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神武宮殿の屋根に、模様は、雲巻き模様といい、イラクメソポタミアの王の頭上にも、同じ、てんのう、を表す

奈良田原唐子鍵遺跡から出土した土器に、先刻されていた神武宮殿の屋根に、模様は、雲巻き模様といい、イラクメソポタミアの王の頭上にも、同じ、てんのう、を表す、雲巻き模様が、描かれていると、福岡朝倉夜須の児島宮考古学研究会が、発表した。
このてんのう、を表す、雲巻き模様は、夏王朝の無予裔、越王無渚の宮殿の軒丸瓦当てにも、2014年、福建省屏山の治城からも、その末裔武夷城村の越王丑宮殿、からも、出土していて、てんのう、天から、下りたと、形象した、福岡朝倉夜須下高場田屋の裏から出土していた、象之布江とは、丑天皇を、表していた事が、判明した。
イラクメソポタミアの王は今から八千年前頃で、日本とはまだ関係がなかった。
日本は、夏王朝の、今から五千年前に、始まったとされていて、
その十五代の桀王で、王朝を失っていた。
この夏王朝桀王を倒した 紀元前1046年は、後、殷と呼ばれた北方狩猟民族であった。
この頃、日本はまだ誕生してはいなかったので、この時期は無関係である。

日本人はメソポタミアからやっては来てはいないのである。

殷はの農耕民族で無かったので、
殷墟のある洹水のすぐ北に、殷中期の都城の遺跡が発見されている。殷中期に至っても文字資料はほとんど全く出土していない。

30.帝辛(紂王)まで五百年続いていた、殷の一族周の王の室は、越王無予の系の女で、その子次男が、武王で、あった。
殷の紂王に仕えていた、民は、日本になる千年前に移ってきていた、縄文人と言われた民の事である。
ポリネシャや南米に、移ったとも、されていると発表したのは児島宮である。これらはインデアンとなったとも、いう。

これより春秋戦国時代となり、武王の息子↧人はそれぞれの国に配置されていた。
五百年前の時期、呉国の王が、夫差といい、太伯の後とされていた。
呉国と越国は、近くにあって、互いに争っていたという。

この頃はまだ日本は始まっていなかった、ので、関係がありませんでした。

こののち、越国は、勾践の娘が嫁いだ楚国から、倒され、小さくなりました。秦の始皇帝の時に、越は、王として存続されていたと記録されています。この時越国は、東王国と呼ばれていたようです。
この頃の楚は、項羽に乗っ取られていました。

この時期も日本はありませんでした。

紀元前二百年前、楚の項羽と、劉邦が争っていた時、浙江省の越王無渚は、農民を助け、そして、劉邦も助けて、浙江省の越王無渚は平山県の屏山に治城を造り、その城に、はじめて、軒丸瓦当が、用いていました。その軒丸瓦当には、てんのう、の雲巻き模様が、二年前発見され、昨年暮れに、亀岡の持ち主から、手に入れたのが、なんと、神武の宮殿の、てんのう雲巻き瓦当て、という事が判明しました。

これがその越王無渚は平山県の屏山に治城の瓦当て雲巻き模様と武夷山城村宮殿は右越王丑で、此れが日本の、始まりになって、筑紫夜須から東征の神武の宮殿の屋根上のてんのう雲巻き模様と、手に入れた軒丸瓦当て模様が、一致したので、神武の宮殿しか、使って、いないでしょう。
それは屋根上の模様と天皇が一致したからです。

      
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楚の住民は秦の労役を逃れ、朝鮮の燕の国に逃げて、住んでいたようです。それが玉依姫の里です。
後にウガヤ丑王の長男は家来と共に、母の里へ、いって、その土地の王となっています。後の新羅です。
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by kouhoka | 2016-02-16 17:53