上、かたいところが、然し食べるのには、あまり気にならないくらいである。
この部分赤米の水分の混有率が少ないのではないだろうか?
蒸したとされているから、蒸し加減は同じですので、違うところは、籾粒の硬さにあることになる。
では、古代に於いてはどのようにして、食していたのかが、吾が夜須の遺蹟内の各地から出土していた、甑という、蒸し器の原型である。
ここに弥生の米の生産と食の原理が保たれているのである。
東北や北海道では、米が生産されていたとしているが、遺蹟にはまだ、用途が見つかっていず、開始時期が、平安以降頃に始まっているのであろう。
それは中国会稽でも、夜須と同じ用具があって初めて、伴うのであり、用具がなければ、なかった事になる。


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赤米と関係したのはこれだけではありません。
米は神々との関係がとっても深い関係にあること知らねばなりません。
これは鎌倉時期の神々との関係を表わす原理で、
隠岐島に遠島になられた後鳥羽院がここで始められた神々のなごり、を表わすもので、角杯祭礼に始まるものの、変形の牛の相撲ならず、闘技なのです。
ここに古代の神々を司る院のお姿が見られ、
これはイラクのシュメールから受け継いできたわが国の歳時記の一つになります。


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伴うのを表わしたこの牛の闘技相撲は、隠岐の名物とされています。
特にわが国に相撲を取り込まれたのが、
夜須の篠隈前田の児島宮の先祖に当られます。
夜須に始まる稲作と用具の製造は古代を語るものとして、日本ではここにしか、見えていません、ので、神々の文字の起こりを示す古代の中国春秋時代の文字が、ここ
夜須の一帯から発見されています。松延梨の木遺蹟出土容器

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古代文字
惣利遺蹟出土の硬質土器 鳥巣窯製造
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古代の邪馬台国はここだと、されているがこれを忘れているので、それは共通するものでなくては成り立たないという、事実ニアリマス。
モノゴトのすべてに共通していなければならないのです。
これが日本の原点なのです。
日本とはこの共通した形でなければならないのです。
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# by kouhoka | 2007-01-03 19:59 | こしき、と稲作

甘粛省から甑が出土夜須との関連が裏づけ

古代シルクロードの重要な一部となり、社会と経済が栄えた。

甘粛省は黄河上流域に位置し、古来よりシルクロードに通じる交通の要衝である。
4000年前の大型史前集落遺跡を発見 甘粛省河西回廊に4千年前、高度な農業文明が存在が確認できた。
陶窯9基と精美な陶器、物を焼いたり、あぶったりする「焼コウ(火+考)坑」430カ所余りを発見
その焼成法は硬質土器に酷似したもの。
この土地は古来、ここは長安から西域へ入るための黄河の渡河点、つまりシルクロードの宿駅として栄えてきました。

甘粛省でこのほど、約2800年前
の甑が見つかった



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セットで見つかり筑前夜須との関連が、尚且つ鮮明に浮き上がってきた。


夜須での甑は北部九州でも先駆けて西新遺蹟でも出土していて、稲作が中国からもたらさせられた事も証明された。
筑前夜須の甑を見てみようこれは文化財で最近撮影したものである。


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米などを蒸すために使用された土器。底に穴が開いており、そこから蒸気を取り込み、蒸し器のように使ったと考えられる。
上帝様は、宇宙の主宰者、三界大権の主宰者です。
‘上帝’という言葉は東西文化の神観、世界観、宇宙論の特徴を分け隔てる
帝とは、上帝様の帝、天帝の帝を示します。“天帝が辰方、即ち東方の地に降誕なさる”、という意味です。秋の開闢を強調なさいます
ここでの秋の開闢とは稲の収獲のことです。
次に出てくるのが、火と水のものがたり、夜須では炭焼き長者伝説で、あまり、地元では馴染んでいないが、時期が古代であるゆえ、文化財は知らないようである。
この伝説は、力の事ゆえ、目で確かめられないが、いろんなものに変化している。
稲作では蒸して食べるまでの経過を表わし、ているのが、各地に伝わる長者伝説である。
今は、天と地と人が、開闢する時稲の収獲のことです。
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# by kouhoka | 2006-11-04 13:53 | ヒルハタ遺跡

耶麻台の鉄が鋳造されていた

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ヒルハタ遺蹟では主に青銅器や鉄で加工した刀子や鉄刀などが鋳造されていた。この技術は何処からもたらされたのか、気になるところで、これまでチ朝鮮半島とされてきたが、新羅を治めていたのは倭国であり、それ以前から、鋳造技術はすでにイラクに始まり、5000年前に鉄は説かされていたこともあり、それが日本とのかかわりとは、すぐにはならないけれど、鉄で造られたイラクの糸切り鋏と日本の倭鋏の関係から明らかになります。児島歴研会説
糸きり鋏)は日本
独自の伝統的な工芸品です。といわれるが、そうではありません、そんなに
賢くはないのです、素晴らしい日本古来の技術が失われようとしています
新しきものは、破滅へ繋がるとシュメール王の言葉にある。


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ではイラクから直接渡来したといえば、それは無関係である。
それは中国の歴史を経てのことで、
イラクから移動して中国雲南に入ったのは今から5000年前に、黄河流域の稲作が起こったのが、日本との関係の原点の始まりであった。
ここでの稲作と建築法や習性が長く中国の文明を作り上げてきたのは、イラクから移ってきたシュメール人であった。
特に夜須との関連があるのは、この稲作の米を食べる習慣にあり、煮て食べる現代とは少しばかり異なります。
ここ雲南では硬質土器で焼いた器が、メソポタミア技法による、焼成法にあって燃焼率の高い穴窯が、この土器を造る原点であった。メソポタミアでは鉄の鋳造が始まり、火とモノとの関わりがここに、始まり、日本の神々の原点はここにあったのだ。
イラクシュメール人は麦を生産していたので、竈が世界で最初に作られたのも、ここだけである。
竈は日本の神話のみなもとで、火の尊はここからきている。
ここではフイゴがあり、鉄の鋳造には欠かせないものであった。
シュメール人は麦を粉にしてパンを焼いていたのも、竈なくしてはできません。
竈は人間にとり、かかせないもので、風と水も欠かせませんでした、これが日本に渡来した時携えてきたのが神々の始まりと言えるでしょう。
ここに神々として記されていたのが、記紀に記されている。
同じことの繰り返しがあるからこそ、人間は生きてこられたのですから。
途切れていたとしたら、現在はなかったでしょう。これを整合法といいます。
夜須で突然始まったのでもなければ、朝鮮から取り入れたのでありません、それは中国から渡来した紀元前111年前の中国会稽の王南越王その人でありました。
それがこの甑にあり、甑の始まりは雲南の河姆渡(かぼと)という遺跡
黄河文明
雲南省が稲の起源 甑はメソポタミアから持ち込んだ蒸し器
弥生人の王の先祖にあたるのですべてが夜須と同じ要素がある。



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夜須文化財課
縄文時代紀元前1000年前から弥生まで、これらの、習性は何もなかったのです。
それは縄文人と呼ばれる民は、殷の民で、あった為思想感が弥生人とは違い、それは暮らしに見えています。
彼等は狩猟をして暮らしていたので、神はあることにはあるが、それも人間が神でキリスト教と同じ思想感がありました。
それで人形を形作り、儀礼に使っていたので、殷の民だとすぐに判ります。
何故違うのかが、ここにあり、彼等の祖先は、実は
イラクシュメール人ではないのです。
彼等はイラクシュメール人と交易していた祖インドの山岳民族インドラ民でした、後の中国に移動したのは、矢張り同じく、アーリア人に侵略されてから、移ってきたといわれています。
ここに中国の二代民族がはじまりました。
インドラ民は、後の倭人となりました。
一方イラクシュメール人は夏王朝を造り都を造り、ここに中国の文化を広めたのが始まりといわれています。
ここでもシュメール人は名を変えて農耕から夏に関わることから、彼等は夏と呼ばれました。
日本の風習が夏にかかわるのも、こうした長い歴史上をささえて守りとおしてきたから、日本の名の如く、二つの民族から、日本筋の名が出来たのでしょう。
夜須との関係を上げるとしたら、鉄の生産もあるが、何といっても、火と水は欠かせない一つでしょう。
メソポタミアでウル第1王朝(シュメール人)。1927年の
発掘により、王墳がみつかり、殉死者が知られます
メソポタミアで初期農耕と牧畜の開始彩文土器の生産の中心地であったメソ
ポタミア ウバイド系彩文土器

北西シリアの遺跡から出土するウバイド系の土器は、起源地である南イラク
のウバイド土器
器の形や描かれている彩文の図柄などは他の地域では見られないものがある。
この特徴は天文学模様の描かれていることにある。
今を遡ること8000年前。ビールは、古代メソポタミアでシュメール人が大麦
パンを水に溶かして食した(=大麦粥)ことから誕生したと言われています。

古代メソポタミア文明の麦の収穫量は、1粒の麦を播いて20倍
から 80倍の収穫があったといわれている。

そこから米との関係が受け継いできたので、夏時代の道具がここ夜須に、関わっていたのは、火と水で米を蒸してだべる習慣が残るのがお正月の餅つきがその名残なのです。
めでたい時には餅つきが昔はありましたが、現代は西洋の風習に変わっているので、あまり感じなくなってしまいました。
これには勿論竈で鎌に水を入れて蒸すという古代の習わしを、守りとおしていたのですが、、現代はなくなりました。


許諾がしたくない方は、リンクするか種元を参考としてください。
                ☆児島宮刊行会
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# by kouhoka | 2006-11-03 17:30 | ヒルハタ遺跡

大木遺跡出土の甕棺線刻画はものがたる

大木遺跡から弥生時代中期のものと見られる日本最古の彩色絵画が発掘.した
福岡県朝倉郡夜須町の大木遺跡出土のかめ棺に描かれた動物や建築物は、弥生中期初めの絵画としては比類ない物語性をにじませている。

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最古級の着色線刻画 夜須町・大木遺跡出土の甕棺 福岡県朝倉郡夜須町教委は七日、同町篠隈の大木遺跡から出土した約二千百年前の弥生時代中期初めのかめ棺に、黒く着色されたシカの絵と家屋などの線刻画を確認した。これまで最古とされる福岡市の吉武高木遺跡から出土したかめ棺のシカの絵とほぼ同時期のもので、同町教委は「弥生の絵画としては最古級。当時稲作に適したこの地に既にクニがあったと思われる」としている。
大木遺跡III 福岡県朝倉郡夜須町大字篠隈所在遺跡調査報告 夜須町文化財調査報告書 第56集
鹿の生態は
角が生えているのはオスだけで、メスにはありません。角は1歳になる頃に生えはじめ、毎年春頃に生えかわります。春-出産、夏-育子、秋-繁殖、冬-雪とのたたかい。
  シカは四季折々に、それぞれの土地で、それぞれの自然と深くかかわって生きて
  いる。
大切なシカを守ることは、種が守られればよい(系統的保
 護)とするのでなく、その種が生態系の中で生きている状態を守る(生態学的保護)
 ことにある。


稲・太陽・鳥の信仰は長江からやってきた
揚子江(長江)下流域から東シナ海を越えて日本列島に伝播した
稲作と太陽・鳥の信仰をもたらした

農耕(水田稲作)儀礼―供犠としての「鹿」の生態は、民俗学の他、歴史的にも重要なところです。

自然のサイクルを古代人は鹿の生態を農耕の暦に重ねてとらえていた。
1年を365日とする太陽暦と同じ周期の暦がこの農耕暦
自然と生命のサイクルである28日を1つのまとまりとした13ヶ月364日に、もう一つの全体である1日を加えた1年365日という
天体観測による方法
自然周期により知ることができる。つまり、自然のサイクルを古代人は鹿の生態を農耕の暦に重ねてとらえていた。
太陰の一連の位相変化(月の満ち欠け)によって簡単に知ることができる。
暦という字は,中国古代の伝説的帝王の黄帝が始めて暦を作ったという「漢書律歴志」
農耕開始の目安とする自然暦として ... として農耕儀礼・稲作儀礼・畑作儀礼となっていった。

農耕から始まる現在の文明はこの鹿の生態を農耕の暦に重ねてとらえていた。
最終的な形の文明への進化に失敗したら文明と人類は悲惨な結末を迎えるかも知れない。
古代人は鹿の肩骨を焼き、ひびの入り方を調べる占いをしていました。
再生と循環の中に身を委ねた。宇宙の生きとし生けるものは、みな平等の価値をもち、その命はともに永劫の再生と循環をくりかえしている。

農耕から始まる鹿の生態起源は今から8000年遡る、イラクのメソポタミアのシュメール王により、開かれた。それはシュメール王が身に付けている手に携える七木と鹿から、天文学との関わりを、見ることが出来る。
世界で最初に文明が開かれたのはここ、メソポタミア国であった。
鹿と農耕のサイクルの暦はこの時に始まったもの。
農耕民は天体の運行と作物の植え付けとを同期させた。
中国伝来の天文学は主に占いと農耕用の暦に使われた。

稲作を中心とする農耕のサイクルは秋の収穫でいったん閉じます。
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# by kouhoka | 2006-11-03 14:51 | 大木遺蹟

呉人の埋葬方タコシ遺跡

曽根田常円寺裏の「タコシ遺跡」では中期初めの竪穴式住居跡一軒と貯蔵穴8基(第20図)が見つかっており集落の一端が窺える。
夜須町曽根田の「常円寺」の裏にあり基盤整備の工事人から聞いた話しだが役300個の甕棺が認められたと語る。泉組

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お墓は、かめ棺墓4基、土抗墓や木棺墓が11基ありました。これは呉人の埋葬方である。

2 甕棺墓; 3 支石墓; 4 石棺墓; 5 木棺墓; 方形周溝墓(方形低墳丘墓)呉人の埋葬方


呉人の埋葬方
木棺墓. 木棺墓(もっかん
ぼ)は、木製の棺を用いる墓である。近畿地方や伊勢湾沿岸部での主流となった。
支石墓(しせきぼ)は、数個の支石の上に天井石を載せる墓である。呉人の埋葬方
木棺墓(もっかんぼ)は、木製の棺を用いる墓である。近畿地方や伊勢湾沿岸部での主流となった。呉人の埋葬方
橿原市の弥生時代
特に弥生時代前期末~後期初頭の甕棺墓(かめかんぼ)、木棺墓(もっかんぼ)は10以上の
群を為し、総数1200基にも及びます。吉武高木遺跡呉人の埋葬方
須久岡本遺跡福岡県春日市の春日丘陵一帯は、弥生時代の遺跡が非常に密集合わせ口甕棺が出土呉人の埋葬方
参考湖南省長沙曹[女巽]墓 長沙王呉氏の夫人 呉人の埋葬方
三雲南小路遺跡甕棺墓璧というのは中国ではひじょうに尊重されたものなので、ガラス製といえども璧が出土今のところ、この一号墓と上の須久岡本D地点甕棺墓に限られている 呉人の埋葬方

原の辻遺跡安国寺前A遺跡・安国寺前B遺跡・鶴田遺跡北部九州系甕棺片・瓦質土器片・無文土器片 朝鮮半島系住人の居住域の可能性・12基の甕棺墓の確認 車出遺跡銅鏃・獣骨・貨泉・方格規矩鏡細形銅剣・石製剣把頭飾・ココヤシ製笛
中国朝鮮産陶磁器・ベトナム系陶磁器呉人の埋葬方 
原・高元・池田大原・原ノ久保B(H9)甕棺墓・濠・溝・竪穴住居跡呉人 不條・高元(H17)呉人
原・高元・石田高原(H16土坑・竪穴住居呉人不條・八反(H15)土坑・甕棺墓呉人
古賀市馬渡・束ヶ浦遺跡弥生時代中期以降の土壙墓・木棺墓・組合せ式木棺墓などが発掘呉人石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ呉人の埋葬方

藤崎遺跡(ふじさき いせき)早良区百道二丁目、藤崎百基を越す甕棺墓地呉人の埋葬方

土井が浜土壕墓呉人の埋葬方
ここでの埋葬のタイプは3つ <石棺墓><配石墓><土壕墓>
大分県地方の弥生社会
日田 玖珠地方や宇佐 安心院(あじむ)地方において 舶載鏡 の破片や 鉄器 を副葬する 石棺(せっかん)墓 や 石蓋土壙墓呉人の埋葬方(せきがいどこうぼ) が出土大野川上 中流域-墓地土器棺墓呉人の埋葬方 が出土千歳村 平石遺跡 では壷棺(つぼかん) と甕棺呉人の埋葬方13基日田 天瀬地域成人甕棺呉人の埋葬方が出土天瀬町 五馬(いつま)大坪遺跡 の調査例が知られている。遺跡の約半分を発掘した結果、弥生時代中期中ごろから後期初頭の 土壙墓 木棺呉人の埋葬方(もっかん)墓 石棺墓系 甕棺呉人の埋葬方など75基の墳墓群が密集宇佐市の 駅館(やっかん)川 東岸台地には、弥生時代前 中期の拠点的集落 野口遺跡 御幡遺跡 樋尻道遺跡 など300基~80基石蓋土壙墓呉人の埋葬方が主体である15基うちの1基に中国後漢代の 内行花文鏡(ないこうかもんきょう) の破片呉人の埋葬方

佐賀市金立丸山遺跡弥生時代前期の墓は、支石墓呉人の埋葬方、甕棺墓呉人の埋葬方、石棺墓ビン民族の埋葬方。などで約130基がある。 このうち支石墓呉人の埋葬方が最も多く、100基以上検出されている。


ビン民族の埋葬方
遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代中期から見られる。ビン民族の埋葬方。
石棺墓(せっかんぼ)は、板石を箱状に組み合わせて棺とする墓である。箱式石棺墓ともいう。ビン民族の埋葬方。
石棺墓は北部九州から中国地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった。ビン民族の埋葬方。
平原周溝墓ビン民族の埋葬方。
平原遺跡では、方形周溝墓三基、円墳二基が見つかった。ビン民族の埋葬方。

石棺墓は四川西北の茂県・ビン川・理県の三県に密集して分布している特殊な墓葬である。

県府鳳儀鎮の羌族博物館で石棺墓

吉野ヶ里遺跡(弥生時代)石棺墓
石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった。
松延吹田周辺は石棺墓が300個確認できた。
八並畑島赤坂でも石棺墓は確認されている。羌族ビン民族の埋葬方。

箱式石棺墓と
もいう。石棺墓は弥生時代前期に、支石墓に伴う形で現れた。石棺墓は北部九州から中国
地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。

堂ノ山箱式石棺墓(どうのやま はこしきせっかんぼ). 東区勝馬もとは3つの墳丘があったと
いう。細形銅剣鋳型(県指定文化財・志賀海神社蔵)の出土地である。羌族ビン民族の埋葬方。

沖縄ではじめて「箱式石棺墓」が発見日本では弥生時代の墓制羌族ビン民族の埋葬方。
阿嘉島の古墳(箱式石棺墓)慶良間諸島羌族ビン民族の埋葬方。

佐賀県東松浦郡呼子町大友遺跡支石墓8基、甕棺墓4基、箱式石棺墓2基などを発見羌族ビン民族の埋葬方。

産島古墳(うぶしまこふん)3基の箱式石棺や人骨・鉄剣などが発見羌族ビン民族の埋葬方。

天草郡倉岳町棚底
宮崎石棺墓群に残る箱式石棺は22基羌族ビン民族の埋葬方。

福江島農耕文化弥生時代の遺構は板石積石棺・箱式石棺であり、支石墓の外観をもつ遺構も存在する。の流入羌族ビン民族の埋葬方。

原の辻遺跡原ノ久保A(H8)竪穴住居跡呉人・濠・溝・甕棺墓呉人・箱式石棺墓ビン民・土壙墓呉人・集石遺構 閨繰遺跡(H10)箱式石棺墓ビン民・甕棺墓呉人・土壙墓呉人
原の久保・大川(H16)土師器・須恵器・陶磁ビン民

山口市白石茶臼山石棺墓群弥生時代終末期から古墳時代前期計9基の箱式石棺が発見ビン民

小郡市大刀洗町甲条神社遺跡甕棺墓呉人(かめかんぼ)・石棺墓ビン民(せっかんぼ)がある
粕屋地域原石棺群13基の箱式石棺墓と1基の石蓋土坑呉人が発掘粕屋地域では多くの箱式石棺墓があったビン民

山口市朝田の丘陵朝田墳墓群発掘調査により、木棺墓6呉人、箱式石棺墓ビン民
13、壷棺墓呉人4、周溝墓呉人(浅い溝を巡らし封土をもたない墓)8、石蓋土壙墓呉人(せきがいどこうぼ=地表面を堀りくぼめて造られた墓穴)8、が確認された。

東脊振村戦場ヶ谷遺跡甕棺墓160基呉人、
土坑墓87基呉人、石棺墓ビン民5基の252基の墓と、 ... この墓地群では、甕棺墓呉人2基、石棺墓ビン民31基、
土坑墓呉人13基が見つかっています。

原石棺群(はるせっかんぐん)は、犬鳴山塊の南側箱式石棺墓ビン民が16基、土を掘り窪めて石で蓋をした石蓋土壙墓呉人が1基確認された。

佐世保高島宮の本は弥生時代の埋葬(まいそう)遺跡その多くは箱式石棺ビン民という埋葬様式を主体として、多数出土している。
下本山岩陰の弥生人骨 四反田遺跡の支石墓呉人

古代西南諸民族
禹之九州西羌伝太古より甘粛・青海地方から四川に向かって南下遷徙し、雲南・貴州、さらには東南アジアへ移動していった古代西南諸民族の移動ルートキョウ・キョウ都古代四川の非漢族『後漢書』南蛮西南夷列伝成都平原の新石器時代後期の遺跡と古「城址」は強い地方色をもっている時期的には中原の竜山文化期に相当する。成都平原では現在知られているうち最古の文化中原でいえば二里頭文化の第四期
中国西南地区の石棺墓は岷江・大渡河・雅?江・金沙江・蘭倉江流域の川西高原及び?西北高原に広く分布する。岷江上流域のものであり、従来の研究では石棺墓群の年代と分期、文化的特徴、族属などが問題となっている。岷江上流域における典型的な石棺墓は、茂県撮箕山石棺墓群・茂?県営盤山墓群・牟托一号石棺墓・茂県城関墓群・理県佳山墓群の5つである。石棺墓群は1~5期に分期され、墓葬年代はそれぞれ春秋前期・戦国早期・戦国中期・戦国晩期・秦~漢初期である。岷江上流域の石棺墓群の早期には甘青地区の馬家窯文化・成都平原の古蜀文化の影響を、戦国期には甘青地区の寺窪文化・巴蜀文化の影響確認される。

中国先秦時期の西南地方一帯には、蜀と羌という2つの比較的大きな族集団が分布
羌は蜀よりも更に広範に分布し、多くの部落が西南から西北地方の各地に広く存していた。
蜀族の来源は?羌系民族と関係蜀族は新石器時代晩期までにはすでに成都平原に蜀王である蚕叢の事跡 古代の?羌系民族先秦時期の蜀族及び蜀国の王室は?羌系民族の出自
戦国秦は黄河流域の諸国に遅れて成長したが、巴蜀と楚の領域を占領楚の故地からは戦国資料が出土 巴蜀から文字資料が出ない
早稲田大学文学部長江流域文化研究所
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# by kouhoka | 2006-10-20 17:31 | タコシ遺跡

三並の鳥巣池「八並窯跡」と夜須の遺蹟の関係

三並の鳥巣池「八並窯跡

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須恵器は、登り笠を用いた環元焔焼成によるネズミ色をした硬質の土器である。
土師器と用途によって使い分けられる
夜須町大字三並「八並遺跡群」とのかかわりがある。
時期は窯周辺から出土した須恵器と比べ、弥生後期270年には認められる。
決め手は象形文字が刻印された須恵器が夜須全体の遺蹟から出土して、竈の出土した時期と比べられ、甑の用途は「梨の木遺蹟」「梶原遺蹟」「城山遺蹟」稲作に起源していて、中国ビン民族の渡来が確認できた。
豊穣祭礼にミニチュア土器と竈の儀礼に使用されたものが「梨の木遺蹟」で確認されている。
これらは須恵器は、登り笠を用いた環元焔焼成による素焼きではあるが硬質土器である。
中には器台も多数松延周辺では確認され、高床式倉庫が確認され、松延堤北側の水辺に柱跡が確認されている、これは未調査。ここにも祭礼が行われたであろう。


これら須恵器と松延遺蹟出土の角杯や爵は用途が中国ビンと認められる。
夜須の遺蹟の時期は甑が全般から出土した事で、稲作開始と天孫降臨すなわち、神々祭礼と倭国に文明が開いた時期と重なる。
特に惣利遺蹟との関係は弥生ビンの用具が随所に見られ、古代夏王朝の用具と酷似している。甑や稲作と木製農具の類似と住まいが高床式建物が之も類似する。

曽根田「宮ノ前遺跡」、三牟田「下町遺跡」、同「ヒルバタ遺跡」等は有機的に結ぼれた弥生時代の後期中ごろから古墳時代初めにかけての拠点的地域であったことは明らかであり、 一つの「クニ」(やす王国)の存在を想定する所以である。
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# by kouhoka | 2006-10-20 16:48 | 鳥巣八並窯

弥生後期夜須の遺蹟

福岡県夜須町ヒルハタ遺跡出土・弥生時代後期,
窯工房は鳥巣窯、 木工房は惣利遺跡、

福岡県朝倉郡夜須町三牟田鍛冶工房はヒルハタ遺跡、ガラス製勾玉銅鏡の鋳型等出土

夜須町大字東小田「中原前遺跡 中広形銅戈

夜須町文字朝日「宮ノ上遺跡」

福岡県朝倉郡夜須町・東小田峯遺跡弥生時代後期のヒルハタ遺跡

吹田(ふきだ)遺跡(夜須町)

福岡県朝倉郡夜須町の大木遺跡の環濠跡から見える土器の廃棄跡現在地JA夜須

福岡県朝倉郡夜須町七板遺跡

夜須町松延三国手遺跡

福岡県夜須町惣利遺跡出土扉 ...

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福岡県夜須町の大木遺跡から弥生時代中期のものと見られる日本最古の彩色絵画が発掘.
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# by kouhoka | 2006-10-20 13:54 | ヒルハタ遺跡

天日鷲神

「古語拾遺」によると、天日鷲は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。
太玉命の孫天富命が、天日鷲の孫(阿波忌部氏系図では由布津主命)を率いて、阿波の国(徳島県)、更に総の国(千葉県)を開拓したとある。阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の義理の兄弟で、天富命と由布津主命の娘は夫婦である。尚、四柱の神とは以下の通りである。
 天日鷲命(アメノヒワシノミコト/阿波国忌部の祖)、
 手置帆負命(テオキホオイノミコト/讃岐国忌部の祖)、
 彦狭知命(ヒコサシリノミコト/紀伊国忌部の祖)、
 櫛明玉命(クシアカルタマノミコト/出雲国忌部の玉作りの祖)

天富命は更に沃穣の地を求め阿波の齋部(いなべ)一族(四国の豪族)を率いて東国(房総今津朝山)に下り、麻穀を播殖したところ良質の麻の産する所と知り、この地を「総の国朝山」と名付け、天日鷲命を守護神として奉祀した。鷲神社

忌部氏の祖、天日鷲命を祖神としているところが各地にある。 ... これは文字どおり麻を栽培することであって、大和から阿波の地に派遣され、国土開発の命をうけた天日鷲命が、この地に麻が豊富に自生していることに目をつけて、麻を栽培する適地としたからであろう。

奈良時代720年の日本書紀神代上第三の一書に「...粟国の忌部の遠祖天日鷲命の作れる木綿(ゆう)を懸けて,忌部首(おびと)の遠祖太玉命に持たせて...」とあり,この天日鷲命の子孫によって阿波を開拓していった事が古語拾遺にある

天日鷲神 (あめのひわしのかみ) ... 天日鷲神は一般にお酉様 として知られ、豊漁、商工業繁栄の守護神として古来郷土の人々の篤い信仰をあつめてまいりました。

天日鷲命(アメノヒワシノミコト)といわれる鳥の神様です。

天日鷲命(あまのひわしのみこと)が弦という楽器を司りその弦の先に鷲が止まったので、世の中を明るくする瑞祥を現す鳥だと大変喜ばれ、天日鷲命は開運 の神 浅草の名所

阿波国を開拓したのは、天太玉命の弟の天日鷲命とされる。
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# by kouhoka | 2006-10-19 15:37

夜須松延早鷹天神

松延に在している早鷹天神社は古代弥生中期を物語る根拠でもある。。
小郡横隈にも早鷹天神社は見えていて、七夕神社として有名である
これも古代弥生中期を物語る根拠で、弥生人と稲作を語る物語として、取り入れたものであった。弥生人と稲作は祭礼ての宇宙天文学での、古代の風習のなごりでもある。
後に日本の各地に移っていったので、早鷹天神社はあちこちに存在する。
その神々は同一のものである。
早鷹天神伝説はいろんな、産物ともかかわっており、世界の文明の創設にも関係している。
夜須のほほ全域の弥生後期の遺蹟には、これらの産物は数を知れない膨大さがある。
これからの夜須児島プログでおいおい紹介していくつもりです。

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これは夜須松延早鷹天神の由来書



ウガヤの時松延の水溜りに鷲が舞い降り、と福本氏の書かれた中にあります。これは古語拾遺にありと載せ、夜須松延には記録にある神社と早鷹天神が祀られています。


【古語、爾伎弖。】令天日鷲神與津咋見神穀木種殖之、以作白和幣。【是木綿也、巳上二物、一夜蕃茂也。】

【古事記上卷】
日子波限建鵜葺草葺不合命、 娶其姨玉依毘賣命生御子名

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# by kouhoka | 2006-10-19 15:21

夜須の由来早鷹伝説

松峡宮(まつのおのみや)(朝倉郡夜須町) とは何処なのか?
この語源を紐解くには、宮とあるのは古代に於いては、神殿の事を意味している。
古代の記録では、ウガヤと早鷹伝説での湿地とは、どのような処を表わしているのか?
その時期の事を思い描けば、定着した住民のことになる、がその訳は農耕が始まったので、食物を求めていく必要がなくなった事に原因している。
すなわち、稲作が始まり其処が湿地田んぼという訳になる。
この場所が問題となるが、話を戻して神殿との関わりから見ていきたい。
稲作と祀りの関係がこの神々を取り込んだ神殿神社の前身の事を話そう、この神々を取り込んだ神殿が謎を解くカギとなる。
古代のビン民族は、生活の物事には必ず神祀りが行われていて、その司が王である。
中国では泰山に、祀られて居たという。
ここでその王は、神殿の中に住んでいたのは、現在の神社の形式で知る事が出来る。
ここに古代のウル王の姿を残された出土品で、見ることが出来る。

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ウル王の姿には背中に羽根があり、これが王の鷹との関係を表わし、『日下部家多氏古事記』に記載されている、ウガヤと鷹の伝説の基になった原本である。

ここで王の住まいは筑紫城とか、平山城とか云われていて、『宋書』の中に記している。
これが日本では、神宮皇后の時に松峡宮に向かったとの記載と同じである。
松峡宮の由来についてだが、松延の老人が語る、砥上山の麗から松延峡(現在松延堤一帯)には、赤松が明治時代迄はあったと語るところから、この松延峡に松峡宮があったとなる。
之を裏付けるのが、宇佐神宮との関わりを持つ作者に親しい小山田徳という、人が語る松延の
筑紫城は松延峡にあるとの、知られていなかった伝説である。
これと、『日下部家多氏古事記』の話は一致している。
これは大きな手がかりである。
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# by kouhoka | 2006-10-19 14:40