宇宙の太源

それは、はじめ天地創造(地球だけでなく、この宇宙の創造にを、ご覧になればの事です。
ほとんど同じなのです相関関係というものです。
「カオス」の世界というのは、とにもかくにも、真っ暗で、だだっ広くて、ごちゃごちゃした、まるで真っ黒い、もやもやとした煤(すす)の煙の中のような世界であった、相関関係というものです。
宇宙の創造ということに対して、人類は?
真っ向から妨害し、邪魔するような行為を始めるようになっていった、ということなのです。しわよせは来る起きる。

宇宙の歴史というのは、サイクルの繰り返しが起きているということなのです。マヤは知っていたのです。受け入れるか受け入れないが?

反創造主(いわゆる、偽神や悪魔のような存在)が出てきては、それを即座に壊したり、なし崩しにしたりするのが現代です、沢山の事書いてきました。歴史のサイクルの繰り返しになっているようであった。といっています。

「宇宙の太源」

「創造主なる神」によって天地万物のありかたを、
創造主である神様に反し創造主(いわゆる、偽神や悪魔のような存在)が出てきたイエス、アッラー、統一教会、などです。それを即座に壊したり、なし崩しにしたりするのが現代です、掲示板でも、沢山の事書いてきました。
やはり、サイクルの繰り返しが起きているということなのです。ということは、今の世界観が見える。閉じられる時。
大洪水のとき地球の両極付近から起こった冷却は通常考えられるものよりも瞬間的だったとする。

サタンにまどわされたアダムが罪を犯して堕落し、人間は罪の刑罰として死ぬ。宇宙の穴ブラックホールの中へ。

つまり、地球人の創造主は宇宙人アヌンナキだという事です。
地球に来訪していて、やはり地球人を創造していたという事です。ひとりでに、はじまることは、ありません。
シュメール語訳『古事記』で見てみよう。
「ニビルと言う星からやってきたアヌンナキと言う人々が人類を作り、そして、地球文明(シュメール)を興した」と。

シュメール神話に出てくる説話と同じものが、『記紀』にも登場する。日本とシュメールは同祖だった。

「天地開闢」

天地開闢(てんちかいびゃく)とは、世界の始まりのこと。 天と地はもともとは混沌として一つであったのが、天と地に分離したとする中国の古代思想を背景にこの表現は
成り立っている。

天地がその姿かたちをなす前、全ては卵の中身のようにドロドロで、混沌としていた。その中に、天地開闢の主人公となる盤古開天(ばんこかいてん)とも。が生まれた。伏羲 女?
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# by kouhoka | 2011-06-15 16:56 | 宇宙の太源

式年遷宮それは、古代の古代のならなしでも、しきたりでもありません

式年遷宮それは、古代のならなしでも、しきたりでもありません、
ただ、そう思っているだけなのです。
の、ならなしでも、しきたりに、逆行しているのです。
歌舞伎役者のように、扮装し演じてみせものに、神をしているのです。
大変な悪意にみちているのです。

それに感激している国民も、同様に、すべてそうですが、
みな神に逆行していて、
悪意にみちている。

明仁と美智子さんが、東北大震災の見舞いに、地区の住民が感激していますが、
それも、みな神に逆行していて、
悪意にみちている。
何故だか?わかりますか?
天皇が、東北大震災の見舞いに、行くのは、天から落ちているようなもので、上から、落ちないのが天皇なのです。
今の天皇や宮内庁は、クリスチャンですので、
日本の天皇ではありません。
意味がわかりますか?
ここにも順序が、違いますね?

順序むかしは、「おりめ」、正しいふるまいと、いいました。

日本人がしきたりを、知らないから、日本のすべてが、
何がなんやら、判らなくなっている。
日本のすべてが、
「おりめ」、正しいふるまいとは、いえません?

もうなりふり、
かまわずに、しています。

「おりめ」、正しいふるまいとは

日本人が、日本のならわしを、していない?
今着ているのは洋服ですね、ほとんどが洋装ですね。
ですから、日本人ともいわず、ぬひといい、
なんでも理由はないのです現代は。

越式ならわしとか、しきたりは、児島宮でしか、
あじわえないのです。
それが順序というものです。

伊勢神宮も、すでに、習しも、しきたりも、行なわれておりません、されていると、
国民が思っているだけです?
それが、同じ
越式ならわしとか、しきたりは、児島宮でしか、
あじわえないのです。
それが順序というものです。

日本人を知るには、日本の伝統でわかる、伝統とは、長く続いていた日本の衣食住に見える?
この中で、日本人といえば、衣食住である。
この衣食住の中には神から構成されていたのである。
日本以外には、同族以外には見られない。
それが神から構成されていたのである。
世界で神とするのは、実際は、
神ではありません。
何故なら?それは実生活にあります?

衣でいえば、洋服と和服着物の違いにあり、
きものは、帯がつきものですね?
外国には帯は、ありません。
このおび、は、神から出来ていたのです?

帯を解説はまだ誰も神について、知らないので、解説が出来ないのです。
神を解説すると盗作されますので、
ここでは、詳しく説明しません。
日本の伝統は弥生時代から、
越民は、きものに、おびを、
しめて、いました。

帯には、日本の名がこめられていた。
体の中心が神のおび、に相対するところです。
日本には慣わしというのが、
あります。
現代ではこの、
日本人のならわしは、なくなりました。

日本の、ならわしこそ、日本の美なのです。
着物着るのが、美しいとはいいません?
ならわしそう、しきたりとも、いい、
順序よく、着ることが、ならわしです。
相撲もならわしが、ありましたが、
明治以降は、「しきたりも、ならわし」も、ありません。

何故だか、判りますか?
よく考えても、わからないと思います、何故なら、順序どうりには、すべて、していないのです。
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# by kouhoka | 2011-05-13 16:52 | ならなしでも、しきたりでも

新しいものから先にして(行政)、昔からの一番大切さが、判らなくなっている

新しいものから先にして(行政)、昔からの一番大切さが、判らなくなっている
この意味が理解出来ない世界は、ずれている?!見分け方が、何か 世界の人間が崩壊してしまった。としよりを不幸にしている。

人間失格とは?一言でいえば?
親が子を作る、そして育てる、これが始まりで、最後は、子供が親のめんどうを、みる?これをつながりという。
つながりがない事が、人間喪失である。
人間はつながりによって、生まれるもの。
これがうまくいっていないのなら、人間失格といえる。

現代は、ひとことで表わせば?
【憲法と政治が、人間の適正】、であると、しているのが?日本人が読みきれない?部分で、
憲法と政治よりも一番大切な事?はじめとおわりが、つながって、いないと、児島宮家祭主はいう。
【憲法と政治が、人間の適正】、は人間喪失になるという。

人間として、あたり前の事をしていないという事である。人間失格とは?一言でいえば?

人間として、あたり前の事をしていない?
第一にあげれば、憲法は、人間には当たり前ではない。
政治にたよるのも、人間には当たり前ではない。すべて振り切れるか?きれない、ところまできている。
政治も憲法も、
人間から切り離して、しまわねば、ならないのである。
それは当たり前ではないからだ?
当たり前とするのは幻想にとりつかれているからである。

「人間は何に頼っていた」のか忘れてしまったので、騒乱がおきる?

「人間は何に頼っていた」それは生みの親、神々の恩恵を、
うけていたのに、ひとつも、参拝していない?参拝しているのは?各地の神社で?
神のよりしろではない?

よりしろとは、神の今住まう場所のことである。

今一口で表わすと政治と憲法は、馬鹿の集まり達でしかない?名誉教授ですら、今一口で表わすと政治と憲法と答えるだろう。
間違いである。
それよりも、神にまっさきに、感謝しなければ、現代に繋がらない?

地球と人間の始まりは、?政治と憲法ではない。
地球と人間の始まりが、うみの親で、自身とつながっている。
感じないのは、人間失格である。

現代は?今一口で表わすと政治と憲法と答えるだろう。で?すべて、ぶち、切れている。

政治なんてどうでもよいのだ。
それは自身を、政治は、大切に扱っていないであろう?
読みきれないだけである。
児島宮家祭主はいう。

相撲界は完全に感じないのは、人間失格である。児島宮家祭主はいう。

今の政治も人間失格である、人間失格が政治をしている?
終始が判る感じる、感謝を表わす者しか、人間とはいえない。

相撲とは勝敗を、きめる、としているが?
それは、しきたり、どうりには、
現代はなっていない。

しきり、
そろいふみ?
しこふみ?
は、相撲界は、おこなっていない。

日本古来から、相撲にかぎらず?
段取りを踏んでいく。
相撲協会なる組織が勝手に、している?
これは相撲とはいわない?それははじまりがないからである?
はじまりとは何か?

児島宮の意向に添う努力をすべきだと思います。

変化を嫌うという こと。にある?

昔の日本の原風景を表している。
今は皇室により、とりこわされました。
皇室は皇ではありません?洪湿です?
かつての日本がそこにある。

いかなかったりする場合、経験者に尋ねるしかない。
祝いは、
古来よりのしきたりです。
現代においては必ずしも、しきたり通りに 戌の日に行うのではなく、夫婦や家族の都合にしてしまいます。

しきたり通りに、戒名が西本願寺は書いていませんので、とむらいには、なっていません?

法要のしきたりと料理. なぜ七日ごとに法要するの? ... 三途の川というのは、渡り方 に3通りの方法があるからで、善人は橋を渡れますが、罪を犯した者は浅瀬の道(比較的 軽い罪)または深い濁流の道(重い罪)を通らなければなりません。

全てが「しきたり」で決められている。
この「しきたり」を全て覚えないと、国民 として受け入れてもらえない。
決められた「しきたり」通り生きて行けば良いの だから。 迷うことはない。

長く続いてきたしきたりには、それなりに人間の知恵が秘められている。

が今の日本人には、しきたりは全然なくなっている。

ここで相撲はしきたりの通りでは無い事が判りましたか?

それは現代風弔いと同じやり方です。懸賞金は、しきたりにはない?

茶道にもいえるが、しきたりどうりではないので?
茶道ではありません?

形ばかり整えてしきたり通りにしたり、 笑顔や言葉遣いを正しくて、心は醜い人がいる。 これを本末転倒という。

衣食を薄くして鬼神への供物を豊富にし、家室を質素なものにしてその費用を田畑のあいだの溝づくりにまわした。
「君王が君王たるにふさわしい道徳を誠実に行えば、臣下の考えは明らかになり、あい和して君王を補けるだろう。」夏禹
「ああ君王が慎んでその身がよくおさまり、思いを長久の道にいたしてすすみ、九族を正しくあつかって親しめば、衆多の賢人たちがその徳に感じて補翼するようになろう。

政治とは近きより遠きに及ぼすものだが、その根本は君王自身の徳にあるのだ」

着物姿を全く見た ことのない人が着物を着ようとすれば、いったい何を着れば良いのかと考えてしまうのも 道理です。
、「きもののしきたりが分らない」・・・おかしな話です。日本人の民族衣装であるきもののしきたりが分らない・・・、それはとりもなおさず日本人がきものを着なくなったからでしょう。
昔は皆がきものを着ていましたから、きもののしきたりは自然に身についていったものと思います。

しきたりは始も終わりも同じである日本 の道理の世界。 憲法はしきたりではない? ... 近年日本では、しきたりはありません、 ので、 しきたりの意味もわかっていない。
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# by kouhoka | 2011-02-28 19:09

三牟田前田遺蹟から出土した白磁の壺は、茶壺であった。

夜須の三牟田前田遺蹟の磁器から白磁壺関連は?越窯と弥生の鳥命が見える。
越窯の前身は、中国紀元前500年前越王勾践以降の民族の宮邸を、遡る。
漢の武帝による、侵略に越人は、海を越えて、東夷国に移った。
浙江省武夷山下的城村
武夷山下的?越王城

これ以降日本の開花に移る。紀元前111年である。

武夷鳥君、は夜須鳥君と鳥命する。

夜須の三牟田前田遺蹟は県道筑紫野の新規工事に伴い1994年、県教育委員会文化財、によって調査が行われた。
この中で古代の弥生の夜須と古代中国、漢の武帝前秦国と共鳴していた、ビン越国の窯跡と夜須三並鳥巣窯は鳥命していた。

この流れをついだのが、越窯と官窯、泉州越州へと移り変わる。
三牟田前田遺蹟は大和政権から、平安京にいたるまで、太宰府の役所が置かれていた事がわかった。
八世紀には、臣前田が、太宰府政庁へ投入していた事が、奏言郡大領から、木簡荷札が、太宰府政庁から出土している。
これが郡役所に任官していた、前田臣市成(菅原道真祖)であった。
、奏言郡大領郡役所の最後の任官は?
源成任(小野成任或は紀成任)で孫の栄西が、官窯から、船に積み込み運んできたのが、三牟田前田遺蹟から出土した白磁の壺は、茶壺であった。


泉州越州苓州
「苓州 」「泉州」「越州」が三州です。
武夷山天子神
「古は天子が3年に一度は大牢を供えて三神をまつったものです。三神は、天、
地、泰一です。」
と言った。天子はこれを聴いて謬忌の泰一とともにまつらせた

古は天子は常に春秋に神をまつりました。
夏、殷、周の三代の子孫を見つけ出して祭祀を行うのは難しいが、せめて周の
古都洛陽を通るのだから、周の子南君とし、先王の祭祀を奉じさせよう。」
と言った。

越は漢武帝に滅ぼされており、越の勇之が、
「越人は鬼を信じております。東甌王は鬼を信じていたので160歳の長寿を保
ちましたが、その子孫は鬼を祀ることを怠ったため、衰退しました。」
 そこで、天子は巫に命じて越式の祠を建てさせた。天子がそれを信じたので、
それからは越式の卜が盛んになった。

その後2年、太初元年、暦を推算する者が、正しい暦である太初によって計算
した。11月甲子朔旦冬至の日に上帝を明堂でまつった。
夏に漢は、正月を歳の始めとした。色は黄色をたっとんだ。
 年号を太初元年と改めた。

武夷故称天子地。


武夷君是地仙之主百越始祖
武夷?巫夷民族
也有?武夷本?无夷,是属水神之名。夏族先祖
風氏族”和“蛇氏族
古越族人民居住之地越人姒姓其始祖是夏代少康的庶子叫无余

后武夷。武夷巫夷民族是属水神之名。茶名也有
所以武夷茶古有称鳥余
古代帝王自命的化身
自命真天子所用物品
万乘之尊

武夷文化,?越王,之?.
除郢王以?天子

秦の始皇帝天下
故干ビン越君王揺高祖5年公元前(202年)ビン越王故地、都はじめ、
十年后、没恵帝又加封、揺東ビン王、
建元三年公元138年、ビン越王東ビン越王地。
建元六年公元前135年、南越に兵を出す。弟余善、
越揺王、余善東越王
公元前112年南越の后、
七世り至りビン君揺
高祖在任中ビン越王的后裔走(南山)武夷
故号ス越王。

皆勾践の后ビン君揺



武夷君之秦王朝除郢王以天子越社稷的。
《史記秦本記》
秦朝未没ビン中郡。
南不辺ビン越
秦始皇于二十五年(公元前222)没立了ビン中郡
已并天下”之后大概是在秦始皇二十七、八年左右。
秦平ビン越之事
秦之時缶越,越人逃入深山林込留牢屯守空地越出兵之秦兵大破。当是秦朝灰亡前的事。

秦始皇二年,武夷君魏王子三等十三仙倶秦時人。
武夷山下的城村。皆勾践之后ビン越之国之后


城村村落位于闽越王城遗址北侧,是一座紧挨闽越王城遗址边的古村落,方志中称为"古粤城村"或"粤城"、"崇文里",现名"城村"。该村古代属建阳,民国时划归崇安县(武夷山市),现属武夷山市兴田镇辖行政村。村子里有农户500余户,2500多人,大多以种水稻、做茶叶等传统农业为主。


武夷山と福州、泉州






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城村 神秘的古粤王国

平安末と同時に、廃棄されていた。後鳥羽上皇の承久の変で終息した。

三牟田前田遺蹟、奏言郡大領郡役所は大和政権から、平安京にいたるまで、太宰府の役所が置かれていた事がわかった。
奏言とは天皇に上奏奉献することをいう。天皇御領地也。
奏言郡大領、郡役所は宮廷の御領地也。
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# by kouhoka | 2010-10-06 16:02 | 白磁の壺は、茶壺であった

三足とは、天子や諸侯の権威を示す「シンボル」

児島宮監修

竜山文化の陶製品で、高さは29.2センチである。
古代中国では,いわゆる三 足土器で炊飯していました。
類似品に竃と甑がある。
鳥形土器
三足の烏とは. 三足の烏に近い言葉→三足土器|八咫の烏|

竜山文化期(前2900~前2000頃)には三足土器が出現する。

竜山文化とも呼ばれる。黒陶は黒色の薄手の土器 でロクロも使用され、鬲(れき)・鼎(てい)などの三足土器が特徴的だという。

シュメール人が、神殿を中心とし城壁を持つ都市文明を築いた。この文明は、青銅器を伴い、文字が使用された。
王権が強化されて王は最高の神官となった。

三足土器 これは“蒸し器”の一種であり、最も古い鍋とも言われています。

鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
日と月の三足

須恵器日と月の三足のことである。

干潟に上陸した夏后は城山遺跡に根拠を残し甑が城山遺跡から別府大学により、発掘されている。
同時期にあたるのが七板遺蹟の土器埋葬は日と月須恵器が、夏后を表わしている。
西へ一キロいくと、夏后のガラス壁峯遺跡(夜須町)が、出土した。児島宮監修
福岡県筑前町東小田七板出土, 弥生時代(中期)・前2~前1世紀,

篠隈「大木遺跡」 ... 弥生時代 中期, タコシ遺跡(曽根田) 惣利 遺跡(砥上) 出口遺跡(東小田) 七板遺跡(東小田) 東小田峯遺跡(東小田)

東小田峯遺跡

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夜須町文字朝日「宮ノ上遺跡」 福岡県朝倉郡夜須町・東小田峯遺跡弥生時代後期の ヒルハタ遺跡 · 吹田(ふきだ)遺跡(夜須町) 福岡県朝倉郡夜須町の大木遺跡の環濠跡から 見える土器の廃棄跡現在地JA夜須 福岡県朝倉郡夜須町七板遺跡



東小田峯遺跡弥生時代後期

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これらは夏后土器という。児島宮監修

「ビン越土器」天斎に用いたことから、鼠色の 土器の名称須恵器(越土器) 河姆渡土器 戦国時代越土器 甑腹釜 夏后土器ともいう。

帝位を譲られ、夏后と称した。その死後、子孫が位を継ぎ、中国史上初の 世襲王朝 となった。第17代目の履葵(桀王)は暴虐であった爲諸侯が背き、「殷」の成湯大乙( 湯王)に討たれ、「夏」 は滅んだ。実在説は夏王朝の文化として、河南省偃師の土器

夏后は彩文土器や黒陶を生み出した。
天子の位を引き継ぎ、夏王朝とした。河姆渡土器 児島宮監修
越王の武夷山から、硬質土器窯が発掘され、鳥の風習から窯の名が鳥淫?と夜須の鳥巣 窯の、土器が、同じ事が、解りました。
其の先は禹の苗にして夏后帝少康の庶子也 。會稽に封ぜられ、以て禹の祀を奉守す。文身斷髮し、草(そうらい)(稲作農耕)を 開始した。児島宮監修

河南省の仰韶 村で彩文土器を発掘した。翌年の発掘によって竪穴住居跡が発見され、また多くの磨製 石斧・彩陶などの土器が出土した。

龍山文化と 同じ特徴を示しています。早期龍山文化ですが、仰韶文化 ... また、『竹書紀年』に「 夏后氏、禹居陽城」とあり、『漢書・地理志』の『世本』には「禹都陽城」とあります。

中国最古の王朝で 、夏后ともいう。児島宮監修

そこで越王勾銭について其の先兎の苗で夏后帝少康の庶子也封於会稽、にて奉守兎の祭祀 とある。
会稽(かいけい=中国の紹興市付近)

夏 后少康の祖は『山海経』には、夏朝の創始者禹の後胤とされている 。

日本で夏 后を立証できるのは、児島宮だけである。児島宮監修

鳥をトーテムとしたビン越夏后、の用語。 想像上の鳥。 妙音鳥などと意訳する (1)想像上の鳥。
夏后氏太康、徳を失い、夷人始めて畔(そむ)く。少康より已後、世に王化に服す。 遂に王門に賓せられ、其の楽譜を献ず」 夷人が(賓客の様に)『夏の王門」で音楽、舞踊 を献じた。
土器の還元焔焼成の導入土器の大量生産

会稽を領土とし、祖先の禹の祭祀を行い守った。児島宮監修
これより文明が開けた。

夏は、三代の王朝、夏・殷・周の王朝の最初に位置する。十七代、四三九年続き、都は安 邑にあった。
「論語によると、孔子の門人宰我が『夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰、使民戦栗也 』と言ったという(論語・巻2-21)。 「正確には『再現土器』

すべてのまつりは庶民の娯楽ではない、夏后の天子が行なうとある今日本の津々浦々で 行なわれているおまつりは、まつり、では、ありません ... 「鳥金うもう遺蹟の土器」 は夜須の鳥巣土器の先である。児島宮監修
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# by kouhoka | 2010-09-13 21:46 | 武夷山闽越王城遗址

ものの成り立ちについて、が憲法に化けた日本?は日本人ではない?

ものの成り立ちについて、が憲法に化けた日本?は日本人ではない?


いろいろな物質と結合しやすく変化しやすいのが特徴で、カテキン類が酸化酵素で酸化されると、きれいな赤色を表し、いわゆる紅茶色となります。カテキン類は渋みの主成分

「生命とは何か」本質を語ることは できません。
自然界と主体的に対峙する主体性、自己 の個性を啓発育成する成長性、結婚して子供を産み、家庭を築く繁殖性ということができ ます。

太陽神の真の名を知ることは、万物を支配できる から蛇の毒なんか消せますという。
緑を支配する神であり、麦粒が育成し、 死んで種子を残し、再び芽吹くように首尾良く再生される。物事の本質を正確にいいあらわす言葉

中国人は天地の間の万物に「気」が存在すると考える。

「気」と自然の中に存在する「気」が同じ性質 のものであり、おたがいに通じ合い、影響し合っているという

山川草木万事万物 は循環・輪廻するがそれは、円をなしていると考えている。
自然の一つ一つの真実を 体得し、自然の本質をより深くつかんでいる。
万物の理を窮めることは、物的存在に あっては自然法則性を理解することである。


現代には憲法で遮断し、通じない?

その原理・法則は必ず. 存在している。事例見本で通じる。

「 自然界に行われている生滅転変の原理」や「自然が万物を育成する力」という意味です。
万物を育みそだてる育成作用という陽の気という正反対の二つの作用を 持っているということなのです。人間の法則であるのに、憲法が阻止している日本。

反映 させたものが「土用」であり、 過ぎ去るべき季節を殺し、来たるべき季節を育成する もの。
五行の形体と作用は万物の育成を助ける。
万物は「陰と陽」というように対立してばかりいるものではなく、循環するものである。

児島宮の先人が八千年前に、考え出したものづくり極意。

汗や尿ではなかなか出せないような体内の不純物とも くっついて、体の外に排出してくれます。

万物を創造しこれを育成していく大きな力、これを元という字で表します。
司祭王の目による呪力で土地を抑えることを意味していた
土(土行): 植物の芽が地中から発芽 する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。

生を成し育て化する。
プラスの面として創造と発展、マイナスの面として衰退と滅亡を表す。
生と死は一体である。

人は宇宙生成化育のお手伝いをするために誕生し、生きているという 。

「しろしめす」「しらす」は、「うししはく」領有私有と異なり、自己を空しうして宇宙 萬有を生成化育する精神 により治めるという。
児島高徳も悟していた。

五行が生じて万物化育するも、その本性はどれも一となる。

天の道たる乾は男を成し、地の道たる坤は女を 成すに至る。

火水の二元素が土と密合して、土が力を発生し、万物が生成化育されるので ある。
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# by kouhoka | 2010-08-27 17:14 | 台の意味とは

すべてのまつりは庶民の娯楽ではない、夏后の天子が行なう

すべてのまつりは庶民の娯楽ではない、夏后の天子が行なうとある
今日本の津々浦々で行なわれているおまつりは、まつり、では、ありません。
まつりというのは、すべてのまつりごとに、関連して、おごそかに、神聖にとりおこなわれるのが、おまつりである。
庶民はこれをおまつりとして楽しんでいるのは過ちである。

まつりはしきたり、で、おこなわれるのが、?原点です。
しきたりさえも、知らない庶民はおまつりを遊びモノに、しているのです。
知らない?から、現代のような形になっているのでしょう。まつりは、だまし、が進化したのが、今のような、日本の全国で行なわれている、娯楽まつりです。
まつりは娯楽ではない、これでは本当の、御祭りは、見えてきません。

ここに御祭りを知らない、日本人が楽しんでいます。相撲が国際化になったのと同一、ですね、神まつりも、おみこし、を、ひっぱり出して、ワッショイワッショイ、かつぐなんて、こっけい、にしか見えません。
神をむりやりに、おみことしに、遷しているのですから、人間の願望の尽き果て、にしか見えません。これも西洋人と同一です。

神を人間が決めるなどとんでもありません。下地球の人間が天上、動かすなど到底出来ないことです。しきたりその一
人間が神を動かしているのが、現代のおまつりでしょう。神をうごかしてはならないしきたりその二
気がつかないのも同化、しているからです、悪にそまると、いいます。
現代日本は、革命により、変貌していたのです。

夏后の天子の座を奪って革命として、つくり変えたのが、現代風西洋式な、まつりである、一種の遊び娯楽同様

「裏切り」というそしり行為は、とどまり、を知らないから何度も、くりかえす、やめられない、集まり 7/23日

自身も変化してしまう。けがれの意味がここに出ている。
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# by kouhoka | 2010-07-27 17:35 | 吾が奉事の根原を記せしむる也

吾が奉事の根原を記せしむる也

吾が奉事の根原を記せしむる也
南北の郊外で円丘と方丘とをならべ、冬至と夏至の祭祀を南北二つの郊外に配す。
祭祀之以禮,此即節文,. 乃為人子之禮也。所謂禮者,無所不包,男女有別,長. 幼有序 ,作事有規,淫亂不犯,此皆莊嚴,中正之禮儀. 也。然國之四維,禮、義、廉、恥,禮字 居 .... 要以仁慈,子女奉事父母,要以孝敬,父母教訓子女. ,不可存偏私之心,子女奉 事父母,不可分貴賤之見, 此即性之根原也。

天即理也。
暢草は香ひ草で、祭祀に当り、酒に和して地に注ぐと気を高遠に達して神を降すの効ありと言はれて居た。
人神牛首(じんしんぎうしゆ)の神農氏(しんのうし)が赭鞭(かはむち)を以て草木を鞭(むちう)ち、初めて百草を嘗(な)めて、医薬を知ったという。
草木土石の性質を会得して医道の祖となった
長い間の経験と幾多の犠牲とを払ひ、其の間に或は他動物の本能的になす所を見た
現実の物象を器といい、その根原を道という。

山形来落有根原、山是真上ハ神在
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# by kouhoka | 2010-06-10 18:53 | 吾が奉事の根原を記せしむる也

武夷山闽越王城遗址

闽越王城

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闽越王城遗址中挖掘出的铁制农具

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「鳥金うもう遺蹟の土器」は夜須の鳥巣土器の先である。
これらの発掘品は、夜須中の遺蹟から発掘されていた。
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灯火器
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精美的汉代瓦当(二)

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精美的汉代瓦当(一)


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昔时的护城河


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天后宫

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この城の築造は、
江浙地区古越先民崇の鳥
揚子江中川下地区は中国早期水稲の重要な栽培地域の一つで、いままですでに知る考古学資料は表明する。
中から国江南が有明海沿岸を経って直接的に北九州地区に流入させることであることがあり得ることが同様にある。

如河保母は遺跡などを渉って同様に連想可能です
鳥の霊には中国南東沿海地区にいることを信仰して悠久の歴史がある。

浙江川保母は遺跡が土から出すことの骨の匕などの器物上の鳳の鳥が彫刻およびその后良の州文化玉彫中の鳥イメージなどを渉って、同様に強烈に江浙地区古越先民崇の鳥の事実を表した。

越人、依然として先民崇の鳥の落とし物風俗を保留して、《絶が書を越える》《呉越春秋》などの古典籍書記の載の越地“鳥田”の事と、南東の越人崇の鳥の1個の真髄な描写です。

秦漢以後に、越人の謂のこの鳥は風俗に保留が依然としてあることを余して、晋人張華《博物の志》のように9が話すことを巻いて:“越地深山には鳥があって、鳩がある。

越人の謂のこの鳥は越祝之の祖とする。

古代の越人崇の鳥の鳥トーテムの柱でと考えられてそれで関心を受けることに備える。
中国江南の江蘇にいて、浙江と安徽などの地、1種の頗の具特色の土墩の墓があって、あるいはこれを石部屋の墓などと称する。この古墳の主要な特徴は壙を掘らないことで、平地は封じることを起こして、地表の留有1枚の丘のように墩は即ち墓参りをして盛り上がる。

闽越王城遗址


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鳥金窯とは鳥巣窯と同語で、ねずみ色の発色の土器の総称である。
黒ずんでの意味。
鳥巣窯の土器の先人が見えた。
それは越人である、韓国ではなかった。


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鳥金窯甑

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鳥巣窯甑

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# by kouhoka | 2010-03-05 17:26 | 武夷山闽越王城遗址

「お出かけ・ひなまつり」夜須へ、おいでやす

夜須の おひなさま  まつり

2月1日(月)から夜須の篠隈の古い町並みにて毎年場所『児島宮のおひなさん』が開催されます。

みなさまのお越しをお待ちしております。

およそ7,00体のひな人形を里子として譲り受け、ここ夜須観光協会でも「夜須三輪ひな祭り」が開催されます。
期間中は、子どもたちが稚児の衣装で統一したひな行列、歩行者天国、各種出店など、盛りだくさんのイベントが行われます。

家に伝わる大正時代の「御殿飾り」です。


その一つ、「紀天殿・おひなさま館」です。



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どれも綺麗な段飾りですが、なかからこの内裏雛。



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官女や五人囃子の持ち物も綺麗に残っています。


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宮中に仕える雑役夫ですが、
左から表情と持ち物、怒り(台傘)、泣き(沓台)、笑い(立傘)です。

何処にあるのかお雛さま!散策マップを手に探して楽しむ?
それがここの”お雛さま祭り”のようす、でした。

「お出かけ・ひなまつり」夜須へ、おいでやす

夜須観光協会
福岡県朝倉郡筑前町篠隈535
電話 0946(42)2055
携帯
「おひなさままつり」開催、展示するお雛様募集 電話 0946(42)2055夜須観光協会
【申し込み方法】 

[お名前・ご住所・連絡先お電話番号]を明記の上、FAX、Eメールでお申込みいただく
か、「夜須観光協会」電話 0946(42)2055にお申込みください。
自分の家で、飾り展示、お見せされる方も、参加しませんか?
興味
もたれる方、、ボランティアでご協力いただける方は、お気軽に、電話 0946(42)2055
お問い合わせください。

ひな祭り実行委員会では、ひな祭り開催期間中、会場案内などイベント開催に参加 していただけるボランティアスタッフを募集しています。 ご都合のつく日時のみの参加 も歓迎いたします。ご興味のある方は、下記掲載の実行委員会までご連絡ください。


展覧会開催期間 平成22(2010)年2月1日(月)-3月29日(日まで) ※荒天時中止
参加受付期間 平成22(2010)年2月1日(火)まで

■観光協会公開雛


■個人公開雛 5カ所
 家3月27日~4月4日

■無料公開雛

ひなまつりでは、児島宮神社境内の「ひな台」の前で、古い雛や形代に雛料理を供え、私たちの健康と幸福を願う「ひな供養」の神事が行われます。
飾らなくなった雛人形をお祓いしてもらいます 供養されます。
飾らなくなった雛人形として、奉納された後、 神社は大切に保存して、それぞれ、雛まつりで、公開しています。
餅尽きぜんざい振る舞いの他 (通常有料見学)にて抹茶サービス甘酒サービス集会所


豪華景品が当たる抽選会(観光協会加盟店よりのおみやげ品)

ひな祭り会場 のご案内や、観光情報、お食事処などを紹介する。「夜須観光案内所」を開設します。

平日は地元ボランティアガイドと巡る定時ツアーがおこなわれ、地元ガイドならではの”うんちく話”で夜須三輪をより身近に楽しめます。
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# by kouhoka | 2010-02-02 11:53 | 皇宗の神裔

三種のじんき、等始からなかった

八咫(やた)の鏡・草薙(くさなぎ)の剣(天叢雲(あまのむらくも)の剣)・八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)。みくさのかんだから。みくさのたからもの。 天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。ウィキメディア

じつに、いい加減な解説がしてある。
もともと、存在していません?
近年明治革命以降天皇により捏造されたのは、いうまでもないだろう。

神器とは神の依代(よりしろ)を意味する。とここにも、知らない人の解説がしてある、神器とは神の依代とは、いえません。
但し過去には後鳥羽天皇など神器がない状態で即位したケースもあり、必ずしも即位の絶対条件ではない。


ここで神の依代(よりしろ)を意味するのは神殿のことです。
草薙(くさなぎ)の剣は、百済から、送られた、秘剣です。桓武祖から、送られたと記す。
八咫鏡(やたのかがみ)は、小部落の王ですら、使っていたものである?天皇の神器ではないことは、これからも、判るのだが。

⇒児島宮だけ、天帝の座まします、ところに、神はおまします。

何せ神器が神器であるため精確にはどこからどこへ渡っていったのかが不明なので、最高でも定説と無理に、神社本庁の説明。神社本庁すら明治以降に出来た組織なのだ。

八咫鏡の出典はネットの、井上氏による解説は、あてには、ならないでしょう。
三種の神器とはもともと皇位継承のしるしとして天皇に受け継がれてきた3種の宝物(八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉)のことで、それを現代人の宝物という意味はまったくの、コピー。

神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位したという先例があり、三種の神器は即位の絶対条件ではない。
明治以降韓国から、密入国したきた、奴婢の捏造が、明治天皇になったの、であるから、
今の日本は、韓国奴婢の三種の神器魔法憲法と、同じである。
日本の天帝には、三種の神器等、はじめから、ありません。

⇒日本の天帝が謂うには、正統の法則なら、あるという。得る法則

⇒北斗、北斗星、七つの星、七曜の星とも呼ばれる。中国名は『史記』「天官書」など正史説北斗七星延命経』の名。
、中国では柄杓の器の部分を作る、天枢、天璇、天璣、天権の4つを魁(かい)、柄の部分を作る、玉衝、開陽、揺光の3つを標または杓(ひょう)、あわせて斗と一字でよぶこともある。

⇒天枢は第1陽明星とし以下、第2陰精星、第3真人星、第4玄冥星、第5丹元星、第6北極星、第7天関星、第8洞明星(輔星)、第9隠元星(弼星)の魂神であるとする。
人間のルールのことなり

⇒北斗七星はひしゃくのような形をしており、ひしゃく星とも呼ばれます。七支刀の発祥はここから。
妖刀といい、天帝が、悪魔退治に使ってきた、宝刀。


⇒天帝が、悪魔退治に使ってきた、宝刀
伝家の宝刀
鍛冶の神ヘパイストスによって作られたもの。
先駆となった偉大な人 〔注〕皇孫では天帝の意。

これらが明治以降起こしてきた、のが積み重なって今に至る。その要因は?、「最後はどれも 他人に罪をなすりつける?」悪魔奴婢李氏朝鮮では、もっとも嫌われていた民族ツングースモンゴルの混血。
「蒙古」ってのは漢民族が使った蔑称。

神は△形で仏は四角形です。数で善と悪が、きまります。
四角形は何も変わりません。
三角形は変わります。

やはり判りませんね。

宝刀とは、昔は、純粋に名刀の事だけを指していました。
それでは名刀とは?
いよいよという時以外にはみだりに使用しない,とっておきの物・手段など」。
悪人が使うことば、では、ありません、善人が退治するときに、使う刀、越王勾践の宝刀が語源。

ここに、児島宮だけ、天帝の呼び名が、始まりです。
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# by kouhoka | 2009-10-21 13:32

現皇室であっても、皇孫ではないので使用禁止です

明治以降菊紋章が、禁止としなら、乱発しているのは、後ろ盾に、
大物が、仕向けているとしか、考えられない?
何故そういえるかと、いいますと、
菊紋章が関係しているとしても、何の得にもならないからです。
それで得する者しか、使わないのです。

禁止礼があるのに、全国で使用しているのに、児島宮家では、明治から、乱発されているのと、
同時に、神に関係ない神社が、誘発されつづけて、作られていた背景に、原因していると、見ています。
天理教や金光教や天津教、等は神、即ち天皇とは、無関係です。

宗教団体は日本古来の、菩薩ではありません、何頭かに、かこつけて、いるものが大抵です。
推奨宗教団体(在日朝鮮運営)
霊感商法(在日朝鮮運営)
宇宙真理学会(在日朝鮮運営)
創価学会(在日朝鮮運営)
幸福の科学(在日朝鮮運営)
宗教法人「歓信寺」
神世界
紀元会
幸福会ヤマギシ会
国家神道
心霊会
生長の家
世界基督教統一神霊協会 (在日朝鮮運営)
天理教
オウム真理教 (在日朝鮮運営)
宗教団体アーレフ (在日朝鮮運営)
新宗連天皇陛下が「おことば」を述べられ、戦没者に追悼の意を表し、世界平和と日本の発展を祈られた。ここには原皇室が絡んでいる。

等は新興宗教です

すべては外国系の運営者を認可しているのは、政治団体や暴力団系列が、多いそうです。
ほとんどは、在日系なる運営となっているそうです。

県や府庁では歯止めが出来ないとしているが、
現実売買等で裏で手を引いているそうです。

ここに、うとまっている、新興宗教は (在日朝鮮運営)
菊に反対しながら、反対を行っているのです。これを、なりすましと、いう。
ここで正等な神と寺は、天孫以外には、作ることが出来なかったのです。
その裏づけが十六葉菊紋章なのです。
現皇室であっても、皇孫ではないので、
神仏は元々皇孫を使ってはならないのが、習わしです。

日本の神仏を歪ませている、宮内庁と宗教団体と皇室

神仏は元々皇孫の為の、神仏でなくては、ならないとしたのが、日本の歴史である。
だが、明治以降から、皇孫では無い?者達が、神仏を祀っている?
神仏を、遡れば、付随しているのが、日本古来の神仏混合であるが、明治以降は分離したのばかり、で、神仏混合集合とは、なっていません。
それらはほとんどが、外来人の手になるものです。
神仏は元々皇孫と一対しているのが、真実である。

ここに、十六葉菊紋章が元々皇孫と一対しているのです。
決して単独ではありません。
皇孫尊の子孫 神武天皇の御代から、天皇を崇めるのは神道的に当然でしょ う

統治の勅命を受け、高天原を出発すると上げています。
これが皇孫たる神仏は元々皇孫と一対しているのが、真実である
神仏習合 神を仏の化身として一緒に祀ること。

用明天皇の頃の「日本書紀」には、「天皇、仏法を信じたまい、神の道を尊びたまう」とあり
高御産巣日神は命(みこと)のため
に、皇孫の宮殿に匹敵する御屋(みや)を創建したと伝えられる。 これが寺の起こりである。

従って、神社とお寺とが同じ境内に建てられて共存している。
神仏習合を背景にして、記紀神話の上に創造されたものである。

今では
国家神道の嵐に押し潰されて、知る人もほとんどいない。

古代日本のなりたちから、人間育成とともに、歩んできた、神仏共存が、明治以降西洋の生態に毒され、心まで病んでしまいました。それは仏(人間のおわり)の宗教だけ、蔓延しているという事です。
もはや、
人間界から離脱したとなるでしょう。

だから、憲法の原点は西洋人の、生態の事が、主体として出来て、いるのが、キリストという信仰で、日本の仏教と類しています。この中にあるのは、仏の教えとも驚愕とも、言え、それは仏(人間のおわり)の宗教だけ、蔓延しているという事です。
ここで終わりについて?
終わりは10を数字でいい、自由につながって、います。
神の世界は1から9まで、を、神の九と、いい、ここから、当社の先駆者佐久間甚九郎とも、不干斎とも、名を変えていますが、皆重なった、音訓から、名乗っていました。
この佐久間甚九郎とは、号甚九郎とは神の御子(皇孫)という意味、のことです。

この号甚九郎が、甚句を、広めたと、されています。

これは神の、相撲となり、江戸初期から、始まりました。
庶民には、祭を、皇孫が許可して、これより、日本中に広がり、この甚句調を、祭囃子と、呼ばれるように、なりました。このように、神の子は、いろんな、神の習慣を庶民にも、分け与えて、宮廷の祭祀を、庶民にも、許可したのが、おまつりの始まりでした。
この先人は、不干斎の先祖である、後鳥羽上皇の、宮廷だけの祭祀を、武家源の間に、武士に、取らせたのが、始まりで、宮廷でしか、行わない、神の神事から、武家の間にも、後鳥羽上皇が、隠岐に流された、後も、武家は、娯楽として、持続していたようです。

戦国時代も、祭祀という容ではなく、武家の憩いとなって、いました。
戦国時代が、織田信長により、終息すると、後鳥羽上皇後胤、佐久間信盛父子が、神の、祭礼を、茶の容を、堺の商人を、集め、茶会?を、頻繁に開き、茶の道とされていますが?
これは、神の人間の作法として、植え付ける為に、始めたとあります。

茶道ではなく?人間の善悪の中心の宇宙の世界を、容としていたのです。宮主識

まだ他にも、神ものがたりを、庶民の為に、教えて、平家ものがたりや、イソップものがたりの、原点は、日本の宇宙神が原点になって、いたのです。
すべては、人間の道として、作られていたのを、日本人は、知りません。

現代は神の容のない、嗜好で、いろいろな、日本の風土が、行われているのは、残念としか、いえません。その一つは、明治からの、偽証天皇主体とも、国家憲法が主体としていますが、大元は、、偽証天皇主体のままに、放置していたのが、神の容が宗教に変えたりして、庶民の楽しみだけに、皇孫の世の中では、無い世の、あわれさ、が、鎌倉以降と、同じ現象となっています。
特に吉田 兼見吉田兼右・兼和(よしだ かねみ、天文4年 (1535年)9代当主(卜部氏25代)。吉田 兼倶(よしだ かねとも、永享7年(1435年) - 永正8年2月19日(1511年3月18日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。は織田信忠をそそのかした、とされています。
織田信長や明智光秀と親密であり、比叡山焼き討ちのとき、延暦寺を焼く事に不安を抱いた信長が相談に訪れたとされる。また、本能寺の変の時は、明智光秀に会いに行き、銀50枚をもらったという。後に羽柴秀吉にそのことを指摘され、その銀50枚を秀吉にあげたという。

部氏(うらべし)は古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。 神祇官の宮主など下級職員として任じられ、亀の甲羅(腹の部分を使用)による卜占を行っていた。平安時代前期、伊豆国の卜部氏出身である卜部平麻呂(神祇権大佑)(807年~881年)を実質的な祖とする。、『徒然草』の作者吉田兼好は吉田社系の人間である。そして吉田社の系統は南北朝時代の吉田兼煕が吉田を家名とすることになる。ここから、神との断絶が始まる。

卜占(ぼくせん)による吉凶は古く縄文時代にすでに、占っていました。これは人間の生殖器を模して作った祭祀で、下部底面の中には亀裂状の窪みを見せる例が多く、占いの根源となる。生殖器のシンボル化、独鈷石の名の由来になった「独鈷」とは、密教の法具の「独鈷杵(金剛杵の一種)」のこと。金剛杵はもともと古代インドの武器で、転じて、仏が煩悩を打ち払う象徴として持っていた。

縄文時代中期の環 ... 陰陽
師とは、古代日本の朝廷における天皇政治に関するあらゆることに吉凶あるいは災害予想をした。

道具には、|、骨という鹿の肩甲骨や亀の甲羅で吉凶. を占ったものや、木や土でつくられた、穀霊を運ぶと信じた。
卜骨(ぼっこつ)亀甲(きつこう)・獣骨などを焼き、その亀裂によって吉凶を占う方法。古くは中国で用いられた。参照「儀式」



皇孫が降臨した時に携えていた矛である。
こういう矛があることは、「旧事本記」や「古語拾遺」に書かれている。ここに皇孫と見える。
この天祖は日本では天皇の祖を意味し、皇孫、彦火瓊々杵尊を指しているが、中国では何を指すのか不明となろう。

天というものを生んだ祖先とは児島宮家のことである。
児島宮家と現皇室のつながりが、ないのは?元来歴史で合致するのであれば、相対していなければ、ならない。

ゆがまされてきた、日本の神仏は外来より、持ち込んだ宗教に、閉じ込められているのです。
外来より、持ち込んだ宗教とは?憲法である。
この憲法により、
「神仏が歪んだもの」となっています。
「神仏が歪んだもの」それらを、新興宗教という。

いまだにもって、日本の神仏が解明されていないのが、歪ませられた痕跡である。
神道と仏教は密接な関係でした。

皇孫でないものが皇位が継ぐことはならない。」
成立することが多 く,そ のほとんどは神仏習合の形態 を採る。

明治の神仏分離までは日本第一熊野十二社大権現宮と称し、先の五流尊瀧院と一体であった。
後鳥羽天皇皇子雅成親王墓参拝。一礼して退下。雅成親王(六条宮)もまた、承久の変により配流され、異郷に薨じられた御方である。
岡山(吉備津彦神社~吉備の中山~大吉備津彦命墓~吉備津神社~賴仁親王墓~五流尊瀧院~熊野神社~櫻井塚~後鳥羽院御影塔)
関連が必ずでてくるのは、桓武天皇等、児島宮天皇の皇子及び嫡男系の皇孫のみが親王と呼ばれる。

宮家は然るに、児島宮天皇の皇子及び嫡男系の皇孫のみである。

江原氏といえば、最近は霊能力がなかったことは明快となっている
やめろというのに、運営者がやらせている?
元々憲法の中に定められている項目。 これが現実には無意味でしかない、事を日本人は
知らない、のは無智になった証拠
。 人間なんて動物の一種である。

蓋し『日本紀』神代神武巻を稽うるに,天照大神 八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣の三種の
神器を以て,皇孫瓊々杵尊に伝え,天位を譲る。故に饒速日尊を載せず,十種の ......
木津川の近く男山にあり神仏習合時代は多数の僧坊があった。
西暦860年に宇佐神宮より
八幡神を勧請して創建された。祭神は八幡大神(誉田別尊、応神 ...... 九天九地神神功
神帝 鯨呑神功元々神功の由来は河南河南省禹州に伝わる伝説の神功神帝が元になる。

現皇室であっても、皇孫ではない
現皇室が本者であるというなら?児島宮と祖相対しないのか?
日本の歴史も「太平記以外は、ゆがまされたもの」である。

「太平記以外」は載せていない項目がない?なければ、歪ませたものである。
魏志倭人伝には漢の武帝と、日本の皇孫を記しているので、信用される。
南越王の祖は夏王朝であると載せているように、すべての項目が相対している。
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# by kouhoka | 2009-10-02 15:30

地名が消えると、自分が消える

地名が消えると、自分が消える
これは、どういう現象か、お判りか?
神に叛いた返り矢という、自分に矢があたるという、こと。
ここで、今日の、、小泉民営化が進み、全国から、地名が変更されました。
これは、神の役目に、叛いた現代といえる。

ではどのような影響がくるのか?道州制や、地方分権とか、県知事が、進めているのも、民営化と、まったく、
同じことである。
そのしわよせは、国民にふりかかります。
この民営化により、どのように、なったのか?
考えていないようだ。
それが、今の民主党の、思いのままに、実行しようとしている、国民操縦方です。

国民操縦方といっても、何の事か、解らないのが大半でしょう。

国民操縦方は権力の実権を手にした後、法律を改正してしまうことです。
この法律が、
在日朝鮮人国会議員による、自民党の走り、与党は、姓名が在日朝鮮人と、日本人に、解らないように、人権を、狙い、部落開放を叫んだ。
これは二十年前頃法律を改正させた、国会議員は?在日朝鮮人国会議員

この後、現代のように、改名が容易に、役場で、行われた。

ここから、ほとんどの、在日朝鮮人等は、日本名に、改名して、まだ、
日本人はと、戦争を持ち出して、強引に、在日朝鮮人は、日本名に変えさせた、とした。
背後には日本人の、人権を利用したのである。
差別はここから始まった。
言触らしたのは、在日朝鮮人等なのだ。

この在日朝鮮人を、日本名に、変えさせたのが、在日朝鮮人国会議員そのものだった。
小泉淳也氏が知られる。
リクルートはじめ、泉井石油商事件でも、、金融疑獄でも、、彼と佐藤首相は無罪放免というのは・・・彼らは、ユダヤ政商のシッフやロスチャイルドと姻戚を結んでいるのだろうか?!?http://oshiete.hmv.co.jp/qa3470834.html

この両家と姻戚を結んだ人物は、、
不自然にホワイトナイトとして扱われている
矛盾が感じられる・・
こう言う人物の裏に、彼らの分の業を背負わされた人物が存在する
彼らこそが!真の罪人に思える
小泉氏のお祖父さンかお父さんは日本国思いの政治家だから、
敢えて!「従属」「隷属」を儀式化する為?
また、謀反を起こしたとき、足をすくえるように、、
東京大空襲を指揮した人物に、
防衛長官として表彰を贈らされてる。。
松岡外相(岸政治家の流れの起点となる人物)、白鳥戦犯を合祀させたり
自分たちのやり方に反抗する相手には、
彼が最も憎んでる人物に頭を下げさせるというやり方で、
その人物のプライドも信念も踏みにじるやり方で
決着をつけている

小泉淳也:池田ラスト内閣で防衛庁長官に就任し、米軍から池田内閣を転覆され、佐藤政権が始まる
小泉氏に東京大空襲ウ、原爆など対日焦土化作戦の立案リーダーである
カーティス・E・ルメイに岸系佐藤は、勲一等旭日大綬章しますが、
もちろん!
天皇から表彰された記録がないまま、受賞している
つまり・・ユダヤ政商は、こう言うことをしている。

それが自分達を、くらます、事がこの、日本名に変えた原因。
今同じような事を、してきた、二世三世の在日朝鮮人自民、公明、民主、民社の国会議員だ。

これが何を意味するか?知らなければ、国は在日朝鮮人自民、公明、民主、民社の国会議員の、思いのままに、されるのだ。
今、なったばかりに、
国民総背番号制の導入りの法律に、変えようとしている理由は?
在日朝鮮人の、名前をくらます、、のが目的なのだ。

鳩山や小沢はこの、国民総背番号制の導入を、して、日本国を無くすことにある。
日本人なのか、在日朝鮮人なのか区別が、国で出来なく、なれば、日本は消滅する。
背後には、フリーメイソン会員の皇室や、経済界から官僚から、検察警察まで、大半を占めている。

国民総背番号制の導入を法律改正して、
日本人と、在日朝鮮人との、見分けが、つかないように、
今の鳩山在日朝鮮人民主党、が、発表したのは、小泉地名抹消で、昔からそんなものは、なかったとして、
日本国を占領せんと、企てているのです。

国民総背番号制や住基ネットにしたのは、在日朝鮮人国会議員です。

ここに何が見えるか?
日本国を占領せんと、企てている。
これが民主党の狙いなのです。

国民は、これに、意義を唱えなければ、国は、朝鮮人に、日本国を占領されます
今の実情を、最大の危機と捉えなくては、なりません。
国民は何も民主党を、信用できるものでは、なくなったのです。
選挙前に、まえぶれが、
鹿児島でありましたね?
忘れましたか、日の丸国旗を、民主党の旗にしたのです。

これは何を意味したか?
それは、日本国を遮断したという意思表示なのです。
もちろん、日本国を民主党が率先して、
自民党の在日朝鮮人国会議員も同調しています。
公明党国会議員も同調しています。
民社党のほとんどは日本人ではありません、在日朝鮮人国会議員ばかりです。
インターネットで探索して調べたら、解ります。
それは、日本国を遮断したという表示なのです。

なんとも、のんきな、日本人だと、在日朝鮮人インターネットウエーブにあります。

国民は、これに、意義を唱えなければ、国は、朝鮮人に、日本国を占領されます
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# by kouhoka | 2009-09-20 08:46

自分の国の地名が消えるとどうなるか?

地名が消えるとどうなるか?
日本の地名には、伝達という、電信の役目を果たしていました。
これだ゜けでも、相手のすべてが探れないように、なりますので、丁度昔の戸籍も今では、
地名の消滅で、わずかに、年齢の公務員がいるうちは、のっていない自分の生誕地も、見つかる場合は、ある程度くらいでしょう。

まず自分の生い立ちが消滅しました、戸籍には記されているが、今は地名が全国変えられてしまいましたので、判らなくなっています。
後十年後には、完全に消滅します。
それだけならまだ少しくらいは、救われるかも知れないが、のん気に、していた人は過去が完全に消滅します。

地名は日本人の原点なのです、何故重要なものに、大学教授や卒業した者は、民営化推進に反対しなかったのか?

ここに現代の病気の原因が、日本人の原点、はどうでも良いとする、気です。
気の病になったので、すべてが、日本人はおかしく、なっています。
原点とは基本という。

基本がなければ、どうにもならないと、気がつかないのです現代人は。
ここに学問の無駄が、
はっきりしましたね。
何の為に学問、に働いたお金をつぎ込んだと思った事はありますか?
大人になったら言い生活をしたい?
それよりも、今かえり、観て見た事は、ありましたか?

やっとわかりましたか?すべてがなくなっては、何も出来ないという事を?

勉強よりも、しておかなくては、ならなかったのは、日本の伝統を守るという一点にあります。
身の回りを見て見ましたか?住宅は日本建築ですか?
これも地名と共存していたのです。
何もかもが、児島神の恩恵を受けているとは、誰も気づいていないようです。
だから、簡単に民営化して又道州制とかしているのは、日本の伝統
抹殺するたくらみの、あるからです。

何故そんなことするのか?
日本の伝統が解ると、今の天皇家も、かいらい、権力者に、変わったので、元の天皇家のままで、なくては、ならないが、
解るから、急いで仲間の巨大化組織に命令、しているから、今の日本のほとんどが、大室明治天皇派なので、やりやすかったのです。

目が、見えないと人間はどうなりますか?
そうです今の日本人は、見えないのです。
泥棒されているのが、わからないのは、国民のという、税金を始め、保険や年金までも、どうなっていますか?
その答えはもう出ています。

地名は人間の命です。
地名が変わっても何も、差し支えがないと、思ってませんか?
命に必要な水と同じくらい、大切な地名が、消えた?

もう命のたずな
が切れてしまいました。
人間には神のたずなが消えた時?人間の命も終わります。

おしゃかさま、とかいいますね。

地名が消えるとどうなるか

小さな町や村の名は消える地名もやはり歴史が基礎にありそれを変更すると歴史が残らない、歪められるという 。合併
地名はそれほど日常生活で大事なものなのである。地名からその土地を喚起する、呼び起こすのだ。小泉民営化は在日日本人によりかられた。
合併するとどうなるのか、村は消えてしまうだろう。

平成の大合併ですべてが、まぜくられ、本物が消えてしまう。不便になる データが消える
昔の町名が書き添えられていたりします、ここに日本の消滅を国民は選んだことになります。
ついでに人間も消えるでしょう、ここに無駄がでましたね、現代人というゴミ人間です。
合併で郷土名を失うことになる子どもたち
介護保険や除雪などはどうなるか?しるもんかです。

地名は人間の道しるべでした。
いらないとした、政治家や学者たち。
何もないならお前達も憲法もいらない、裁判所で裁きたいとなっても何も証拠がなくなったから、泥棒にあったと思えさ。 わすれろだな

これが広がると、日本の社会が消えることになる。
近年、平成の大合併で由緒ある地名が消えていっている。 都市の廃墟が転がっているわけですね。
住居表示がはじまって、古い地名が消えた。

どんな影響が出ているか、祖先の大覚寺へいったら、祖先には関係ないモノ明治天皇に摩り替えられていたので、抗議中、正せ大覚寺、市役所は天皇だから手が出せないとしぶり、京都府庁の文教かも、手が出せないので、自分で、するしかないとか。
泥棒された大覚寺内には、東映撮影に使ってた。
実際の話し、いい加減にされている歴史。

地名が消えると泥棒が多くなる。
商店会はどうなる?
地名は土地の歴史や文化を静かにかつ如実に物語る貴重な存在だった。

最近、市町村合併で昔からの地名が消えている
変わりに地名商法ですが,根室だけではなく,地方の地名を商的に利用する業者が後を絶ちません。おやおやさっそくだね。

責任とれ小泉と自民党は。保障しないのか?命のかわりにだ?
小沢の献金違反と利用しているが、そんな小さい事よりも、地名の保障のほうが重要だ。
すりかえばかり、しているのに、国民は騙されてばかりいる。
かえるという事は、すりかえるという意味だ。泥棒の文句が正義か?

そもそも民族が
違うさかい、日本の流行は関係ないんや!日本の大半は在日朝鮮人なのだ。
すりかえるのに、やりやすい、在日朝鮮人の国日本。

日本人は馬鹿ばかりだから、泥棒するのがやりやすい。
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# by kouhoka | 2009-06-19 21:22

憲法に頼ること。「社稷を思う心なし」

憲法は社稷を、棄てて、できたものである。
憲法は危うきこと也。
情を棄てて公のために尽くせ。自分本意憲法は他人の恨みを買うもとなり。

日本人よ心せよ。

社稷危からず。故、古の聖王、官のために人を求めて、人のために官を求めず。
欲を棄てて、明らかにうつたえをわきまえよ。
聖徳太子は日本人ではなかった、朝鮮から渡来したので、仏教だけしか、頼れなかったので悲劇に見舞われた。

現代は苦難の道を歩んでいた?
日本が今危ういのは、社稷国家永久にして、社稷(しゃしょく)危う也。
世界は国家永久にして、社稷(しゃしょく)危う也。
キリストや仏教は、社稷を害する

国家永久にして、社稷(しやしよく)危き、現代は台がない。
現代は宗教に頼りすぎ、社稷(しやしよく)を害している。
聖徳太子十七条憲法は現代の憲法と同一になり、間違った方向に向かわせている。

危険人物聖徳太子とは?
危険憲法とは?人間を過ちに導く。
聖徳太子はやはり、王朝には危険人物となっていた。
あやむ聖徳太子に慕う者は、社稷を害する、麻生総理と皇室と自民党公明党
謎めいた人物・聖徳太子
聖徳太子朝鮮人説
在日が日本の社稷(しやしよく)を害している。

聖徳太子朝鮮人説の出所を突き詰めていった処、正体不明のキリスト教団体に行き着いたという。
今の皇室の出所を突き詰めていった処、正体不明のキリスト教団体に行き着いたという。
日本人からすれば危険性が強く. 想像もつかない考え方の持ち主聖徳太子に藤原不比等は危険と考えた。

仏教信仰を推進した蘇我馬子は聖徳太子との結びつきが強く滲ませていた。
評価次第でかわる、憲法は社稷を、棄てて、できたものである
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# by kouhoka | 2009-05-27 21:11 | 神のはじまり夜須

生(神)か死(仏)いずれを、選ぶとしたら?

いずれを、選ぶとしたら、いや現在、人間は後者を選んで(憲法を支持している)いるから、世の中がおかしく、なっている。
注①ここに選び方次第でどうにも、変化する、これは自由である証拠、
だが人間である為には、神のしきたり、に徹しなければ、叛くことになる。
神をうらむ、事等許されない、理由はどこにもない。
決めて、いるのは自身なのだから。

日本には各地に神のやしろ、である神社があるとしている、のか?抱いているのか知らないが、これは大間違いである。
通来、神社には、神主なる人が、おられるが、それは、次第により、変化している?
通来、神社は宮の下に於かれている。
しかし、注②神社は宮の下に於かれているはずの、神社は形代(かたしろ)でしか、ない

かたしろとは、現代ではあまり使われなく、なっているので、日本語が通じなく、なっているのだ。
日本語が出来るというのは、誤りである。
日本語というモノは、いろんなかたしろ、に変化して、出来ています?
さきほどの、神社さえも、実のところ、かたしろ、にしかすぎなかった。
現代人が考えている以上に、現代日本人は西洋の影響に、変わってしまって、いるのだ。

神社さえも、実のところ、かたしろ、にしかすぎない?
何故なのか?今の時代では、統一されていて、一つの単語の、ことしか、出てこないのだ。

注④この統一を、率先してのが、憲法である。
日本のすべてが、変わっています。
統一は現代得に、多く使われるようになりました、特にその中で憲法で改正しても、民営化しても、統一、されているのに、それは、国家の憲法で支配されてしまう、からであるが、何故か?民営化は、国家?から離れて個人の企業に、なったとしている、のは、④大嘘である。
注④これはだましの戦法というもので、大元は?憲法支配のままで、ことばだけ、が、使われているだけに、しか、すぎないのだ。

それは自由とは、注①でなければ、ならない。

現代のような憲法で統一されている以上、何も選ぶ事等、できないのだ。

これを知らなければ、ことば(日本語共有同じモノ)は、解読できない。

神は、ああしろとか、こうしろとは、言わない。
注①ここに選び方次第でどうにも、変化する、これは自由である証拠。
しかし、神は、しきたり、という、法則というものが有り、神の使者、天孫、に伝えたことば、が、次のかたしろ、に伝達、される、それが神の方式(法則としきたり)である。

注①ここに選び方次第でどうにも、変化する、これは自由である証拠

本当のところ現代は、自由ではない、それは憲法を支えているからだ。
代わりに神は放棄されている。
ここに現代が判りますね?神に従わない日本人になって、いるのだ。

ここに、日本の神社の現状が見え、現在すべてが、注②神社は宮の下に於かれているはずの、神社は形代(かたしろ)でしか、ない?のだ。
形しろとは、形見と同語で使われている。
これは神から頂いたという意味である。

それは遠い祖先が信じていた、神からの贈り物であった。
これが何か?それはしきたり、という、世界に例がない、ことば、で伝わる。
ここに、しきたりの重要性が出ていた。

通来、神社は天孫宮の下に於かれている

注③天孫宮の祭主は神の使者となられる
注⑥ここ天孫宮の祭主に、神からの、伝達が、伝えられて、これまで、知らせてきたのは、誰も知らないが、確かに、国民に伝わっています。注⑤「これがしきたりの手順である

これが現代は、明治以降になり、革命と名のり、国家氾濫が起り、西洋の加勢を得て、武器を用いたので、武士は、裏切り、天下を乗っ取り、西洋の生き方に準じて、神を棄却し、神仏こんごう(まぜあわせて統一、西洋のキリストと同じとした、から、現代の日本のすべての、④神社はかたしろ、になっていた。
ここにはしきたりの、無い、、④神社はかたしろになり、現代の神社は、神の社では無い④大嘘である。

では現在居る宮司や神官は偽物か?という事になるが?
残念ながら、現代はそういう事になっている。
国民が洗脳されているという明かしでもあるが、生死のように、どちら、を信じるかで、違いが出てくる。
通来、神社は天孫宮の下に於かれている

注③天孫宮の祭主は神の使者となられる
注⑥ここ天孫宮の祭主に、神からの、伝達が、伝えられる。

ここで神のしきたりとは?について、述べる

文明とは神のしきたりに、従うことによって人間に導かれる。児島宮著


①西欧語などの語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味する字義通りに都市化や都市生活のことであった。伝統的に、文明は野蛮や未開と対置されてきた。ここには、高い文化を持つ文明の光と、その光が届かない野蛮や未開の闇という世界像がある。主流を占めたのは、劣った野蛮に対する優れた文明という野蛮は未開とも呼ばれる。文明開化(ぶんめいかいか)とは、明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことをさす。
文明に従順するしきたりに、従順するか、しないか、にかかわる文明人間と野蛮や未開の差。
事の重大さにもかかわらず、実際には今までほとんど意識されることがなかった。
文明とは神のしきたりに、従うことによって人間に導かれる。児島宮著作

風習ってなあに風習とは何か巡廻すること
風習とは長い間続いてきたことを云う。或は巡廻することを云う。
めぐり、くるのが風習。
習慣の事をいう場合もある。
伝承されている風習、なくなれば風習とは云わない。

これは神のしきたりに見えています。 陰と陽の関係は九から始まっているが、陰の方が
強いと自由わがままになる。これを天秤(てんびん)に、かけるという。
ひな祭りの祝い膳に,白の平餅とヨモギの菱形の餅をつくって供えるのがしきたり。

ここに、しきたりの解釈が見えていて?
互いに違う菱形の餅(共有)が添えられる事と同語。
統一は一つだけで、注例、人間が死ぬと、茶碗に一本の箸を立てる習いは、民営化や道州制や、自民党独占で憲法を悪用しているのと、同語。
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# by kouhoka | 2009-03-31 08:34

茶道の始まりは神の法則しきたり、によって始まる

茶道の始まりは、しきたりに、有り、桃山文化を切り開いたのは、佐久間信盛であった。
茶道の極意というものではなく、又習い事でも無い。
稽古を積み重ねるのが茶道というのは、明治になり、民間がするように、なってからである。

茶道の始まりは、しきたりに、有りとは?
茶道を仕事としている、家元千利休(せんのりきゅう/せんりきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)は中世末期、戦国時代、安土桃山時代の茶人
無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる と解説しているが、町おこしのように、嘘(からくり)が、見えているのに、国民は気付かないのは、しきたり、が伝わっていないと見る。

茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。
ここに千利休の、田中与四郎という人物のことが、でてくるが?この人物は、古来日本のしきたり、が続いていた家なのか?にかかっている。
大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地。
ここに突然忽然と、表われた人物こそ、本来のしきたり、の続く家宮家の、佐久間信盛であった
これが消えているので、原案のない、ただの、
魚問屋『ととや』の男によって、茶道の侘びが、得られるとはならない

魚問屋の男が、又武家の頭領織田信長に対面できるとは、なりえないのである。

又豊臣秀吉の面前に、出られる環境では無い事は、誰にも判る。

侘びの心を、無智脳な一介の魚問屋の男が、できるであろうか?
すべてが相似しなくては、本質(からくりがある)ではないのだ。
ここに、佐久間信盛父子の、罷免状を突きつけたのは、あの、織田信長であった。

春屋妙葩は2代将軍義詮・3代将軍義満の信任を得て、天下僧録(禅宗の寺院と人事を司る僧職)に任命されます。また京都に相国寺(しょうこくじ)を建て、将軍家の菩提寺とし、夢窓派五山統制の拠点とします。
3代将軍義満は京都の南禅寺を五山の上に置いて、京都・鎌倉の五山の制度・順位を決めました

臨済宗で隠遁思想の影響を受けた流れ、大徳寺開山の宗峰妙超(しょうほうみょうちょう)の弟子で、妙心寺を開いた開山慧玄(かいざんえげん)と大徳寺を継いだ徹翁義亨(てつおうぎこう)の二つの流れが有名です。
大徳寺は皇室や公家貴族のものとなる。

ここで利休の父は堺で高名な商人の跡取り男が居た?16歳で茶の道に入る。
18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩いた、入門で、ここで始めて、茶の湯に、顔を出している。紹鴎の師は村田珠光(じゅこう、1423-1502)。珠光はあの一休の弟子
、ここで一休と、佐久間信盛の間には、もう一人の、足利義満将軍の関係が、見え、国民の知らない部分が、ここにある。
佐久間信盛の先祖児島高徳と、足利義満との間には、どちらも、母方が同じ、石清水八幡家の女達で、児島高徳の母は長女であった。

室町幕府の三代将軍義満が母方から順徳天皇5世の孫石清水八幡宮社僧・善法寺通清の娘である紀良子(足利義詮室、母は紀良子)
後円融天皇と足利義満は母親が姉妹
児島高徳は善法寺通清の長女が、祖父児島範長の室であった、養育されたのが、養子のように、されているが、これは天皇のしきたりで、母方が育てるのがしきたり、であった。
児島高徳が児島範長の養子といわれるのは、ここにある。
これでいけば、児島高徳は後円融天皇足利義満の兄に、あたる。

母系で天皇家と縁戚関係にある、児島高徳、足利義満、後円融天皇の三者。
宮家に伝わる「『神農食經』には茶を久しく服せば元気になり気分も良くなると書いてある」
ここから、茶は紹介されていた。
一般の農民の他、土倉などの商人や、国人といわれる在地の小領主である。将軍も大名も、あるいは公家も、みな自分の権力や領地の拡大、勘合貿易や金貸しによる利殖、あとは日々の遊興しか、頭になかった。
これが、茶の紹介に至らず、時は、戦国末期になり、世の中が、定着しようと、したいる最中に、
佐久間信盛父子は、茶を開き、
堺の今井宗久に御茶を進上申すべき旨仰せ有つて、則ち御成り有りけるが、その
   次(ついで)に
         宗易、宗及、道叱(どうしつ)が●座敷
   をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に
         佐久間甚九郎
   御茶上申し、終日の会なり。
   同三日に帰洛の翌(つぎ)の夜話に、信長公曰いけるは、
         甚九郎数寄、
   事の外に上手なりと覚えたり。去れども羨ましき事ならずと仰せらる。
         (一行はなす))
今井宗久に進上を命じて実際上申したのは「佐久間甚九郎」なので「今井宗久」が「甚九郎」に頼んだのかということです。
「今井宗久所」で信長公は実際見に行っています。しかし主催は「佐久間甚九郎」
翌日に信長公が

       『甚九郎数寄、事の外に上手なりと覚えたり。』
『佐久間甚九郎   信盛の子、信栄。茶人として有名。』
『佐久間信盛  半助と称す。後右衛門ノ尉と改む。織田氏の宿老なり。後罪を得て配流せらる。
     天正四年七月十二日卒。』
大坂四方十箇所、附け城の普請、事急にして、天王寺には佐久間父子・・・・・・・』〈甫庵信長記〉
不干斎。元織田信長家臣で信盛の子。通称甚九郎、諱は信栄とも。天正六年には信長のために茶会を催すなど茶の湯に堪能で、千利休や堺の高名な茶人たちとも交流があったが、結局これが徒となって父信盛とともに高野山へ追放される憂き目を見た。

※佐久間信盛(さくま のぶもり)は、安土桃山時代の武将。織田信長の家臣。佐久間氏の当主。出羽介、右衛門尉。子に佐久間信栄
天正3/12/28: 織田信長が
美濃岐阜城を長子信忠に譲り、茶道具だけを持って城外の佐久間信盛の屋敷に移る。
信秀殿は疫病に罹り、祈祷や療養を繰り返しても回復に向かわず、ついに天文21(1552)年3月3日、42歳の若さで亡くなられた。信長公は林・平手・青山・内藤の家老を伴い出席した。一方弟君の勘十郎信行殿には柴田権六勝家・佐久間大学盛重・佐久間次右衛門信盛らの家臣が付き従った

石山包囲の総大将佐久間信盛は開城後まもなく「何もせずいたずらに歳月を重ねた」として追放されている

佐久間信盛父子は信長公の勘気を蒙って追放され、父信盛は
諸国を放浪の末に紀伊国熊野の奥地で没していたが、信長公はこれを不憫に感じた。
これが高野山の僧がかくまったのに、信長は怒り皆殺しにした、挙句、佐久間信盛の財産迄没収したのが、次の、佐久間信栄の本能寺の変の父のあだ討ちとなる。
佐久間信栄一門挙げての、討伐で、三宅天海僧正は、活躍している。
以降、茶は、下部にも、とどき、わたった。

本能寺の変の2年前に、信長は織田家功業の重臣といっていい佐久間信盛を石山城攻略の怠慢を責め、嫡男の信栄ともども遠国追放した。
佐久間父子はこの書状を読むと取るものもとりあえず、高野山へ上りますが、信長から高野は許さぬとの命令が出たため、父子はさらに高野山を出て紀伊熊野の奥地まで進みます。

2条城は堀秀政の裏切りで大手門が開き秀吉軍、丹羽軍に攻撃されて信長 が討たれた。安土城は家康の指揮で安土古城図は本能寺の変の犯人達を教えている
安土廃城約百年後に描かれた物で何の目的で描かれたか判らない。大手道の脇 に羽柴秀吉、家康公、武藤助左衛門、江藤加賀右衛門、武井肥後入道夕庵の屋敷 がある。本丸に堀秀政の名がある。安土城は家康の指揮で利家軍、信雄軍に攻撃されて信忠が討たれた。
佐久間・柴田・明智の三人の屋敷は

嘉吉元年(1441)の銘のある御器所八幡宮の棟札には「佐久間美作守上臈」とあり御器所八所大明神の社殿を造立したという。
文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』
小川乾坤院(知多郡東浦町)蔵の「血脈集」文明十一年(1479)条に「誠栄 サクマ平右衛門 尾州御貴所(御器所)」とみえる。
永禄七年(1564)の段階でも御器所は佐久間氏の領地で御器所八所大明神修理棟札に、佐久間美作守家勝・佐久間右衛門尉信盛の名が見えている。

信盛の子。初名は信栄。のち正勝、通称は甚九郎、号に松泉庵・宗岩・不干斎。
茶会を開いて堺衆らと交歓した。武人中の数寄者として知られ、信長の死後は信雄・豊臣秀吉に、さらに徳川秀忠の御伽衆に列した。
はびあんは不干斎巴鼻庵、佐久間宗遠の号とされています。
佐久間不干斎, 茶人信盛子・佐久間肩衝, 京都府京都市北区紫野大徳寺町, 大徳寺高東院,
日本人によるキリスト教布教書「妙貞問答」の著者 日本文典を作成した。母ジョアンなは北の政所の次女だった。十一月佐久間不干斉会幽斎年賦―天正十六年―3 。織田家よりは名家
法名は宗岩。墓所は京都紫野大徳寺の高東院。
Fukan Fabian、不干斎巴鼻庵(ふかんさいはびあん)
名ハビアンを名乗る。長崎で日本語教師を務める傍ら要約した「平家物語」口語訳を編集したり(後の「天草本平家物語」の原本)、慶長10(1605)年には護教書(キリスト教擁護書)である「妙貞問答」を著わしたりして活躍京都で修道女ベアータと共に出奔、棄教した。「破提宇子」を刊行
「るしへる」=明けの明星
天正20年11月8日の記事

応永15年(1408)前の将軍足利義満が死んだ。義満は「太上天皇」

一休は応永元年1月1日の生まれだから、15歳になっていた。6歳で母のもとから引き離され、安国寺に入れられた。「一休和尚年譜」安国寺は、後醍醐天皇、楠木、新田一族の霊を祀るために建てられた寺
一休の母が正儀の孫娘であるとすると、一休が細川頼之の地蔵院にいたことも、何か因縁めく。一休が自分の素性を知った宮中を追われた母
母が一休を身篭ると、皇位の継承権を妬んだ人々の謀略で、彼女は南朝方と通じていると誹謗され、宮廷を追われることになった。嵯峨の民家でひっそり一休を産んだ。室町期の禅僧(臨済宗)。
父は南朝方から神器を受け取り南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母は藤原一族、日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)。
将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ「さぁ追い出して下さい」と告げ、ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされている。

一休のもとには有力な大名や公家、商人、が参禅しました。なかでも、堺の豪商・村田珠光は高弟の一人として知られ、一休から"侘び"の境地を学んだといいます。モノの本質を極める"侘び"の境地
文明13年(1481)11月21日卯の刻。「とんちの一休」でおなじみの、一休宗純禅師が亡くなりました。
出身(日野中納言の娘伊予局あるいは藤原顕純の娘藤侍従といわれる)
(応永25), 25歳, 「祗王寵を失い尼となる」の琵琶をきいて「洞山三頓の棒をゆるす」の公案を会得、華叟から「一休」という号 (応永29), 29歳, 大徳寺7世、言外宗忠の33回忌に一休は粗末な着物をまとって参列する。
南北朝時代南朝と北朝は敵対関係にあったため、一休の母親は北朝の人間から憎まれ、追い出されるような形で宮中を後にし、一休の身の安全を確保するために北朝側の寺に預けざるを得ませんでした。自殺をしようとしたことは「一休和尚年譜」に載っています。
1394(応永元)年、北朝の後小松天皇の子を宿した伊予局は、南朝の娘ということで、御所を追われ、嵯峨野で男の子を産みました。
ここに天皇となる要素はどこにも、見当たらない。

母は藤原氏、南朝の高官の胤、後小松帝の寵愛を受けていたが、懐剣を隠し持って帝の命を狙っていると后に讒言されて、宮中を追われ、民間にはいって一休を生んだ」とし書かれていない。
「楠木正成の三男正儀(まさのり)とその子正澄が河内倉満ノ庄津田村(現枚方市)を経て、八箇ノ庄水島(現門真市三つ島)に移り住んだ。正澄の三女が後小松院の官女となり、一休を産んだ」と、かなり具体的に書かれてあった。

これと、従弟にあたるの、一休は、紫野大徳寺と、関係していて、
宮家の児島高徳の菩提寺は、紫野大徳寺高東院であった。
ここ紫野大徳寺に、茶の原形原案が、始まったことを,明かしている。
総本家は何といっても、天皇の祀りことに有り、しきたりは、宮家の児島高徳の由来と総合している。

宮家の児島高徳は、醐醍醐天皇の後継に、亀山上皇から、醐醍醐天皇に言い渡されていたが、しきたりを、破った、醐醍醐天皇は、自分の子供、天皇にしてから、児島高徳の「太平記」で、宮家の先祖について、越王勾践、迄を書き記して、いる。
これはしきたり、の家が、宮家にだけ、伝わるのを意識しての事であった。

しきたりとは、なんぞや?
それは神の法則をいう。
伝統や文化はこのしきたりによって、起っている。

茶道の原案はこの、天皇のしきたりから、生まれている。
外にも、佐久間信盛子、佐久間信栄が、江戸文化の原案を作ったとは誰も知らないのは、しきたり、が通じていないから、電線に電流が流れないのと、同じことになる?
まだ他にも相対した出来事がある?織田信長は一介の成り上がり、者で、佐久間信盛は、この宿将となり、ついた、ここで始めて、信長の父の死にさいし、後継者が選択されたが、この時、
一括して決まったのが佐久間信盛の配慮であったと、記録している。
こうして、父祖からの同盟者である佐久間一門の、活躍がなければ、時の将軍を破れはしなかったであろう。
佐久間一門が相手にした適方には縁戚の、武田一門が付いていたのである。

挙句の果て、佐久間信盛父子は、茶道に、いきづき、石山本願寺の、蓮如討伐には働かなかったとして、高野山に追放、ところか、財産まで、佐久間信盛父子から奪ってしまう。


佐久間信栄が、江戸文化の原案を作ったのは?
相撲と甚句にあり、佐久間信栄は甚九郎正勝とか、ハビアンとか、名乗っていて、歴史に、記録されている。
歌舞伎も同じで、
宮家の児島高徳の菩提寺は、紫野大徳寺高東院内には、殉死でもって、しきたりに、従うのが本命とされていた、紫野大徳寺高東院内には、甚九郎正勝に殉死した、三淵家や、歌舞伎の創始者といわれる、出雲のお国や、夫の墓が、宮家の墓を取り囲んでいるのは、イラクメソポタミアのしきたり、がこの時も、松長剛山住職の、私に、明かされた甚九郎正勝由来から、相対していたので、判明している。



原案の草案者は、人間界では、本能は無智脳である為に、判らないので、出来ないのである。
これを、すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる ?とは相似しない。
ここに嘘が、通っているのは、現代感を、現しているのです。

現代感こそ、嘘つき(しきたりの反対用語はからくり)の時代となっている。
歴史を見てみれば、どれも、本質(しきたりの反対用語はからくり)がないのに、本当かのように、思われている。
太文字が、実態を示している。

ここに茶道の始まりは神の法則(しきたりの反対用語はからくり)によって始まるのが本質で、相似しないのは、嘘が、でている。
ここで侘び(しきたりの反対用語はからくり)について、解説すれば?
侘びという日本語は何?
しきたりの反対用語はからくり

しきたりの反対用語はからくり)これも知らない現代人は、民間裁判員制度(しきたりの反対用語はからくり)のように、思想心を、目茶目茶に破壊してしまう。
与党の自民党と公明党は、思うがままに、からくりを、連発しているのに、国民はのっている。
のせられているといった、ほうが、しきたりの反対用語はからくり、が判る。

やめない理由は、麻生の総理大臣の、もらう金額に、本心が、隠されていて、ここにも、からくりが、でている。
現代はまさに、からくりの、時代の真っ只中に有り、決めるという、機械を、見失っているのが見える。
どちらが、人間の世が続くのか、判断が、見えないようにするために、
民間裁判員制度(しきたりの反対用語はからくり)を取り入れたのに、憲法により、阻害されている。
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# by kouhoka | 2009-03-14 13:24 | 何故茶道がはじまったのか?

茶道の始まりは伝統にある

茶道の始まりは伝統にある。
日本の伝統文化
それ以前は、飲み物にすぎませんでした、よこいはここにあります。
普通日本人は日本語で、昔は表現していました、これが休憩のことを、日本語でよこい、、といいます。

戦国時代も、織田信長によって、安楽の時がきたので、ここに、よこい、暇の時が出来ました。
ただ暇では時間のもてあましだけで、戦がややおさまると、信長を補佐した、佐久間信盛は、町集の中へ
、足を運んだ時に、茶道は始まりました。

堺衆は信長が、楽市楽座を、開いたのが始まりであった。
これを武士は町衆となづけました。
この中へ、足を運んだのは、堺衆が商売の取引をしていたのに、信長に報告したであろう?
鉄砲の取引を、取り扱っていたと記録に残している。

千利休、津田宗及、今井宗久など、多くの堺衆がその教化をうけました。
堺衆が「茶の湯」を覚えたのは、佐久間信盛との交渉にあった。
ここに、佐久間信盛は、よこい間に、茶を出されたので、佐久間信盛は堺衆にも、
バテレンと手を切った後、茶の間に、自家の伝統の神仙思想を取り入れて、教えたのが、茶道の起こりと、宮家は記録を、残している。

ここで、佐久間信盛について、知らなくては、茶道は成り立たない?
佐久間信盛の先祖の居城は、父の跡を引き継ぎ、備後国の児島高徳が築造したという、城が、佐久間信盛の生誕地です。

墓所内の五輪塔は左側から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西
四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓です。NHK中継所のある西の茶臼山と東の宝珠山との鞍部に着いた。ここには観音像と、新しい墓・その解説板がある
和田備後守範長は備後国の児島高徳の祖父です、和田備後守範長は児島範長を、号ス。
児島範長祖は、佐々木一族の加地信実の、系統で娘が、児島高徳父頼宴僧正の室になって、
生まれたのが、児島高徳です。
和田備後守範長は、石清水八幡坊門家の紀家弘の、女を妻にしていました。
妹は紀良子といい、ニ代足利将軍の室になり、下の妹は、天皇の室になり、事が知られる。


佐久間信盛の、尾張末盛城は、先祖の城ではありませんが、佐久間信盛はここが、生誕地としている。
それは父が、織田信秀と組んで、いたからです。
その父の居城が、備後の祖先の、築いた、広瀬城、備前国児島高徳が築き長男高盛に譲る。『広済寺旧記』より。
南北朝時代に児島高徳が築城したと伝わる東広瀬城

西広瀬城『三河国二葉松』によると、城主は佐久間信直・全孝とあります。
天文十八年(1549)、岡崎城主・松平広忠(徳川家康の父)は近侍の岩松弥八に刺殺されて
しまいますが、じつは弥八は当時の西広瀬城主・佐久間全孝が遣わした刺客であったとか。
伝えには「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済
寺を創建し、正平20年(1365)に没した」とある。

築城者佐久間信直・全孝

織田信秀の家臣・佐久間信直が築城した。

桶狭間の戦い」の際、佐久間信直は
信長方の善照寺砦を死守し、戦功を挙げている。1 576年頃、佐久間信盛も居城した
佐久間信直(佐久間信盛の弟)
織田信長の重臣・佐久間氏の当主・佐久間信盛の長男として生まれ、若くして父と共に各地を転戦、伊勢国大河内城攻略戦、対六角氏戦などで父と共に戦功をあげ、天正4年(1576年)には対石山本願寺戦で天王寺城の守備を任されている。

佐久間信直は信長方の善照寺砦を死守し、戦功を挙げている。
1 576年頃、佐久間信盛も居城したが、その後、信直、甥の正勝は織田信雄に属し、
158 4年「小牧、長久手の戦い」で蟹江城を護り、軍功を挙げた。

佐久間信盛は織田信秀・信長の二代に仕え、長篠の合戦や越前朝倉攻め、伊勢長島一揆
など戦功をたてました。 しかし、石山本願寺攻めの不手際によって追放され剃髪して
高野山に入り、熊野で亡くなりました。

佐久間信盛は、織田信長に30年余を仕え、宿老と呼ばれました。 「信長公記」によれ
ば、信長は無益な策の罪により、信盛を天正8年(1580)高野山に追放。その後高野山
金剛峯寺小坂坊に身を潜めた信盛に、信長から「高野山に住むこと叶うべからず」

信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている
  三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。



尾張国にあった末森城について記述しています。
尾張国愛知郡鳴海荘末森村(現・愛知県名古屋市千種区城山町)にあった城郭である。
天文17年(1548年)、織田信秀が築城した。
織田信勝は林秀貞、柴田勝家などとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れて和睦した。しかし翌弘治3年(1557年)、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺された。

信秀は翌年この城で
死去し、かわって信長の弟、信行が城主となった。しかし、信行は兄信長から家督を奪う
企みを行ったため、弘治3(1557)年に清洲城で殺害され、末盛城は廃城となった。


末盛城は平山城(ひらや
まじろ)で、 織田信秀が今川方に対する守りとして築いたもの。
お城は弘治三年(1557)信行が、信長に殺された後に廃城されました。



天文17年織田信秀が築き、古渡城から、この末盛城へ移った。同18年に信秀は病死し、その子信行(信長の弟)が城主となるが、謀反の罪で弘治3年(1557)に清洲城で兄・信長に誘殺された。

信長の父・信秀は、生涯の間に、勝幡城→那古野城
→古渡城→末盛城と次々と移していきました。
その信秀は末盛城で42才の年で没した。

信長の母の六角(ろっかく)氏は信行を愛して、これといっしょに末盛城にいた。そこで
六角氏は信行に誓書(信長に叛かぬという誓書)を作らせ、勝家・通勝はみな墨染の衣を
着(ちゃく)し、その罪を謝りにやってきた。

ここで、まだ千利休にも道の意味は、?解けない?かったのです?
道とは、解けていない?かったのは、この時点では、民衆には、伝統が、伝わっていなかった?
不思議に思えるかもしけないが、現代も実は、この時の様子に、似ています。

解けない?かったのです?それは神のことをいう。
林道春と信長の面前での如く、地球は平面につながっていると、考えていたのです、これは
佐久間信盛子息、甚九郎正勝事ハビアンとの、問答対決の、際の出来事でした。
佐久間信盛父子は、信長の摂関状でも記しているように、父子は茶道に、つかりきりとしている。
ここにも見えているように、
武士の間にも、茶道を通じて、神の道を伝授したのです。

それを神仏が嫌いな信長も恐れたのです。
それは神の道を伝授、されると、信長は、佐久間信盛の頭上に、居られないからでした。
たとえ、信長と云えども、奈良の正倉院の開封は出来ないと、知り、佐久間信盛にしか、
出来ない、
奈良の正倉院の開封に、佐久間信盛を奉行にして、香の、らんじやたい、を切り取らせたのです。
香の、らんじやたい、を切り取ったのは、同じく足利将軍も、神と呼ばせる為に、開かせた。

これが、真実なのです。
類似したのが、古代中国でも記録していて、太一の祭祀を恐れた、のに似ています。
秦の始皇帝は、太一の祭祀を恐れ、盛んに、行った従ったとある、と記している。
太一(タイイツ)【神】: 上帝、天帝

天神の中で一番貴い神が太一

秦の始皇帝が始め
たとい う泰山での封禅の祭祀神道、に従順したので、越王を名乗らせた、といわれます

佐久間信盛父子は信長には、道を封じられた、のは明治革命も類似していて、
神道を、廃棄したのが、背景にある。
これで善悪はなくなったことである。

神道を、表に出されると、大室天皇は、成り立たなくなるからです。それは悪でしかないから。

これは、織田信長と共通して、います。
神と、呼ばせたのに、似ている。現代の昭和天皇も佐賀の大隈庶民なのです。

ですから、現代の茶道は、稽古事だけに、されたのです。
これを利用したのが、茶道家裏千と婚約をつなぐ事で、為したとしているのです。

これは茶道とは言いません?道楽の茶です。

何も共通する原語は、ここには見えて、いません。

類似しているのが、神道としながら、伝統では、なくなり、八百長ばかり繰り返している
相撲も同類です。
それはともに、日本語の中に納まっているはずの、作法が見えないからです?

茶道と同じく、原点が、納まっていないのですから?
原点とは佐久間信盛の末裔に何もつながっていないのです?天皇さえも?
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# by kouhoka | 2009-02-03 18:08 | 佐久間信盛と神仙思想

日本の茶道は佐久間信盛開眼によってはじまった

茶道の開始は、戦国時代の後になってから、で戦国武将には、まだ茶道は於かれていませんでした。
室町茶は武人のたしなみとしてだけ、あったようで、絵画は鑑賞として、用いられていました。
この背景には、桃山期をあげることができよう。
茶の開催は、武人と町衆の出会いから、おこったようです。
特に織田信長の今川戦の後、戦乱も収まったのには、裏で手を貸した町衆にあり鉄砲という武器の、手配に、佐久間信盛との出会いがあったようです。

ここから、武士と町衆の関係が結ばれたのに、端を発していたのでしょう。
ここに、まだ茶道は、開かれていませんでした、茶の心という、すじは、なかったという事です。
この武士でも、すじは、なかったし、ありません、では何故茶道がはじまったのか?

ここが途切れて、語られている、だけにしか、過ぎないようで、これといった、確証と裏付けはありません。心の開闢は当然この時にもありません。(手法は、「神仙思想邪馬台」による)

武士と町衆の関係が結ばれたのに、端を発していた人物が、茶の、かかわりが、あるのです。
桃山期といえば、戦国武将織田信長であることは、知られています。
この織田信長の幼少頃後継争いに、佐久間信盛が、織田信長推薦の一言で決まったとあります。
ここで佐久間信盛について、あまり知られていないようですので、茶道を語るにはこの佐久間信盛を、於いて他には、いないようです。

この佐久間信盛は南北朝の児島高徳を祖として、備後の国と深いつながりがありました。
児島高徳が築いた、西広瀬城を佐久間信盛は居城としていました。
ここに茶の、つながりが見えています。
茶は栄西上人が宋から持ってきたといわれ、栄西上人の生まれがこの備後の国でした。

茶のほかに、備後の国には古代に、第二にあたる墳丘墓が築かれていました、ここには茶に関る、「神仙思想邪馬台」に出てくる神山のひとつである墳丘墓があります。
桃太郎神話はここから作られていたのでしょう。
そうこの神話も、「神仙思想邪馬台」なのです、これから茶の心は始まっていたのです。
ここに佐久間信盛は特別な、天皇との、かかわりが、あったのです。
こんな話しものこされています。
あるとき、織田信長が香を開催するによって、織田信長さえも手を出せなかった奈良東大寺正倉院の扉を、開くのに、織田信長は佐久間信盛の身分を知っていたのでしょう、佐久間信盛奉行に命じて、らんじゃたい、香を一部切り取らせたと記録しています。

こうして、町衆に佐久間信盛あり鉄砲という武器との拘わりから、茶会が開かれたのでした。
茶会は町衆と武士との、神仙思想から、生まれたとしても、よいでしょう。
町衆と武士との寄席に際して、ここにしきたり、という、気難しいという織田信長の記録にもあるように、佐久間信盛は神仙思想のしきたりを、茶席で、指導したのが、茶道の始まりなのです。
あの織田信長でさえ、茶壷に、のぼせたくらい、佐久間信盛宮家に伝わる、天皇家の、「神仙思想邪馬台」しきたり伝統文化は定着していたのです。

茶会には茶人によるとしているのは、誤りで、町衆には、「神仙思想邪馬台」等ある訳はありません。
ここに、佐久間信盛が頻繁に茶会を開いたのが、茶道の始まりなのです。
佐久間信盛と茶道の関係は、佐久間信盛宮家に伝わる、天皇家の、「神仙思想邪馬台」があったのです。
茶道の心の真髄はこの、「神仙思想邪馬台」からおこったのです。児島歴研会著作

茶道には、江戸時代には、町衆がさかんに、茶をもようしたと、あるように、地域的連帯のな. かに、ふくみこみ、ながら千利休へと発展した。
日本で江戸相撲が始まったのは、佐久間信盛子息甚九郎信栄、「神仙思想邪馬台」からおこったもの、でした。
ここにその方形が、見えているのは、古代弥生の、「神仙思想邪馬台」墳丘墓と同一の方形に、あります。
日本の茶道は佐久間信盛、「神仙思想邪馬台」開眼によってはじまった。
子息ハビアンこと、甚九郎信栄も、、「神仙思想邪馬台」で林道春と宇宙観で対決したのは有名な話しです。

京都、堺の町衆の間から「下々のたのしみ」としての茶の湯が流行した。茶を飲み茶器を鑑賞しあうことで、主客の融合をはかったのである。
このように日本の文明伝統文化しきたりは、児島宮先人なくしては、語れないのです。

いま、そのしきたり道徳は、教育でも、阻害しされ、ています、人権は人間を荒れ果てさせてしまいました。
人権には道徳は無用とされたのです。
今日本社会のすべてが、失われました、今あるのは憲法だけの社会なのです、ここにはしきたり、伝統は、まったく除外されています。
このしきたりこと、伝統文化は今の日本には少しもありません。
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# by kouhoka | 2008-12-17 18:01

伊勢神宮が一番古い神社というわけではなく

伊勢神宮よりも熊野神社のほうが、もっと古いが、それよりも、もっと古い神社が筑紫の筑紫城、ここが、松峡宮である。
この松峡宮が遷宮したのが現在の松峡こと松延のことで、今は慶長六年に、篠隈と改められた。
この篠隈に慶長六年甚九郎正成が、祖にのっとり、社殿を造るのが今の児島宮である。
甚九郎正成父甚九郎正勝は江戸城にいて、三代にわたり、徳川の安泰を見守っていた。
徳川家康とか、うわさされているが、記録では三千石とされているのが?どうも、間違いのようである。
甚九郎正勝の一族にゆかりの、天海僧正の母はこの、甚九郎正勝分家の女であった。
家光が、秀忠の後継になったのも、甚九郎正勝こと徳川家康?の力ゆえか?
またこれを、裏付ける、背景が狩野孝信の室に、妹が嫁いだことから、探幽が狩野孝信に連れられて、登城して、徳川家康と対面したので、あれば、筋書きは、つながる。
またこれに相して、狩野孝信が、天皇の御用絵師について、いたり、春日局が天皇から名前を拝したのも、これなら、うなづけられる。
天皇の縁戚関係にあった、甚九郎正勝は、宮家本家であった、ことから、三位のくらいが、あったのは、甚九郎正勝父佐久間信盛が、信長の御香に際して、正倉院開封のらんじゃたい、という、歴史で知られる足利義満くらいしか、開封することが、できなかったと、いう事からも、判るように、正倉院開封は天皇でも、開封は出来ない決まりが、あった事からも、関係が伺いしれる。

このように、愛知でも、佐久間信盛は五器所に神社をたてた、札書きが、残されている。
これには佐々家も連座していた。
この佐々家には、佐久間信盛女が鷹司家に嫁いで、生まれた女が、佐々成政の兄に、とついでいた。
この関係からも天皇家との繋がりが佐久間信盛に、あったことが、裏づけされている。

ここに甚九郎正勝長男、甚九郎正成は宮を造り、伊勢神宮の建物の構造「唯一神明造り」平山大明神としていたのを、現祭主が、祖に因み、児島宮とし、遷宮させた。
甚九郎正成弟、助九郎長興は、黒田長政から、養子に向かえられ、て、後継ぎのところ、忠之の抵抗にあい、やむなく、長政遺言の通り、秋月に分藩された。
この助九郎長興男長重の鎧には、秋月郷土館に展示されている鎧に、宮家の紋章が、記され、助九郎長興が、黒田長政から三番目養子に向かえられた事を、現している。

又天草四郎の乱に、犠牲にされたのは、天海僧正の男であったので、秋月藩の天草四郎の乱に奮闘したのが、秋月郷土館に展示されている、御用絵師斉藤秋圃の手になる、屏風が、それを物語るものである。
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# by kouhoka | 2008-12-06 20:55 | 伊勢神宮の総本社児島宮

山と書いて三とも耶麻台とも云う

古来より私たちに伝えているものに、、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼の国と、記している記述を、誤解していて、これが邪馬台国だと思っている。
ここでは誤解について述べよう。

日本語文字が読めない日本人、なのは、仕方がないにしても、
邪馬台国が今、あちこちで、加熱状態にあるのは、とても残念なこと。
ここでは、まず文字から、始めなくては、ならないようだ。
邪馬台国に秘められている、邪馬文字からはじめよう。
この邪馬とは重なる、という意味を含んでいます、これを相対とか、重複とか言いますが、他にも、邪馬とは、こんな意味も、意味は同様です。
又邪馬とは、古代より、神と深いつながりが、あるようです。

シュメール文字の中に、形で、表わしたものが、見えています、それが此れが世界起源で最初の文明国、メソポタミア時代、そこの女王が、つけた冠が、これです。

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史上最古の、三つの星が、頭上に見られますね。
この星が、シュメール農耕天文学の、女王神の、冠となっています。
ここに、史上初の、神の起源実証が、残されていました。

世界の人は、当たり前のように、思っていますが、これが三にまつわる、重要な謎の鍵とも、なっているのです。
それが重複です、この重複することばの、意味、は、日本語ではなければ、意味はずれて、しまいます。
ここが世界と違うところです。

漢字字典で、山と引いても、出ていませんね。
それは、日本人が、理解できて、いないため、です、どういう事からかと、云いますと、日本の始まり、に帰よしています。
原因はまだ、理解できて、いないので、
こちらから、すすめて、いきます。
それは先程の王のシュメール民族に、拘わり、だけの、文字しか、無いために、おきて、いるのでしょう。
それでは次に、この日本の始まりの歴史に、うつりましょう。
日本人も融合(重複)むすび、ついて、日本のにほん、という文字が出来ました。
ここにはまだ、にほん、しか、見えませんね。
しかし、いくら考えても二本の文字しか、ありません。
、だがこれに、神を加えれば、三本になりますね。
そうです、それが、さん、が重なって、文字と、なったのが山、或は台と、なります、そこに国を、加えれば、やまたいこく、となるのです。

この意味少しは、判りましたか?

古代中国の春秋戦国時代に、殷国を滅ぼした、周国の武帝、の時、天子からいただいた、資料の中に、メソポタミアにはじまる、象形文字、があるが、
この象形文字、が、周国時も使われていました。
それがこの、神代文字である、画像②参照
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これは、伊勢神宮に保存されている謎の古代弥生祝詞、です。
この中に違い山形文字が、出ているのが、やま、とか神、とか、言い表します。
日本史上初の、神代文字とされています。
ここに明治以降は、宮内庁なる組織が入り込み、ましたので、これを消さないと、真実が
露見してしまうので、、
ひらかずの、神代文字とだけ、しているから、もしかしたら、永久に日本の真実の歴史は、なかったとなるでしょう。
ここに出てきたのは?
先程の弥生民族の違いと、同じような、事がくりかえされて、これは重複するので、勿論、解読は不可能となるのです。
この背景がわからないから、何も見えていない、し読取れないのです。

「文字解読が何故出来ないのかについて」


何故出来ないのかについての立証は、日本人の原点である歴史に、理由はあります。
それは、シュメール民系の、南越国民なら容易に、解くことか、できるかも知れないが、別のインド民系の殷民系は、不可能でしう。
理由はそのうちの、どちらかにあるのです。

シュメール民系+とインド民系の融合によって、私たちの祖先は、始まっていたのです。
これがやまと、つまり二本という文字と重複相対する、と、大和とかになっります。
大+和(やまと)になっています。
ここには二つの融合が、あるのです。

だから神と三本の国となっています。
ですが現代では、神が排除されていますから、自民党のような独占体制のように、すべてが、変容しているのです。
ここには日本ではなく、二本国が要等でしょう。
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# by kouhoka | 2008-10-23 08:02

神仏紋章の違いがある神社と寺社は別

神仏紋章とは古代からの、民族との違いから、分かれている

神の紀元は今から八千年前のメソポタミアのウバイド時期に、シュメール民族の王により、はじまった、それは、イラク博物館に見られる、世界で最初の王の誕生によって、二重の神懸りを示した、紋章が、十六葉菊紋章である。

これが神の紋章で、神は古代中国の王朝の後の、周民族(ドラピタ、インド発祥)の周王朝時の春秋戦国時代にも、、形象文字にも、発見(児島歴研会)発表した。
神のかたしろ、で、違い山形紋は、王を示す文字としても、伝えられていた。


周王朝時の春秋戦国時代にも、、形象文字

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伊勢祝詞にも違い山形紋が見える
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銅器鏡×文字

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人体では、日本の名の根源である、二重の神懸りを、表わす、正統天王(天皇は代替もあるので、別物)鷹の姿で現されている。(これがトーテムである)
別にトーテムとして、星☆でも表わされる

このシュメール民族は神仏集合相対混合が有り、仏は黄泉の国としている、これが日本の起こり由来となった。

仏の紀元は、八千年前のメソポタミアのウバイド時期であるが、その時期、民族の交易が、行われていて、メソポタミアの都(神殿から名づけられる)にいろんな民族が、開けていたメソポタミアと交易して、いろんなものを学んだのが、そこの土地に持ち込まれて、ドラピタ、インドアッサラ発祥)に持ち帰り、民族の生活と適合した、方だけ、が広まったものである。
これらは共通していて、死に関する、人体の中には、仏霊や魂がいると、したのが唯一信仰である。

この仏の形は?霊があるとした?魂の根源は、丸い円形のトーテムとして用いた。
又魂が天に向かって昇天するとして、埋葬時、に卍も、形象としたのは世界に共通している後が、墓石にも見られる。

石碑を立てる習慣の意味がここにある。
埋葬にはこれに準じたのは世界に共通している。
卍は回転するので、丸い円形としても、古代より、残して続けています。

代表する形は古代ドラピタ、インドアッサラ地方にも、山岳民で知られる、独特の暮らしの、有り方に通じる狩猟、時の儀式にも見られる。
(魂送りの生け贄の儀式である)これが信仰宗教の起こりである。
丸い円形のトーテムとして用いたのは民族のすべてに見られ、生活は定着していなく移動しながらの習慣があり、定住しないので、危険から守る為に、竪穴を掘って、周りに環濠を築いたのに特徴がある。

写真は古代ドラピタ、インドアッサラ地方の遺蹟

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神仏紋章の違いがある神社と寺社は別

このように、根源を無視している現代は、天皇神との関係からだと、しているのは、思い違いである。
このように紋章は姓名のように、歴史文化風習の事を表わしている。
これは民族の流れと、歴史を知る上で欠かせないものである。
融合しあるいは唯一の自由に進んだのも歴史である。
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# by kouhoka | 2008-07-20 08:59 | 神仏紋章とは

縄文と弥生の年代

縄文とは土器から付けられた近代の年代であるが、とう児島宮歴研会では、こうなづけた。

原始時代一期

とし、原始とは、未開発という意味である。事から原始初期
この時期ははっきり記録が古代中国にも相似していて、
それは夏王朝の終焉後に、
原始生活のところから、原始民とか、夷人とか、いの音が頭につく、殷民或は、
殷王朝で知られる民族の時代を相して、原始生活&環濠集落の倭族の、習性が引き継がれたのでその特徴から、殷王朝が分裂して、
周国に敗れて、敗退し、世界に散らばった民のうち、
流れ着いたのがこの国土日本東北で、
彼等の事を、土器の形に縄模様がある事から、縄文時代としている。
ここに別に分かれた民族の事を、周国と縄文国と名づけた。
互いに共通する民族ではあるが、
殷王朝から渡海して流れ着いた紀元前三千年前の夷国に住む夷人或は習性を引き継ぐ、ところから、土器から付けられた縄文国時代とする。
ここでは農耕はまだ未開発であった。
ここに別に分かれた民族の事を、周国時代とも、殷末、周初の紀元前11世紀は、ちょうど殷代の末期で、殷国(商国)の紂王末期

今から約3000年前、中国の王朝「周」国 禹王の司馬職をしていた家系
太公望呂尚【本名:姜子牙(釣りの名人として有名)】は、周の文王を助け、当時の殷王朝を滅ぼし、周王朝創建
文王(ぶんおう、? - 紀元前11世紀ごろ)は中国周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。季歴の子。周王朝の創始者である武王の父にあたる。
【周の文王】. 部落「周」最後の長である文王(昌)
貴族の恨みをかっていることを見て取り、その貴族達に支持されるであろう公約を締結して、周囲の 部落や国の間でその威信を固めた。周の文王・武王は必要以上に善王とされています。

父である季歴の死後周の地を受け継いだ
古公亶父ー季歴に殷から嫁を迎え、殷の血筋の孫・姫昌(文王)が産まれた。
文王の息子武王姓は姫。名は発。初代周王ー成王姓は姫。名は。2代周王ー成王の息子康王ー康王の息子昭王ー昭王の息子穆王ー穆王の息子共王ー共王の息子懿王ー懿王の息子夷王ー夷王の息子ー厲王

古公亶父ー季歴の兄である長男・太伯(呉国を立てる)と次男・虞仲
姓は姫。名は太伯太伯の子孫はのちに「呉」の国を建てた前身にイレズミをほどこしザンバラ髪となり(文身断髪)、野蛮人の姿をしていた。
古公亶父ー姓は姫。名は虞仲。仲というのは次男という意味。ぐちゅう。

昌と同じく三公の一人、鄂崇禹が残酷な殺された
文王は太公望呂尚を軍師に迎え
死後息子の武王が文王の積み上げた物を基盤として商を倒し、周王朝を立てた。武王は姫昌に対し文王と追号した。

前十一世紀、殷の紂王は東夷の富と奴隷を手にしようと東の山東方面へ遠征に出かけた。
この時、火の徳をそなえた周の文王(季歴)、その児・武王(昌)は先王の遺志を継ぐや商を倒し、周王朝を立てた。
武王は、殷を平定した

太公望(呂尚)は、東海のほとりの人です。
その先祖は、四獄(地方を治める長官)となって、禹を輔佐して、大きな功績を残した。
太公望は、そんな氏族の末裔で、本姓は姜氏で呂氏を姓として用いました。太公望に営丘周辺(斉)を領地として与えました。


周の成王が若くして即位すると、管叔と蔡叔が反乱を起こし、淮河周辺の異民族も周にそむきました。成王は、召公を通じて太公望に、こう命じ他国を征伐する権限を獲得し、大国となる

『史記』世家・呉太伯に以下のような記述がある。
 呉太伯、太伯弟仲雍、皆周太王之子、而王季歴之兄也。季歴賢、而有聖子昌、太王欲立季歴以及昌、於是太佰?仲雍二人乃・荊蠻、文身斷髮、示不可用、以避季歴。季歴果立、是為王季、而昌為文王。太伯之・荊蠻、自號句呉。荊蠻義之、從而歸之千餘家、立為呉太伯。

江蘇省南部や浙江省北部のあたりと倭民祖

呉は闔廬、夫差の時代に栄華を極めたが、越(句践)に攻め入られ滅亡した。
闔廬後裔後の倭民となる、紀元前秦始皇帝時除副渡来し、倭国を建てる。
周王朝二期

原始時代二期

とう児島宮歴研会では、こうなづけた。原始とは、未開発という意味である事から、原始晩期

弥生筑紫国時代

夏王朝二期(シュメール民三期)祖禹王
越(句践)と夏王朝は南越国王時、紀元前百十一年渡海し筑紫国に土着弥生(稲作農耕)始まる
筑紫の日向のたちばな、のおとの大木原に、神殿を造る。
とう児島宮歴研会では、こうなづけた。春に種をまく事から、春の弥生から、付けられた。

夏王朝天神
今世紀になってから炭素14年代測定法により、河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡や河南省新密市の新砦遺跡が夏の時代に相当する
夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり顓頊の孫
禹の死後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていないこともあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる

啓の死後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』によれば「国を失った
都(神殿)はやすむら(安邑の会稽)
夏王朝と都(神殿)はやすむら(安邑の会稽)南越王に至る。
相似した日本の筑紫の夜須邑に土着した。ゆえに、夜須の地名の起こりとなる。

帝禹
啓 - 禹の子
太康 - 啓の子
中康 - 太康の弟
相 - 中康の子
少康 - 相の子
予 - 少康の子
槐 - 予の子
芒 - 槐の子
泄 - 芒の子
不降 - 泄の子
扃 - 不降の弟
廑 - 扃の子
孔甲 - 不降の子、廑の従兄弟
皐 - 孔甲の子
発 - 皐の子
桀 - 発の子

中国では2000年から教科書は「夏王朝は実在した」と書き換えられた。
「暴れ川・黄河を制するものが天下を治める」
といわれるように夏王朝の始祖は大洪水を治めた禹(う)である。
運河を作り、稲作を始めた

二里頭第4期以降も、
二里頭遺跡では朝会儀礼や各種器物の製作が継続していた
黄河下流、河南省偃師 (えんし) 県(洛陽東方)
竜山文化晩期→二里頭文化
竜山 (ロンシャン) 文化
「陶爵」と呼ばれる土器(シュメール民)
初歩的な青銅酒器「爵」も発掘夏代すでに二輪車 (戦車?) が使用されていた
夏啓は堯舜禹時代の禅譲制度を廃止し、世襲制度を確立した人物

越(句践)ー南越国王ー児島高徳ー児島宮
(春秋五覇の越王句践)[百越]軒轅氏 浙江越人
龍君是[炎帝神農氏]姜魁隗的曾孫姜明之孫 越南人 越帝國]或[大句越帝國])及年號[太平],真正[中國]皇朝的控制而獨立。呉王夫差或其親族的後裔。
[五代十國]之一的[吳越]開國之君 錢鏐也是越族 祖先來自福建。

越国は句践―与―不寿―翁―翳―之侯―無彊と続いたが、楚に滅ぼされた。
越王一族は海岸沿いを占有して、楚に朝貢
無彊から数えて七代目が東甌王揺
東越は諸侯に属すこととなり共に秦を滅ぼした。
項羽は王侯を任命する際に無諸・揺を王に立てなかった為、東越は項羽に親しまなかった。
劉邦が項羽を撃つと、無諸・揺は東越の兵を率いて漢を助けた。
東越兵は強兵だったらしく、項羽を滅ぼした後の論功行賞で侯に任じられた
無諸・揺が最初に属した君呉は長沙王となった
無諸は越王に任命され、中郡を領地として与えられ冶を都とした。
恵帝三年には揺が東海王に立てられ、東甌を都とした。世間では揺を東甌王と呼んだ。
景帝三年、呉王劉が反乱し、越・東甌に誘いをかけた。
越は従わず、東甌のみが反乱に加担した。
越王に東甌を討つよう、たびたび勧めた。
東甌は武帝に使者を出し危急を告げた。
越人が互いに攻撃しあうのは常
秦の頃から見棄てられた地であり中国には属していない
秦は都・咸陽ですら棄てた、なにも越を棄てただけではない。
小国が助けを求めてきたのに、天子が助けなければ誰が救えばよいのか田を責めた。武帝は、田は共に語るに足りず、と結論
武帝は、厳助を会稽郡に遣わし、東甌救出の為の兵を集め
会稽郡太守は厳助が虎符を持っていなかったので、徴兵を拒否
越は、厳助率いる漢兵が到着する前に兵を引き去った。
東甌王は国を挙げて中国に移住する東甌は無人の地となり、東海国は消滅した。

武帝建元六年、越は南越(香港~ベトナム北部を領有)を攻撃した。
南越は漢の外藩国として漢の武帝に状況を報告し、勝手に出兵をしなかった。
武帝は、これを機に東甌に続き越も片付けてしまおうと考え、王を豫章郡から、韓安国を会稽郡から出撃させた。
越には城郭や邑里がなく、民は渓谷・竹薮の間に住んでいた
越と漢の地は高山で区切られている
、「無諸(劉邦を助けた初代越王)の孫の君・丑だけは謀反に加わらなかった。」とし、丑を越の王にとりたてて越の先祖をまつる祭祀を継がせた。

武帝元鼎五年(紀元前112)南越が反乱
東越王餘善は八千の兵を連れて楼船将軍楊僕の指揮下に入り南越を攻撃したいと申し出た
餘善は海の波風が強いことを理由に軍を留め、南越にも使者を送って二股をかけた。
楊僕は餘善が二股をかけたことを見抜き、東越も討ちたいと上書した。
東越王餘善は、楊僕が自分を誅殺するように上書
東越を滅ぼそうとしていることに焦り、翌秋ついに叛旗を翻した。餘善に奪われていた王居股が、
東越国建成侯であった敖(姓不詳)と謀り餘善を殺し、その兵を率いて漢軍に降した東越は滅亡
弁常ー句践ー東甌と閩(ビン)越とに分かれる  


越王句践ー東甌と閩(ビン)越とに分かれる  

南越王

趙佗は漢高祖の南越王印綬を受け、漢に臣服し、南越国は漢の冊封
体制に組み込まれることとなった。
南越国(なんえつこく、ピンイン ; Nanyue-guo )は紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部(嶺南地方)に自立した王国(帝国)である。南粤とも記す。

最盛期には現在の広東省及び広西壮族自治区の大部分と福建省、湖南省、貴州省、雲南省の一部、ベトナム北部を領有していた。南越国は秦滅亡後、紀元前203年に南海郡の軍事長官である南海郡尉の趙佗が勢力下の南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せて建国された。
南越国の歴代君主が推し進めた「和輯百越」政策は、漢族と南越国内部の各民族間の融和をも促進し、同時に漢文化と漢字が嶺南地方へと移入され、嶺南文化に大きな影響を与えることになる。
紀元前206年に秦が滅亡した後、紀元前203年には桂林郡と象郡を併合し、南越国を建国し、「南越武王」を自称した。

趙佗は呂后が漢内部の郡国で南越と国境を接する長沙国と同盟を結び南越国を併合しようとしていると判断し、漢朝の冊封体制からの離脱を表明して自ら「南越武帝」と皇帝を称し、また長沙国の国境の数県を攻撃している。

南越国内では帝号が依然として使用されていた。
紀元前122年、病に倒れた趙眛は、武帝に対し漢で宿衛を担当していた息子の趙嬰斉の帰国を要請趙嬰斉は王位を継承した。趙嬰斉は入朝以前に、南越で南越人の妻を娶り長子・趙越をもうけていた。その一方長安でも邯鄲樛家の女子を娶り息子の趙興をもうけていた。趙嬰斉が南越の王位を継承した後、武帝に対し樛氏の立后と、趙興の立太子を上奏した。

紀元前115年、趙嬰斉が病死し太子である趙興が王位を継承した。その母親は樛氏の上王太后
。『史記』の記載によれば、樛太后は趙嬰斉に嫁ぐ前、安国少季と私通しており、安国少季が南越に使者として到着すると再び私通を行い、これにより樛太后は南越で信頼を失ったとある。

南越国の丞相である呂嘉はこの時かなりの高齢であったが、趙?、趙嬰斉の代から趙興に至るまで3代にわたって南越王を輔弼し、また宗族も70余人が官職に就き、更に南越王室との婚姻関係をにうおり国内で確固たる地位を確立し、また周囲からも信頼されており、南越国の実質的な権力者であった。呂嘉は漢朝に帰順することを一貫して反対していた。

丞相・呂嘉は趙興(哀王)を殺害した後、趙嬰斉と南越人の妻の間に生まれた長子・趙越の嗣子
趙建徳(哀王の甥)を新しい南越王に立て、並びに使者を派遣して蒼梧郡の秦王趙光(趙侘の族孫)及び南越国の各官員に通達した。

呂嘉と趙建徳は形勢が不利と見るや余韻に紛れて数百名の部下を引き連れて脱出、船に乗り沿海を西方に逃亡した。路博徳は投降した南越人に尋問し、呂嘉と趙建徳が西方に逃亡したと知る

南越国内の民族の大部分は古越族に由来する土着居民であり、これ以外に中原からの数十万の移民が居住していた。古越族には南越、甌越(西甌)、駱越等の支系に分かれていた。南越は広東東北部、中部及び広西東部一帯に、西甌は広西西江の中流地域及び桂江流域とベトナムの地域に、駱越は広西左江、右江流域及びベトナム紅河三角州、貴州西南部に居住していた。

南越国の民族政策は秦朝のものを踏襲し、趙佗も「和輯百越」の民族政策を採用した。これは漢族と越族の間で相互に融合することを目標とした

日本の筑紫の夜須邑に土着

これを示す資料が「多氏(周民族除副一団)古事記」の中に記している。
葦原の茂った中の松峡宮付近の水溜りに、一羽の鷹が羽を休めていた。
このは南越国王のことで、シュメール王の時に、鷹は王の風貌をした造形が、古メソポタミアの資料に見られる。

松峡宮とは間違った解説が町教育委員会で、町民並びに、全国に伝えているが、「朝倉風土記」作者の古賀氏の書いた中から、参照していて、無意味な、解釈である。
あさくら物語を著した  古賀 益城

明治20年12月26日、福岡県竹野郡船越村(現在の久留米市田主丸町)村山左衛太の第7子として生まれして浮羽郡教員養成所に学び、同郡千歳小学校教員(訓導)として初めて教壇に立ち福岡師範学校(福岡市)に進み、明治41年3月同校を卒業明治45年5月、朝倉郡宮野村烏集院(現在の朝倉市烏集院)の旧家古賀家の婿養子となる 大正6年、30歳の若さで中牟田小学校校長に任命 この頃から「益城」の筆名 朝倉郡内の教員同好者と共に朝倉郷土研究会を結成 益城は太平洋戦争が始まった翌年、昭和17年に退職
昭和26年、64歳になった益城は江戸時代朝倉地方115村の郷土誌を総合した「朝倉風土記」、郷土朝倉2千年の歴史を詳細にまとめた このような経過で、実情がわからないままに、夜須町教員は取り上げたのです。


児島宮の実情は全然、知りえていなかったのですから、児島宮の歴史等知る由も、無く、秋月藩祖が、児島宮祭主の先の、宮家甚九郎正成の弟助九郎長興である事や、大善松地名の起こり、も黒田長政が、児島宮参詣時に、家老の栗山から名づけた事さえ、知る由も、なく、相似なく、空想から、書きとめたのが、今日の町の、起こり等、無意味な筋書きが横行している。

宮家について

宮家を許されるのはシュメールの血を受け継ぐ、家のことで、古代中国夏王朝を経て、王のその子孫の一家、で神殿の祭主、言うところの、正統天皇天智桓武、後鳥羽の、家を相して、宮家とする。
天皇にあってはその流れを受けた、男子で、神殿の祭主は、根幹にあたり、ここの宮家の女が、天皇の正室でなければ、代替天皇でしかありません。
宮家の女がこれまでの、天皇の歴史を、受け継いでいました。

ここで代替天皇は何時から、あったのか?

例を挙げれば、天智の弟、天武がこの代替天皇で聖武天皇迄、続いていました。
それを示すのが、天皇ならば、当然神殿の祭主でなければ、なりません?
然し、聖武天皇は仏教派でした。
他には南北朝の足利将軍三代義満にも、児島宮の縁戚の女良子が、見えます。
天皇家にも、児島宮の縁戚の女が同時に、正室となり、ここでは代替天皇となります。
後鳥羽院の後、宮家の女でない、順徳天皇もこれら、代替天皇となります。


松峡宮は、「朝倉風土記」の紙中のような、本質に相対しない、事が書かれています。
児島宮歴研会では、ネットを通じて、発表、して参りました。
それは、これまでの日本では未発表な、資料が参考になっています。
近年では、夏王朝の実在を、梓書院より、出版したのが、中国で眼に留まり、又ネット中で、裏づけが、あった事で、調査されたのが、発見につながったのは?
梓書院より、出版したのが相似したと、言えるのです。

又ここで取り上げた、縄文と弥生の年代も、本日が、発表になります。
今村峯男氏や藤尾純一郎氏もまだ、弥生年代は紀元前五百年より更に、五百年遡るとしていられます。
ここにはその、説明は、考古と相似して、いないのです。
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# by kouhoka | 2008-07-12 18:05 | 縄文と弥生の年代

元々は、宮さんから始まったのが、松囃子 の起源である。

これが明かす、「宮家の習わしは、神と民のつながり」、が根源である。
松囃子起源に見られるように、風習は古代にも行われていたが、能くせない者によって、その云われは書き改められ、たのは今日も同じ流れにも表われる。

「宮家の習わしは、神と民のつながり」、松囃子の あり方との関り。
それは長い間、神社と民の関りであったが、明治以降は風習が変えられている。
どんたくの呼び名になったのにも似ている。

日本人が忘れてはならないもの、は今は失われています。
今ある日本のすべては、明治以降に作りかえられたものです。

ひとの物を横取りして、本家本元と偽る、明治以降の日本は泥棒に等しい。

京都で行われていた松囃子が、博多に持ち込まれたのが始まりとも考えられている。

正月の松囃子は禁止されてしまい、明治12年にオランダ語
のZondag(休日)を変換させて「どんたく」として復活させたのが、今日の「博多
どんたく」と嘯くのは神が許しません、祭主。

松囃子に出ている者は「
どんたく」と「松囃子」を結構区別して見よることが多かです。俺も最近のどんたくの
ありかたはどんなもんかな~と「?」つきです。

民営化や道州制も、古代からの約束事風習を打ち消す狙いが根底にある。
それがまとめて変える事にある。
博多松囃子”は明治時代に禁止されたが、オランダ語の休日を意味するZondagの名を
かり、博多どんたくとして復活したと改訳して宣伝している政府関係の知事。
博多松囃子は5月に行われる「博多どんたく」の起源です。
明治時代もこのスタイルが維持されるが、明治維新後「お金の無駄遣いはダメ!文明開化
にそぐわない!」という理由から山笠とともに一時禁止される。その後一時復活するも
昭和13年を最後に戦前の松囃子は中止そして、呼び名も変えられどんたくになる。
根幹をかえると意味がなくなる。

習わし
舞姫は天冠をかぶり、舞衣を着、 緋の袴をはき、中啓を持ち、地謡、囃子にあわせ
て、優雅な舞いを披露します。

松囃子は、禁中や権門を訪れて祝いを述べ歌舞するもので、必ず仮装による風流を伴っ
たものである。都の風習にならって、府内でも年中行事として行われていた。 大友 宗麟(
そうりん) が、天正2年(1574)7月27日、御城で催した風流踊りは著名である。

つづけることの大切さを松囃子は伝えます。
これがなくては祭りの意味はなくなります。
「松囃子」は、明治時代、一時禁止されていましたが、昭和21年めでたく復活。
この時には福岡県朝倉郡夜須村篠隈に、博多松囃子隊が、宮家から出発するのが習わしとなっています。
宮家参詣して始まっていた。
松囃子は現にこうして連綿と歴史を受け継いでいる。
母体である博多松囃子は
正月15日に福岡藩主への年始の祝意を示し福博の町を練り歩く行事。
松囃子これが幕末までつづいていた。

「松囃子」は萬斎さんのキャラにピタリの曲。水車あり舞ありで芸尽くしの曲でもある
これも類似して、廻し方原形を語っている。
「松囃子」は初春のご祝儀に松囃子を舞いに廻る万歳太郎が、年取り物を送り忘れた兄弟
の家へ行き、舞いでもってそれを気付かせ、最後はめでたく「鞨鼓」や「三段の舞」で舞
納めるます。

江戸時代までの博多松囃子は、福岡城内へ黒田の殿様を表敬する年賀行事として行われてい
ました。福禄寿、恵比須、大黒天の三福神と、稚児が松囃子本体であるとされています。
博多各町、各人が趣向を凝らした出し物で続き、これを「通りもん」と呼び、年を追うごとに盛んになっていきました。これが現在のどんたくの原型であったそうです。

天皇の起源歴史まで変えている明治政府の極悪非道。
このまま見過ごしますか。そしてどんたく続けますか?
今があるのは誰のおかげ?

どんたくの歴史は小正月の松囃子が起源
明治五年新政府下知事によって禁止となり、復活する為に名前をどんたくに変えた。
ここに、新政府と現政府の共通の、破壊型が出ている。

ここに見えるのは原形を民営化と偽り、変えてしまう、事示している。
国の危険を表わしている。
松囃子はこのように、変えると悪いと、表わします。
港まつりとしているが、原形は、松囃子日本の文化から始まったものなのです。

歴史は語る福岡藩2代藩主黒田忠之の命により、中止
されていた博多松囃子は1642年(寛永19年)に再興された。
これはそわない者の時代には不向きを示している。

囃子がなくなったらただの馬鹿騒ぎです。
囃子の大切さを、忘れてはなりません。
それが、何が大切かであって、囃子の語源が、祭りなどに神霊を
分割してくっつけた神木を神社から、そ. ちこちの祭場に運搬するときに奏される 。

かさぼこは、この役目である。
女衆がかぶっている笠はには、意味が込められていた。

人家の門前で音曲を奏し金品を貰う「門付け」や、念仏踊りや
獅子舞の起源である中世芸能の「風流」の一種とも言える。 江戸時代になると、佐久間甚九郎信栄不干斎によって、江戸城
内に正月2日(のちには3日)の夜に大名らを集めておこなう謡初を松囃子と呼ぶように なった。
松囃子では、唱門師や散所などの芸能専業者のみならず村民や町人など各階層の人間が着飾り仮装し、地方においては守護など各地の権力者の邸宅へ参向し、舞や囃子が披露され、祝辞が述べられる。その返礼として禄物が授けられる。

江戸時代になると、江戸城内に正月2日(のちには3日)の夜に大名らを集めておこなう謡初を松囃子と呼ぶようになり、町人にもこの慣わしが広まったとされる。
また博多どんたくの起源である博多松囃子も、松囃子の形態を残している。
「博多松囃子」は、博多商人が年始の祝いを述べ
に領主を表敬した年賀行事。


博多出身の豪商神屋宗湛の日記に、「領主小早川秀秋の結婚祝いに福神恵比寿を正月の
ように仕立てて松囃子を見せた」とあり松囃子はこの時にはもう正月行事として定着し
ていた。
博多だけに受け継がれる松囃子には宮家の松囃子が続く原因で近世に廃止されている。
松囃子には福岡県朝倉郡夜須村篠隈宮家に、博多松囃子隊が、参詣して始まっていた。
この習わしが消えた博多どんたくに、かえられてから。

この習慣が京都から全国各地へと広まったのが起源とされる。

現政府はきげん説の打ち消しにやっきになって、改訳している。
明治政府と同じなのだ。
汚い現われ。

本来のどんたく、本来のルーツは『博多松囃子(はかた まつばやし)』にあります。

囃子は樂奏のことで、拍子の取り方の基本になっています。
囃子の拍子は強弱でなく表間と裏間で構成されている。
祭囃子の拍子
リズムや
スピードなどは 連によって力強くだったり、逆にゆっくりめだったりと いろいろ
個性があります。

拍子(ひょうし)とは一般には、拍や拍の連なりのこと。
日本では「三三七拍子」という
囃子の太鼓は、天、 テテ、 ステ、 ツク「打たない」、
の4つの音の組み合わせです。

はやくなりやすい打ち方に「流しバチ」という名称の奏法
右手だけで連続して打つ天・天・天・天 


獅子頭打ち込み
テケ天天天天天天テケ天天スケ天天と早間で打つ
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# by kouhoka | 2008-05-05 21:38 | 松囃子と宮家児島

円形は霊を表わしたもの巴形銅器と七支刀の倭人

筒型青銅器や巴形銅器など 倭から持ち込まれたと推定できる
 香川県さぬき市の森広遺跡で明治時代に出土した巴形(ともえがた)銅器3点が、福岡県春日市の九州大筑紫地区遺跡群で平成10年に出土した弥生時代後期(2世紀)の石製の鋳型で鋳造されていたことが分かり、九州大埋蔵文化財調査室が17日、発表した。ニュースのトピックス:歴史・考古学

弥生時代後期(2世紀)の石製の鋳型で鋳造されていたことが分かり、九州大埋蔵文化財調査室が17日、発表した。3点の巴形銅器が鋳型と一致したことから、同じ鋳型で3回以上青銅器を鋳造したことが確認できた。

このほか、巴形銅器が出土した国内遺蹟
佐賀県唐津市桜馬場遺跡出土弥生時代後期
こりれらは有力な首長墓か?
われるその形の原型はスイジガイ「水字貝。
吉野ヶ里巴形銅器が出土した
これらの巴形銅器は何を意味し表わしているのか?たいていは、空論にすぎなく、このまま、こまねいて、いれば、真実は、弥生年代のように、空論になるだろう。
弥生年代については、歴博の今村峯男氏や藤尾純一郎氏などは、紀元前一千年前だと、して、皆是に習っていた。
然し今は著者児島宮歴研会の公表どおり、後期は起源二百年と、していて、何の著作の説明もしないで、取り上げているのは、無視できない。
ここにあえて、危険な発想ばかり許していては、同じ二の舞を踏みかねないと、

察知して、スイジガイ説や太陽説は、空論であると、指摘する、児島宮歴研会

これらの巴形銅器は何を意味し表わしているのか?

概ねこの、公表は児島宮歴研会が、五年ほど前に、公表していて、画像で説明したとおりである。
これは、この国のなりたち、が関っています、先住民は誰なのか、そして、その民族とは、原始民である事は知られていたが、その特徴までは、解明にいたっていなかった?
それが空想的な空論になっている事からも、判る。

それは解釈の仕方に誤りがあるから、空論になるのです。
ここが、すべてのものの考え方、が大切な事ですが、これが出来なくては、意味価値すらないでしょう。

すべてのものには、基礎というものから、成り立ちます、この基礎が違えば、類似しません。
基礎というものはどこまでしても、基礎になるので、同じ意味に類似しています。

ですから空論は、基礎とはいえません。
空論は大きな間違いを引き起こします。
空論には基礎がないので、説明は出来ません。

このように、今の日本は、全部が空論の世の中、になっています。
真実という歴史さえないのですから、歴博の今村峯男氏や藤尾純一郎氏などの提言に従ってきたので、何も見えなかったのです。
ここで忘れているものがあります?その事に気がつかないで、その事基礎基準、がないままに、取り上げているマスコミも、皆此れまでは、学説に従ってきていたので、弥生年代は、紀元前一千年前となるはずです。
これでいけば、紀元前一千年前~起源二百年となり、一千二百年弥生が続いたとなるはずです。
これを三等分しても、三期の一期は四百年となり、後期は紀元前二百年前から~起源二百年となりますね?
すると、紀元前二百年前といえば、原始時代となります。
この縄文原始時代には、このような器具やシンボルは、見えていません、見えていれば、正しいとなりますから、弥生と原始は、同じで、なければせなりません?

それは違いますね、違うから空想と言えるのです。

ここで、巴形銅器について、正しい認識が必要となります。
巴形銅器は、何を表わしているのか?という事になります。
今云われているのは空論ですから、ここでは取り上げません。
始めが大切なのです、何事も、
巴形銅器は何を連想するかに、関っています?云われているのは、太陽の形ですが、これは検討違いです。
それは基本基準ではないので、答えには類似しないでしょう。

公表児島宮歴研会では、倭人の信仰に、あると、しています。
それは倭人の特徴にも類比しています。
そして、世界共通しています、それは円形の丸にあります。
この円形は、信仰では仏に類似していて、キリスト教のイエス様の顔の後ろに、丸い円形を形どっています。
日本の仏様の後背にも、円形が同じように、見えていますね、皆類似しているでしょう。
これは説明の正しさが、類比できるから、真実という訳です。
このような観点から見てみれば、
何を表現しているかの、連想は、容易になるでしょう。

円形と云えば、倭人の生活の特徴にも、丸が現れていますね。
環濠集落もその一つです。
倭の根源はこの丸にあるのです。

ここで巴形銅器の大筋が、見えてきましたね、それが丸です。
この丸の形は何を現しているかは、同じ形をしたものを、比較すれば、だいたいの、事は出てきます。
丸は信仰という事に関っていますね。
この信仰は、ほとんどが仏様を表わしたものとなります。
仏様と云えば、インドが原産地と言われていますね。
秘密はこの丸はインドだったと、なります。
これも元々はイラクのメソポタミアに始まるとされ、児島宮歴研会著作

神仏混合に始まっています。
これが、民族の暮らしの習慣により、切り離して、狩猟生活では、神は信じなく、次第に仏を神にして、しまいました。
西洋も日本も同じようになりました。
それから、丸いがはじまりました。
シンボルというべきか?特徴になりました。
ところで、後背の丸いものとは、仏様では魂の形にしたものと、なったという訳です。
これを他に霊ともいいます。
即ち円形は霊を表わしたものという事でした。

ここに、巴形銅器の大筋が、見えてきましたね、それが丸です。
石上神社に伽耶の国から奉納した七支刀がありますね、たしか、あれも六本の筋みたいなのが、ついていますね、あれも実は、同じような効果があるのです。
刀に霊が付いて、呪いのような効果と、したいたのです。
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# by kouhoka | 2008-04-18 21:16 | 巴形銅器と円形魂

夜須の意味は、天空という意味がふくめられる

夜須といえば、地名が古代の神の成り立ちを、語っている、この夜須ははにやすひこ、の名の神の名も、同じ夜須である。
これは日本の原形でもあり、夜須とは空とか、平山とも、言う事である。
夜須の意味は、天空という意味がふくめられていて、ここに耶麻ともよんでいる。
天空とは、即ち、宇宙天文学と稲作農耕のことを、表わしている。

邪馬台国は何処かでは、足りないものがありますが、それは相手となる対象がないのに、独断で、意味なく、言い続けているだけに、しか過ぎません。
それは本当の意味を知らない為で、邪馬台国の語源は、何を表わしているか?
ここに着目しなければ、真実も見えてこないのです。

概念は意識から始まります、この意識がないと、概念に達することも、出来ないでしょう。
日本人とは、知らない相手と共有できる、世界に稀な、民族でして、ここに、芽生えるのが友好の輪なのです。
現代では、それも明治以降になり、失われています。
良く言われる、世の中が暗いのは、こもりきり、という一人になる習慣になるのは、自己に籠もるから、どうにもならなくなってしまいます。 
品意(品位と品格を備えていること)                                     真意(価値観が一致していること)評価し、選ぶということよりも先行して、人から選ばれ相手の真価を判断する上で必要なものを相手から引き出すことに繋がる。
自分が成長し相手から最善のもの、資質を引き出すことにもなります。               モノを見る目とは、相手とつながりが、ないと、成り立たないという事です。
鑑識とは比べるの語源からきていて、古代の神がはかりに、掛けたことから、きています。
これを角杯といい、日本語独特の相手に伝えるという、物事は一つでは成り立たないという、事を相手に伝えるうつわ、のことです。

物を瞬時に識別(共有と、つながるに、あって、つながりがないと、それは、成り立ちません)考古学でも、同じ事で、今の識別は間違いで、何が間違いか?は、同じ共通する歴史が、ないのに、学者゜が独断で、判断しているからです。

誰が保有しているかに、根底はあるのです。                               鑑識眼指摘されたのは「観察することの重要性」です。
目視による観察が一番だそうです。
頻繁に対象物を観察、肉眼観察なくして分析や処理はあり得ないのです。             考古学では問題意識を持ってモノを見なくなってきているような気がします。

我々が博物館に出かけて、見るという事が出来るのは、博物館というモノの保持者が、見る側と、共有する事により、モノが識別の一歩となって、始めて、見る側と共有する事が出来ています。がこれだけで、モノが識別はできません?識別するには相手がなければ、識別できません。
これは何を示しているかといえば、モノの共有なくしては、物事は成り立たないという、自然観のことです。

モノの共有なくしては、物事は成り立たない
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# by kouhoka | 2008-03-25 07:52 | 夜須遺蹟に何が見える

熊野伊勢の本宮児島宮

熊野伊勢の本宮児島宮にあたるとは?知られていらいが、児島宮といえば、別名頼仁親王とも、呼ばれていて、鎌倉時代の後鳥羽上皇の子息にあたられます。
児島宮が実在するのは、此処一箇所で、福岡県朝倉郡夜須町篠隈前田に、神殿で、あります。


母君は、七条の防門家の女で、

藤原殖子(ふじわら の しょくしまたはたねこ、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日(1228年10月15日))は、高倉天皇の妃。坊門殖子とも。守貞親王(後高倉院)、後鳥羽天皇の生母。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号は七条院。

高倉天皇に召され、典侍に任じられ、第二皇子守貞親王(後高倉院)、第四皇子尊成親王(後鳥羽天皇)を産む。
建久元年(1190年)准三后、ついで女院となり、七条院とも呼ばれる。承久の乱の後も、後堀河天皇(守貞親王の皇子)の祖母として、京都に留まる。

後鳥羽院の生母七条院の里方は藤原氏北家の水無瀬家。

院は隠岐へ行く途中、城南の鳥羽殿
で落飾し、烏帽子姿の俗体を写させそれを生母七条院に贈り、水無瀬宮で一夜を明かした。

後鳥羽院は隠岐に配流の後、水無瀬父子に遺詔(御手印御置文)を残された
御諱(いみな)は尊成(たかなり)

後鳥羽上皇の生母(七条院殖子)の弟の坊門信清
作者:七条院大納言 出典:[新古今和歌集4]402

藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。母は橘家光の娘。室は藤原(持明院)通基の娘、及び平清盛の娘。

従三位、修理大夫、伊予守、因幡守。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門信隆とも記される。

尊瀧院に居られた。その兄宮の頼仁親王こと冷泉宮も、この地に配流され、兄弟一緒に住居された。

承元4年(1210年)、親王宣下。母の姉妹が源実朝の室だった
建保7年(1219年)の実朝横死後は一時後継の征夷大将軍候補に擬せられていた。
承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において死去したとされ、一説には児島高徳の遠祖であるとも伝わる。

岡山県倉敷市にある修験道の寺院五流尊瀧院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫が務めていると伝わる。

後鳥羽院の生母・七条院殖子の弟なので、実朝室と後鳥羽院は従兄弟同士になる。
また、姉妹が後鳥羽、その子の順徳の後宮にそれぞれ二人ずつ入っている。
1204年、実朝の御台所となるべく関東へ下向。12才であった。


千葉介胤綱
千葉氏五代。四代千葉介成胤の子。母は不明。妻は佐々木信綱娘。
一族が後見人になって胤綱を助けた。
三浦義村が先年の和田合戦のとき、従兄である和田義盛に味方すると約束していたにもかかわらず、北条義時に寝返ったことを皮肉ったものであった。義村は何も言えなかった

千葉介胤綱が小侍に着した。この時、胤綱十三歳。

北条義時と後鳥羽上皇との軋轢が次第に大きくなり、ついに承久3(1221)年5月15日、京都守護のひとり伊賀太郎判官大夫光季が、高辻北京極西角の屋敷を後鳥羽上皇方の兵に攻められ、自刃を遂げるといった事件が勃発した(『百錬抄』)。そして5月19日、後鳥羽上皇方は兵を集めて北条義時追討の兵を挙げた。これを「承久の乱」という。

祖先は七条院家から親秀に嫁している。 田原親宏 ( たわらちかひろ) 大友宗麟を支え
た田原氏 (『 耶蘇(やそ)会士 ... 親宏が豊前 筑前の大身と同盟して豊後の王となる準備
をしたというつまりはハビアンとのつながりがあるから、類比する関係。

承久の乱の直後、生母である七条院に送るために藤原信実に描かせたものといわれてい
ます。後鳥羽上皇死後、旧水無瀬殿の地に御影堂が建てられ水無瀬信成・親成父子は隠岐
からおくられた「御手印置文」と修明門(後鳥羽院後宮)から寄進された。

頼仁親王は備後の児島の尊瀧院の於いて、熊野本宮から、同じ神殿を儲けられた。
ここに、後鳥羽上皇からの、熊野本宮並びに伊勢本宮との、拘わりが、頼仁親王に受け継がれた事により、これより、宮家の名が始まり、神社の創建の第一家と、なりました。
この宮家は高徳胤へと、受け継がれました。

高徳胤の宗家は、佐久間家へと、受け継がれました。
佐久間家と申しても、三浦家系の佐久間家も同伴していますが、本流は、近衛助安一家になります。
この胤が佐久間信盛子息、信栄の子息、甚九郎正成に託されました。
ここに、熊野伊勢の本宮の宗家として、児島宮がその本宮に、託されました。



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# by kouhoka | 2008-03-22 14:58 | プログ

広瀬城 西広瀬城 三河 児島高徳 佐久間氏

三宅姓を名のる者は美男美女として知られている、『三宅系譜』では、
「児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)のため興国年間に、現在西加茂郡
猿投町大字東広瀬とよばれる矢作川に臨んだ高さ五十メートル周囲四百メートルの孤
立した天険の地をえらび築城し、その後この西加茂一帯を征圧していた」となってい
て、没落したのは三宅右衛門高清のときとある。
児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)

南北朝内乱期の動向 葦名氏 (桓武平氏三浦氏流)
幕府滅亡後の建武二年(1335)に起きた「中先代の乱」で子の高盛とともに足利尊氏に参加し、鎌倉の片瀬川で戦って討死した。そのため、高盛の弟の直盛が葦名氏の家督を継いだ。
高盛13181335盛員子次郎左衛門. 直盛盛員子盛宗子?三郎左衛門左京若狭遠江瑞林賢秀. 詮盛13561398直盛子会津小太郎右衛門弾正盛詮遠江. 満盛詮盛子
藤原 (勘解由小路) 兼綱 (1315~1381)宮氏は本来藤原姓であったが、祖父の高盛公が源姓に替えた」とある。『平家物語』に出てくる奴可入道西寂は宮氏の先祖である」
高盛は葦名氏に属していたのかも (桓武平氏三浦氏流)かも知れない?
或は葦名式部太輔高盛(盛員男)

三宅氏の勢いは凄まじく、本城はこの広瀬
だが、同じ猿投町大字殿貝津には、高清の弟の三宅清宣(きよのぶ)の伊保城。
 いまはトヨタ自動車で知られる豊田市の梅坪三丁目にある
豊田市の梅坪三丁目にある丘には、高清の伯父の、
「三宅右近太夫光貞の梅坪城」
 そして同じく今の豊田市挙母(ころも)町大字城本町には、三宅高清の義兄にあた
る者の、「挙母城」の、つまり四つの城が三宅氏にはあったのである。
『愛知県史』では、「永禄三年徳川氏に攻められ、城主三宅右衛門尉高貞は討死。城
は陥落しこれより廃墟となる」となっている。
「永禄三年庚申の年こそ徳川家発祥の年」という
神君二郎三郎が深謀をもって、信長を今川義元の本陣へ導いて裏切らせ殺
させた‥‥」という尾張徳川家の所説

松平蔵人元康の姉婿が三宅光貞‥‥そうか、あやつらは義兄弟
われこそは新田義貞の末裔世良田の二郎三郎なり。
「何をか申す。われこそは松平蔵人元康なり。いで、この槍先の錆にしてくれん」
 また槍の柄をたぐって、ひと突きにせんと掛ってくる。
それを二郎三郎は丁々発止と防いでいた
「うぬは誰でありしか‥‥」これには元康も怪訝そうに聞き返した。
 すると二郎三郎は、からから笑ってのけ、
「その昔、宮ガ崎の人質屋敷に居られた頃、和子さまの遊び相手として参上していま
したる者」と、それに答えた。
「ややッ、それでは吾が子竹千代を誘拐し、逐電なしたるは汝なりしか。いざ返せ‥
‥」
うぬら卑怯にも、よくも空から火の玉を落しくさったな‥‥男らしゅう尋常に勝負
せい。かく申すは広瀬の城主三宅右衛門尉高貞なり」と、大音声をはりあげ恨みつら
みをいった。
こりゃ昨夜、火を放ってきた広瀬三宅の兵か」酒井浄賢は
咽喉をならし声を震わせた。

広瀬城主三宅高清
広瀬城は興国5年(1344)、
矢作川を天然の堀として当地の豪族だ. った児島高徳が築城したといわれるが、永禄3
年(1560)時の城主、. 三宅高清が松平元康(家康)に攻められ落城した
11代目の三宅高清が織田方についたため永禄3
年(1550)松平元康(家康)に攻められ落城した 愛知県 (説明板より)
永禄3年、三宅高清が織田方に寝返ったため、松平元康(徳川家康)によって攻められ落城し、三宅氏は松平氏に臣従した。 天正18年、三宅康貞は徳川家康の関東移封に従い、武蔵見賀尻5,000石を領して移封(後に三河田原12,000石)して、東広瀬城は廃城となった。
三宅高清公の息子高貞

東方にそびえる標高108mの山頂に広瀬城はあります。
東西300m、南北150mのこの城は、1344年この地の豪族、児島高徳が築城、その後戦国時代には三宅高清の居城となったが、三宅氏は織田信長についた為、1560年松平元康(家康)は織田方の広瀬、梅坪、挙母の諸城を攻め、広瀬城は落城したそうです。

御船城址築城は応仁の乱で戦功のあった児島右京義明によりなされ、戦国末期の城主は三宅氏である

猿投神社猿投山の麓には猿投神社の本社、山頂付近には東の宮、西の宮が鎮座し、3つの社を総称して猿投三社と言う。南北朝の頃挙母城主中条氏は度々神田を寄付している

猿投山猿投山は標高629m、西三河に

佐久間 殿、三河の国、広瀬城主、三宅様にございます。

信長  三宅殿、面を上げられよ。よくお越しくだされた。

三宅  三宅高清にございます。

信長  佐久間、仔細を申せ。

佐久間 は。三宅殿をはじめ広瀬、梅ヶ坪、挙母の三つの城の三宅氏は、三河武士団として天下にその名がとどろいております。三宅殿は、矢作川をはさんで私の城と接するところにあります。
信長  三宅殿、誤りはないかの。
三宅  すべて佐久間殿の申された通りでございます。
木下  木下藤吉郎と申します。三宅様、信長様は上機嫌のご様子。よろしゅうございますな。
佐久間 こら、猿。出すぎたまねをするではない。
木下  はは。これは申し訳ございません。
三宅の息子 母上。ご心配くださりますな。われわれには、百丁の鉄砲がありまする。そ
して、なによりわれらは三河武士団。おめおめ死んだりはしませんぞ。
元康  それ。攻撃じゃ。松平の力を存分に見せてやれ。
家来3 三宅高貞様、山本様(家来1)討ち死にされました。
三宅  なに、高貞が?おのれ、元康め。
広瀬城は落城しました。三宅高清公の息子高貞様 は自害なされ、妻、娘も捕らえられました。

高清の伯父の、 「三宅右近太夫光貞の梅坪城」 そして同じく今の豊田市挙母(ころも)町大字城本町には、三宅高清の義兄にあた る者の、「挙母城」の、つまり四つの城が三宅氏にはあったのである。
三宅右近太夫光貞の梅坪城と児島高徳の東広瀬城

三河 豊田市 広瀬城 址

東広瀬城

あけち ひでみつ 明智 秀満 1537(天文 6) 1582(天正10. 6.14) ◇安土桃山時代の武将。初名は三宅 ... ヒサマサ)の父、長政(ナガマサ)の祖父。 1516(永正13)近江に小谷(オタニ)城を築いて城主になる。

「岩松八弥」
「天文23年(1554年)に主君暗殺の黒幕が佐久間全孝と知った松平家家老らは憤激し、義元の後盾で広瀬城に攻撃した」「松平軍と結託した御船・東広瀬城主の三宅高貞(右衛門太夫貞保)と三宅光貞(帯刀)らに攻められ、重行はついに居城に火を放ち自尽して果てた」
天文23年11月5日「御船ノ三宅右衛門太夫貞保 同名右近申合 佐久間全孝息長七郎ガ居城三州広瀬ヘ不意ニ取懸ケ乗取リ入城シテ御船ノ郷ヲバ三宅帯刀ニ与ヘ」(巻1 孕石竹千代殿ヲ悪口スル事 并ニ 三宅貞保三州広瀬城ヲ攻メ取ル事)。

東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保

熊野クマノ社シャ(佐久間町サクマチョウ大井オオイ間マ庄ソウ)社殿シャデン造ゾウ立リツ。地頭奥山平三定茂。『静岡県史資料編⑦』


天文13年(1544)8月26日水野下野守信元、今川反し、織田に属す。松平マツダイラ広忠、大と別離。家康3歳。形原松平紀伊守家広の妻も、水野忠政娘なので離縁


永禄3年(1560)20日「広瀬城(豊田トヨダ市シ東ヒガシ広瀬ヒロセ)戦タタカい」 松平元康、広瀬城三宅高清攻める。
永禄3年(1560)25日広瀬城ジョウ三宅ミヤケ右衛門ウエモン大ダイ夫フ高タカ貞サダ、松平元康に攻セめられ落城ラクジョウ討死トウシ。『岡崎市オカザキシ史シ①』
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# by kouhoka | 2008-01-30 18:24 | 三河の三宅氏

秀満と三宅氏の関係は母方を継いだ

明智秀満三宅弥平次、明智左馬助実父:三宅秀朝(?)、義父:明智光秀

三宅 重利 みやけしげとし (三宅藤兵衛)

明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係、三宅重利、山崎の合戦後に細川家に保護される、のちに細川家を辞去し寺沢家に仕え知行三千石、天草の乱では富岡城代として一揆軍と戦い討死した

三宅重利(明智秀満の息子。天草富岡城代。天草四郎率いる一揆軍に敗死。) 細川忠
隆(細川忠興の嫡男。後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となる。)

島原の乱
10月27日には天草でも蜂起し、11月14日に富岡城代の三宅重利を殺した。
1637(寛永14) 天草・島原の乱勃発、城代の三宅重利討ち死に
熊本県苓北町富岡字本丸
重利は山崎の合戦後、細川家に保護される。
その数3万7千にもなり廃城となってた原城址に篭城します! これに対処出来ず自らの
失政を認めずキリシタンの反乱として幕府に救援を求めます!

明智滅亡後ガラシアに従って細川氏に仕官した秀満の子・三宅藤兵衛重利(のち、
寺沢氏に仕え富岡 城主)と、三宅一族(式部大輔綱朝・藤兵衛秀朝・周防守業朝・孫十郎光景・出雲守某))

秀満が三宅を名乗ったのは、母方を継いだものです(母は三河広瀬城主三宅高貞の娘)。秀満は、 秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初は遠山景玄を称しています。

三宅出雲(長閑斎)は、秀満の実父ではなく、叔父(父の末弟明智光廉)で岳父
秀満と三宅氏の関係は母方との関連のほか、姉妹が三宅氏に嫁いでいます。

明智秀満は母方にいり、三宅弥平次を称す。
又天海僧正も、この三宅弥平次である。

ここで三宅系図
母は三河広瀬城主三宅高貞の娘であり、児島高徳の後胤とされる一族である。
三宅新十郎出雲弥平次(明智左馬之助)藤兵衛

三宅藤兵衛重利(のちに寺沢家に移籍して天草富岡城代。天草・島原の乱で討死。)



肥後細川藩侍帳

三宅平太郎 (南東50-1) 出雲 弥平太・秀満(明智左馬之助・光昌) 明智光秀女婿 藤
兵衛・重則(重利 初・与平次) (富岡城代三宅藤兵衛書状写) 1、藤右衛門・重元 人
持衆并組外衆 千五百石 (真源院様御代御侍名附) 千五百石 (真源院様御代御侍免撫 ...

三宅新十郎

1、新兵衛(二男) 御使番衆 七百石 (真源院様御代御侍名附) 
                七百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
                有吉頼母允組 御番頭 七百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                  **  ~ 寛文三年(病死)番頭
              細川光尚公御書出(正保二年)七百石
                  細川綱利公御書出(寛文元年)七百石
    2、新兵衛       延宝元年十二月~延宝六年九月 中小姓頭
                 延宝六年九月~天和弐年(病死)番頭
    3、九郎兵衛(養子 三宅加右衛門子)  
               人持衆并組外衆・金左衛門組 七百石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・平八郎
              細川宣記公御書出(正徳六年)七百石
    4、権兵衛・重房(初・平八郎)
                 正徳元年 ~ 享保元年 中小姓
                 享保元年 ~ 享保九年 留守居番頭
                 享保九年 ~ 享保十四年 番頭
              細川宗孝公御書出(享保十九年)七百石
    5、八郎右衛門(養子 実・白木氏 初・丹弥 新兵衛)
             (1)七百石 御弓廿張頭御中小姓御留守居御番頭 屋敷・山崎
             (2)御町奉行 七百石外百石
                 享保十八年~元文二年 熊本町奉行、寺社奉行兼
              細川重賢公御書出(寛延元年)七百石
    6、平八郎(九郎兵衛)  御物奉行 七百石 宝暦六子八月十一日当役
              知行引渡差紙(寛延二年)七百石
                  知行引渡差紙(貞享三年)七百石
    7、栄喜(養子 伊兵衛)   七百石
              知行引渡差紙(明和六年)七百石
              細川治年公御書出(天明六年)七百石
                  細川斎茲公御書出(天明八年)七百石
    8、八郎右衛門    御物頭列・大頭組 七百石
              細川斎樹公御書出(文化九年)七百石
    9、新兵衛    七百石
              知行引渡差紙(文政五年)七百石
    10、九郎兵衛  須佐美権之允組・御留守居御番方 七百石
              知行引渡差紙(天保九年)七百石
              細川慶順公御書出(万延二年)七百石
    11、新太郎(新兵衛・新十郎) 七百石


■ 三宅勝之進
     左馬之介光昌
     藤兵衛重利
    1、庄之介
    2、善左衛門
    3、勝之進   三百石七勺五才  御小姓役


■ 三宅平次郎
     出雲守
     左馬之介光昌
     藤兵衛重則
    1、藤右衛門重元
    2、伊兵衛   御弓廿張頭・金左衛門組 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、平二郎   三百石 御番方九番 屋敷・京町


○ 三宅(八木)勘三郎  
          (1)供之者・御扈従与也 百六拾二石壱斗壱升弐合三勺四才 (於豊前小倉御侍帳)
          (2)御小姓組衆 百六拾二石壱斗余 (肥後御入国宿割帳)
○ 三宅亀之助(吉左衛門嫡子・午ニ三ツ)  十二番津田治左衛門組 十二人扶持 (御侍帳・元禄五年比カ)


■ 三宅作太郎    御船頭 (南東58-21 船)
    1、清兵衛  拾石二人扶持
    2、五郎兵衛
    3、新助
    4、兵左衛門
    5、兵左衛門
    6、伴助(兵左衛門・夘左衛門)
    7、伊吉(伊三太・伴助)
    8、夘左衛門(五郎左衛門)
    9、作太郎

三宅藤兵衛重利)は寺沢堅高の家臣となり、天草富岡城代であったときに、天草の乱の際
に天草四郎率いる一揆軍に殺されました。
南光坊天海の息子、三宅藤兵衛重利
明智秀満の子三宅重利の嫡子重元の子孫。光尚に召され1500石。
三宅藤右衛門重元
明智左馬助秀満の子で島原乱で討死にした寺沢志摩守家老三宅藤兵衛重利の子。
 自らも千石備頭、乱に当っては天草富岡城に籠城。寛永十九年長岡休無(忠隆)の勧めにより弟新兵衛重長、同右京と共に熊本入り、光尚公召し出し百人扶持。正保二年千五百石。上着座次席定席 の家格にて代々重職を務め明治にいたる。


三淵家・・・細川藤孝の実弟長岡好重の嫡子三淵重政の子孫。忠興に召され3200石。老中。

「遠山の金さん」は明智光秀の同族? ◆遠山左衛門尉景元
寛政5年(1793)~安政2年(1855)
通称金四郎。時代劇で有名な遠山の金さんが江戸北町奉行に任命されたのは天保11年(1840)3月2日。
遠山家は源頼朝の家臣・加藤次景廉が美濃国恵那郡遠山荘の地を与えられ、その長男の景朝が遠山荘にちなんで遠山氏を称して岩村城を築いて祖となり、その子らが三家に分かれ、その内の明智遠山氏が金さんに繋がる。

・岩村遠山氏(本家)
・苗木遠山氏(分家)
・明智遠山氏(分家)―直景(北条早雲に従って退去。以後相模遠山氏)―景行(明智家から光安が入って遺領引継?)―景重(江戸遠山氏)―景好―景晋―景元(金さん)

南光坊天海(実は明智光秀?秀満?)
秀満は、 秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初
は遠山景玄を称しています。


幕末期に活躍した坂本龍馬の生家に伝わる伝承によると、坂本家は明智氏の親類である長宗我部氏を頼って落ち延びた明智秀満の子の末裔とされており、「坂本」は坂本城があった近江坂本に由来するという。
晴豊が秀満の妻に引き合わせた継子の一人が太郎五郎、もう一人が細川家に預けられた三宅藤兵衛重利。

富岡城代三宅重利は明智光秀の娘婿秀満南光坊天海(実は明智光秀?秀満?)の子供

三河広瀬城主三宅高貞
父は第12代明智城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。
東広瀬城 豊田市東広瀬町 伝承では興国5年(1344)児島高徳が築城したといわれる。
三宅 高貞 みやけたかさだ. 三河・広瀬城主、三宅右衛門尉高貞、松平清康に居城を攻められ討たれた。
三河国広瀬城主佐久間全孝が遣わした岩松弥八に暗殺されたともいわれ、あるいは、病没 竹千代は、八歳(六歳四ヶ月)家康
西加茂郡広瀬城主佐久間全孝の謀略により岡崎城で家臣岩松八弥に 刺される。
岩松は加茂郡広瀬城主佐久間九郎左衛門に命ぜられてのもだとも言う
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%C5%B7%B3%A4/detail.html?

三河 広瀬城主佐久間九郎左衛門

1533年佐久間全孝が入る。1549年全孝は
岡崎に刺客岩松八弥(片目の八弥)を送り込み、松平宗家8代広忠は殺害される。1554年佐久間九郎左衛門重行(全孝)の子長七郎居城の時、御船、東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入る。1558年高貞は織田方に寝返り、松平元康に攻められ、1561年の再戦で大敗した。
岩松は加茂郡広瀬城主佐久間九郎左衛門に命ぜられてのもだとも言う(岡崎古記)。
天文十八年(1549)三河・松平広忠、佐久間九郎左衛門に謀殺された

1558年高貞は織田方に寝返り、松平元康に攻められ、1561年の再戦で大敗した。1560年「桶狭間の戦い」の際、佐久間信直は
信長方の善照寺砦を死守し、戦功を挙げている。1576年頃、佐久間信盛も居城したが、その後、信直、甥の正勝は織田信雄に属し、1584年「小牧、長久手の戦い」で蟹江城を護り、軍功を挙げた。
佐久間信直兄広瀬城主佐久間九郎左衛門(全孝)二男佐久間信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間右衛門尉信盛

広瀬城主佐久間九郎左衛門(全孝)ー二男佐久間信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間右衛門尉信盛ー

高徳ー高光ー正綱ー正光ー弥平次ー朝次ー信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間信盛ー信栄と続く児島宮。

明智左馬助秀満は備前三宅氏、児島高徳の血統という名門の出。
旧姓 三宅。光春、弥平次。
光秀の二女(伊丹城主荒木村重の嫡男村安に嫁いだが、村重が信長にそむいたため離別され秀満に再嫁した)
この為佐久間信栄は子息秋月長興に命じ荒木村重女二人を信栄の世話で家臣田代に嫁がせたとある。荒木又兵衛姉二人が嫁いだ。


紫野大徳寺高東院の高徳廟は、細川三淵家家の佐久間信栄の死により殉死した一族の墓が同所高徳廟に、埋葬されている。
後に細川忠興も隣に、石碑が立てられたのは、姻戚からの、ことであろう。



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# by kouhoka | 2008-01-23 14:12

日光東照宮の建築造形方創設者は誰か?

日光東照宮の建築造形方には、見てめずらしい、と感じるものもいれば、そこからつかむ、何かをという、表現がある。
これを、主のみちびき によってなされた事だと、する考えは日本にはただ一人の人物しか、いなかった。桃山時代までは戦国の世の中で、このような、事を言い伝えられた人物や記録した人物も、見えない。

このことは現代でも同じことが言えるでしょう。
この「みちびき」を何も感じないで読んでいるのと、同じことである。
これは人間の能力の測り、が計測できるのか出来ないのかを、表わしているが、明治以降に、これが判る者は学者や有名教授とてわからないでしょう。
神のお導きを、伝えることが出来るのは、この著者だけだろう。
このことを、神の世界では「とうとい」と発言する。
尊いとは、神の世界にしかないと云う、事なのです。
これを伝える事が出来るのを、伝統と言い表します。
自然のおみちびきにさかろうたらいかん。
人類の叡智は、”天使のみちびき”に違いない。

この事から主のみちびき によってなされた事だと、する考えは日本にはただ一人の人物しか、いなかった、となるのです。
物の始まりのこと、同じ事なのです、これで皆さんは、どう、感じられましたか、これくらいの事は、判っていると、答えられる人物が、今の日本にいると思いますか?
これが仮に、それくらいと答えた人は、ではあなたは、天孫は誰かと、尋ねたら、答える事が出来ますか?
これが判るのが、天孫しかいないのです

ここで、日光東照宮の建築造形方を、伝えたのは、いったい、誰だと、思いますか?
それくらい、前から判っていたと、いう人は、何人もいるでしょう、が然し、現実には、それは出来ないのです。
歴史で知られる人物は江戸の創設に名が上がっている人物では、大田道潅や、天海僧正くらいしか、いませんね?

何人もいない、はずです。

では大田道潅はどうでしょう?本当に、「神からの伝言」が託宣されていたのでしょうか?になるのです。
これしかないわけです。
大田道潅に関する書物の中に、先祖の中で、記録されていたか?で判ります。
江戸城を築いて東京の基礎を作ったとされている?

天守閣(天主閣)という言葉が初めて使われたのは織田信長の築いた安土城。
江戸城天守閣は大田道潅が建てた望楼式の櫓建築で、静勝軒と呼ばれ後北条時代もそのまま存在していましたとある?楼閣

が現実に楼閣は、弥生時代に始まっていたのですが、奈良飛鳥、平安時代に於いては、寺社を除いては、見えていません。
それほど、恐れ多いものでした?そこには神の託宣なしでは、出来ない暗黙の世界があったからです。
織田信長の言葉がこれで誰も知っている、吾は神なりと、したことに反復して、殺されたのは、いうまでも有りません。
天罰がくだったという、事になるのです。
この成敗は誰の手によっても?天守閣(天主閣)や日光東照宮の建築にも、答えが出ています。
いまでは、歴史作家堺屋太一も、推理していて、こんなことが言われていますね?犯人探しでは、明智光秀?いや時の天皇か正親町天皇?足利義昭前将軍? 明智家の重臣、斉藤利光の娘が長曾我部元親に嫁いでいる。いや、秀吉?

これはみんな想像が、間違っているといえます。
これを解く鍵は、江戸城を築いて東京の基礎を作ったと同じ、内容解釈になります。

主君に謀殺されるという悲劇が起こったのだ。文明18年(1486) 7月、伊勢原の上杉定正邸に招かれた道灌は、もてなしを受けた後、風呂から上がったところで定正の家臣に殺された。
ここに、はっきり、記録されていますので、後世に誰がが、いいふらしたのでしょう。
大田道潅ではなかった、ことが判りましたね?
ではもう一人の、人物、天海僧正は?
天海僧正」と日光東照宮の建築造形方
天海(てんかい、1536年(天文5年)? - 1643年11月13日(寛永20年10月2日))は、安土
桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧である。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の
ブレーンとして江戸幕府の設立に活躍した政僧。南光坊天海。
三浦氏の一族である芦名氏の出目で、陸奥国に生まれたとされる。
「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。
遺言を天海らに託す。とこれは後世の作者が書いただけのものです。
「三宅輪宝」は、文字通り三河国豊田市の三宅氏の家紋である。家紋は苗字と同じ。


天海という僧が突如、歴史の舞台に登場します。この天海は、それ以前はどこで何をしていた人物なのか全く不明です。とある
春日局と天海?の関係
春日局は、本名「お福」といい、光秀の腹心の部下であった斉藤利三の子である。斉藤利三の妻は光秀の妹。
家康の帰依を受けるようになったのは慶長一四(1609)年のころ
織田信長に焼かれた後の比叡山の復興、川越・喜多院の再興、東照宮の造営、上野・寛永寺の建立などにも深く関わった

11歳の時に出家し、比叡山、三井の園城寺、奈良の興福寺などで学問と修行をおさめ、天台宗の寺院の住職を歴任したあと3代将軍に仕え、108歳の天寿を全うしたと伝えられる。

芦名重盛という殿様に攻め滅ぼされ、この重盛が江戸崎城主になっていた。重盛公は天海僧正という大変偉いお坊さんを連れてきた。天海僧正は慈眼大師ともいわれていた。不思議な力を持っていたので天下人の徳川家康の知恵袋として徳川家に迎えられていた。
 その天海僧正がこの江戸崎へやってきたのだ。天海は重盛公の計らいで不動院の院主(住職)になった。


狩野探幽作という 「天海大僧正画像」ここに出目が出ている?

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天海の生い立ち
漆塗り職人の子として誕生しました。天海が生まれたのは会津(あいづ)高田(今の福島県)で幼名を兵(ひょう)太郎父は舟木(ふなき)氏、母が芦名(あしな)氏の出といわれています。
この頃は、蘆名盛氏の直下に置かれて、塗り師を父はしていた。
ここには、天海が天文学を、受け継いでいた事は、ありえない、この後に、明智光秀の姻戚関係から、明智秀満と名乗る。
ここに佐久間信盛から、明智光秀が率いられて、付いたのが織田信長であった。
当然、この頃も、まだ天文学を、受け継いでいた事は、ありえない、それは武士に引き立てられたからである。
ここに佐久間信盛と、芦名重盛とは、姻戚関係があった。これは三浦氏の一族和田義盛、に関係している。
ここに三宅氏、との関連があり、天海が三宅氏出身だとされている。
これを語るには、明智秀満の過去について、調べるとよい。

父は舟木氏母が芦名
福島県伊達市保原町富沢字向舟木
福島県伊達市保原町富沢向舟木
福島県会津若松市 舟木(ふなき)
     伊達市   向舟木(むこうふなぎ)舟木(ふなぎ)
陸奥国大沼郡の生まれで芦名氏の一族
◆会津若松の南西、高田町。
◆天海は芦名氏の一族である舟木景光の長男として誕生した。(1549年生まれ)
『新編会津風土記』は永禄三年(1560)天台宗・道樹山龍興寺にいり、随風といった。11歳で僧となる。1536ごろ 随風(天海)

二本松氏(にほんまつし)は陸奥国ニ本松城に拠った二本松畠山氏が嫡流、家臣の子孫・船木景光。
二本松氏(にほんまつし)は(1345年)畠山高国と吉良貞家が奥州管領に任ぜられて陸奥国に入った。戦国時代に入っても、周囲の伊達氏や蘆名氏などの有力国人に圧迫された、天文16年(1547年)、二本松畠山氏十四代を継いだ二本松義国の頃には『二本松畠山家、次第に衰微して、ようやく安達半郡、安積半郡を知行せられ、この節、会津の蘆名盛氏の武威輝かしかば、彼の風下にぞ属せられける』と古記録にはある。源姓足利氏の系統


舟木景光
父は二本松畠山氏家臣の子孫・船木景光。母は葦名盛常の娘。陸奥国会津郡高田郷の出身で三浦氏の一族

信玄没後、葦名盛氏の請で黒川城稲荷の別当になる。磨上ヶ原で敗れた葦名義弘と伴に、江戸崎(霞ヶ浦南岸)に移住。
天海が死去したのは寛永二十年(1643)、百十歳
こうしてたどって見ると、どの時期、(天海)が知識を身に付けていたとは、ならない。
ここに、(天海)と関わっていたのが、同じ徳川家康の伽をしていた、佐久間信盛子息、不干斎甚九郎であった。
すべての要因はここにあり、ものの根源は、この佐久間甚九郎にあります。

ここで、神の手縛を表わすものが、伝えられております。相撲甚句は、佐久間甚九郎によって、はじまり、それが甚句の始まりとも言われている。
これは神の祝詞に類する、祭祀で、天文学が判るからです。「甚句は神の九に由来する」
まだまだ他にも、記録されている天文学に関わる、ものは、
佐久間甚九郎が、秀吉の朝鮮征伐の頃に、九州の天草で、日本最初の活版印刷で、「イソップ物語」を本にして、つくりました。ここには童話と神話が、一体となっていることに着目されたい。
勿論、安土城の設計も、佐久間氏以外には、天文学を身に付けた人物は、いなかったとなります。
佐久間甚九郎と天海り先祖は、同じ児島高徳となる要因かも知れない。
明智秀満事天海は、徳川三代家光まで、同じところに、いた事はあまり知られていません。
明智秀満室(元は荒木村重の息子に嫁いでいたが、村重謀反の際に光秀の下に戻された)、嫡男光慶(十五郎)がいる。
明智秀満(?~1582?) 左馬助、三宅弥平次。これが天海

あけち ひでみつ
1537(天文 6)
1582(天正10. 6.14)
◇安土桃山時代の武将。初名は三宅弥平次。明智光秀の弟。
光秀の女婿(妻は細川ガラシャ
の姉)で元は三宅弥平次といい、『明智軍記』では左馬助光春の名
明智弥平次秀満である。秀満は光秀の長女を娶り明智姓を名乗った
秀満は光秀の信任厚い侍大将で、丹波福知山城主となった。
信長を討ち取った後の近江平定の際、先手を務めている。
明智左馬助秀満や明智弥平次秀満等とされる。明智光秀の娘婿である明智秀満(光春)弥平次、旧姓:三宅
明智光秀の妹が、母である家老級斉藤利三の妹は、土佐の長宗我部元親の妻である。
(秀満)の三宅左馬介光昌 「三宅左馬介光昌は弥平次秀満」

妾腹の子、太郎五郎が、いるとある。(土佐坂本家)
維新の英雄の一人、坂本龍馬の実家は「先祖は明智弥平次秀満?。
東照宮のある日光には明智平という地名がある、名を残す?
藤兵衛重利は三宅弥平次の子天草の乱の際に討ち死。

天正10年(1582)6月15日
丹波福智山城主。三宅弥平次(三宅藤兵衛綱朝の実子もしくは養子)、正六位下。
、細川家から移籍して唐津藩主・寺沢堅高の家臣として天草四郎率いる「天草・島原の乱」一揆軍と戦って討死した天草富岡城代・三宅藤兵衛重利はこの明智秀満の子である。また幕末期に活躍した坂本龍馬の生家に伝わる伝承によると、坂本家は明智氏の親類である長宗我部氏を頼って落ち延びた明智秀満の子の末裔とされており、「坂本」は坂本城があった近江坂本に由来するという。
天海が秀満というのは、家紋でわかります。その家紋は、「丸に二つ引き両」と「三宅輪宝」です。前者は足利と同時に遠山の家紋、後者は三宅氏しか用いません。
秀光は最初、遠山景玄、次に母方を継いで三宅弥兵次、さらに光秀の娘婿となってから明智秀満を名乗ったのです。父は、ご存知のように遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘です。弟の利景が旗本遠山の先祖で、金さんの先祖となります。

光安は斉藤義龍が父・斎藤道三に反旗を翻したときに道三側についたため、義龍の軍勢の攻撃を受け、居城・明智城は陥落。
一説によれば、明智光安には光春という子が居たが余計な疑惑を避けるため、三宅氏に養子に出し、これが後の明智秀満であるという。
『明智軍記』によると、光安は城中に居た光秀、光安の子の光春、弟・光久の子の光忠らに明智家再興を託して場外に逃れさしている。

土岐頼貞─頼基──頼重──土岐成頼ー頼尚ー明智光継ー光安ー秀満

明智光継
あけち みつつぐ別名:頼典、十兵衛尉
子供:長男…明智光綱、次男…山岸光信、三男 …遠山景行(明智光安)、四男…小里光忠(明智光久)、五男…原頼房、六男…明智光廉(三宅長閑斉)、長女…小見の方、次女…斉藤利賢の妻(後に石谷光政の妻)

明智光綱の弟の光安が後を継いでいる。という事は、姻戚から、あり得る、遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘三宅氏に養子に出し、三宅弥兵次、これが後の明智秀満であるという。以後三宅弥兵次を名乗る。
ここより、遠山景行(明智光安)が妻の、里三河広瀬城主三宅高貞から、嫁いできていた事から、児島氏と姻戚が始まっている。

三河広瀬城主三宅高貞
父は第12代明智城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。

http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=203
秀満は、 秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初
は遠山景玄を称しています。
秀満と三宅氏の関係は母方との関連のほか、姉妹が三宅氏に嫁いでいます。現在の明智町の三宅氏はこの系 統です。
三宅出雲(長閑斎)は、秀満の実父ではなく、叔父(父の末弟明智光廉)で岳父です。光秀の長女、次女は、
実際には三宅長閑斎の娘です。このことは、喜多村家に伝わった「明智系図」と『美濃国諸旧記』を見比 べればすぐにわかります。

東広瀬城 豊田市東広瀬町 伝承では興国5年(1344)児島高徳が築城したといわれる。

松平久子の娘(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いでいる。利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智秀満である松平七代清康(家康の祖父)の妹・久子の墓がある。
久子は、家康が生母於大と生別して以来、家康を養育した人。
明智秀満と遠山利景の兄弟の父は、明知城主遠山景行、母は三河の広瀬城主三宅高貞の娘である。



三宅 高貞 みやけたかさだ. 三河・広瀬城主、三宅右衛門尉高貞、松平清康に居城を攻め
られ討たれた.

三宅 重利 みやけしげとし (三宅藤兵衛)

明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係、三宅重利、山崎の合戦後に細川家に保護される、のちに細川家を辞去し寺沢家に仕え知行三千石、天草の乱では富岡城代として一揆軍と戦い討死した




天正八年(1580年)頃本能寺の変に際しては本能寺に織田信長を攻める。


今の皇室の天皇や美智子さんは、この事をわかっていたかも、鍵になります?

「神からの伝言」が託宣されていた、人物が天孫の証拠です。
ここに、神の手縛の歴史があるのです。
ここで、現代の相撲は、誰が開いたのでしょうか?これと、日光東照宮の建築造形方創設と、同じ、事が言えるのです。
「おおそれおそい、事をしてはならぬ」

これを破る現代社会は、どんどん奈落の底へ、落ちているのです。
現代で起きている、ことば、の伝達や聞き取り方が出来なくなったと言われているのも、これが、示しているのです、それは神への反感が根深いことを、表わしています。



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# by kouhoka | 2007-12-23 08:42