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夜須の小隈窯は紀元前70年前

夜須の小隈窯は紀元前70年前
裏付けはトルコ石の首飾りや金の耳飾りと、硬質土器の三点が出土した。
須恵器は朝鮮半島説とされていたのは、誤りである。
これには朝鮮半島に、神武天皇の兄が、新羅の王になった、事にはじまり、
新羅の王に倭人が就いてきたと記録もある。

朝鮮半島からやってきたのは新羅の王が倭人だったからです。
『三国史記』は、新羅(しらぎ、シルラ)の建国神話を次のように伝えている。紀元前に慶州(けいしゅう、キョンジュ)の山野の間に辰韓(しんかん、チナン)六部と総称される六つの村があった。紀元前69年、六部を率いる長たちが閼川(アツセン)の丘の上に集まって大事な打ち合わせをしていたとき、蘿井(ナヂヨン)の林で馬の嘶くのが聞こえた。六部の村長たちが近寄ってみると、白い馬が1頭、大きな卵をしきりに拝んでいた。

新羅の前身は韓族の斯盧(しろ、サロ)という一小国だった。中国の歴史家・陳寿(233 - 297)が著した『三国志』の中の「魏志」東夷伝によると、3世紀には朝鮮半島南部は馬韓・辰韓・弁韓と呼ばれる三韓がそれぞれ小国の分立状態にあった。

中国の漢の武帝が統治し、
ウガヤ丑王は、その漢の武帝に紀元前111年前に、ふわ、に渡り、斯盧王女を妻にしていた。
夜須の小隈窯は新羅の王の年代と、一致する。
漢の武帝は三韓を握っていたとある。

3世紀には朝鮮半島南部は馬韓・辰韓・弁韓と呼ばれる三韓がそれぞれ小国の分立状態にあった。そのうちの一つである辰韓は十二国で構成され、その一つに斯盧の名が見える。

倭人が出稼ぎに行ったのではなく,新羅地域にも倭人が住んでいて,鉄を掘っていたということです。 ... 新羅王に日本人: 朝鮮半島にも「三国史記」という正史があります。
この証明は児島宮しかできません。

瓠公は夜須原の住人で、天のヒ矛に、就いて渡ったという。

都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
在會稽としたのは、
越王丑が、會稽やす、の元王であった。

紀元前108年、漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、半島中央に楽浪郡など漢四郡を置いて朝鮮半島北部を支配した。

紀元57年、「後漢書」東夷伝に「倭奴(いど)国王は後漢に使者を送り光武帝から印綬(漢委奴國王)を受けた」とある。

斯盧(しろ、サロ)からきていた、豊玉姫と玉依姫。
新羅の前身は韓族の斯盧(しろ、サロ)という一小国
「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」現代韓国語では「サロ」だが、 漢字の上古音では「シラ」である。 ... 年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。

時代は紀元前57年に、斯盧(後の新羅)が朝鮮半島の南東部で前漢から自治権を認められた年に始まったとする。ここにあるように、丑王の子が、新羅王となった。

斯盧国は503年新羅と国号を改めた。4世紀の始めに、新羅は国境を接していた伽耶を吸収したことが知られている。新羅の都は徐羅伐(今日の慶州)であった。

慶州の王冠と夜須の丑王冠が似ているのも、親子だからである。

斯羅は〈三国志〉に見られる“斯盧(サロ)”と〈三国史記〉〈三国遺事〉などに見られる“徐伐( ソボル)”“徐那伐(ソラボル)”から始まり慶州 ... この他にも誕生説話が伝えられている。
このように、斯盧(サロ)天之日矛(日本書紀では天日槍と書く)は丑王の子であり、日本の領土であった。

三国史記には新羅への数千人規模の倭人渡来の記述が見受けられる。
韓国の新羅建国に関わった、釧公という人物がいる。彼は日本人であるとされ、腰にひょうたんをぶら下げて海を渡ってきたから、釧公と呼ばれたという。

韓国国内にて朝鮮民族を韓民族・韓人と呼称するが、これは新羅建国前の韓人とは本質的に別民族である。

新羅建国前の韓人は別種なり。

紀元前後の朝鮮半島は元来、粛慎、?婁、靺鞨、沃沮、倭、?、?貊等、各諸民族の混在地域である。その後、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国される。(注1)また『魏志東夷伝』によると、東アジアからも『陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)』とあり、朝鮮半島は移民・渡来人の受け皿的役割を果たしていた。また隣国、百済・高句麗等の扶余系民族(現在の満族と同系統)も国内に抱えていた。
百済・任那・伽耶・新羅地域においては、倭人特有の前方後円墳等の居住跡が発見にされていることから一定数の倭人が同地に居住していたとされる。また新羅王族の昔氏が倭人とする説もあり、日本による支配を受けていた時代もあることから、新羅の重臣には倭人が多数登用されている。(注2) 更に4世紀後半から6世紀前半にかけては、騎馬民族(匈奴・鮮卑など)の流入もあり、建国から滅亡まで時代により民族構成も変化している。
匈奴・鮮卑も日本と同じ夏人である。

辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。(辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。)
(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。
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by kouhoka | 2013-03-29 20:13 | 夜須小隈窯は日本最古

『児島宮伝記』

『児島宮伝記』

幼名は高丸。幼少の頃より、朝廷政事、殊に皇位継承に至るまで、幕府が干渉することに対して強い反感を抱いていたという。15歳または17歳のときに元服し、児島三郎高徳を称した。

児島高徳が『太平記』記中で、古代中国の事を『礼』として取り上げている。
日本では誰も今でも、証明は取れないでいるのに、
取り上げたのは、
越王勾践が、祖という事を知っていたのである。

「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」

朝廷政事、殊に皇位継承に、こだわったのも、越王が日本の天皇の祖ウガヤと、知っていたのである。
現に亀山天皇より、醐醍醐天皇の後になる事、を、醐醍醐天皇に、亀山天皇より伝えられていたとある。
又、児島高徳は、大覚寺大僧正に、ついており、亡くなった後の戒名でも、晩年は出家し、志純義晴と号した。正式な法名は、志純義晴大徳位。

児島高徳は宮家祖であった、宮家とは、越の宮家の主体の事である。
児島高徳の後は、近衛中将にも続けて、任じている。
今、鬼瓦が、それ越の宮家を証明している。
児島高徳は城を愛知に立てて、その後継が佐久間信盛、という。
もともと佐久間は藤原系や、佐々木とも、つながっている。
佐久間中興の祖が、鎌倉の和田義盛、の子が、児島に婿となり、児島範長に至っている。

石清水八幡家の坊門家、は、紀氏とされ、紀家弘の女の婿になったのが、児島範長で、足利義満と、親戚にあたる。
坊門家、は後鳥羽上皇の時定家で知られる家で、天皇に繋がっていた。

実の天皇家は、宗家で宮家が、その証でもある。
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by kouhoka | 2013-03-25 18:30 | 夜須人の源流