「ほっ」と。キャンペーン

<   2007年 07月 ( 1 )   > この月の画像一覧

夜須人の源流は何処から来たのか? 

夜須人について述べよう。
弥生の名は土器から付けられた名で在るゆえ、ここでは、年代を取り上げてみました。
起源は紀元前200年前の頃、中国では丁度秦時代の頃、秦の始皇帝が除副仮の名で記されていました。
この一団が住み着いたのがここ夜須(この頃はまだ夜須とは呼んでいません、では何とつけていたのか?
皆さんは祝詞のことは、ご存知であろう。この祝詞の中にちゃんと、記憶されていたのです。
何と呼んでいたのか?それは祝詞を見れば、正しく記されていました。
ら豊葦原の国をと、とよあしはらの、国と記していました。
これが二度目の中国からの渡来と同時に、天子の一団が住み着いたのがここ、夜須の地でした。 どうして夜須なのかと、思われるので、ここでは夜須の名の語源について述べておこう。

夜須の名の語源
このやすと発音している源は、天すなわち、宇宙に基点を置いています。七夕で知られる宇宙の、住いが野洲の原としています。是すなわち北斗七星にわし座が、並んでいます。
ここが発起点で、この時点でメソポタミアに神々が現われたのです。
それで神々の住いはこの野洲の原という事です。
これが紀元前3、000年前に中国に移動してきました、これがあの夏王朝の姿なのです。
幾多の長い年月が過ぎて、夏王朝の天子は、この時は会稽の安邑に都を受け継いでいました。
この安邑の語源はというと、
メソポタミアの天子がそのまま、引き継いでいたのは言うまでも、ありません。
ここに天子は都と神々の住い神殿を造りました。これが中国の最初の歴史と言われています。

ここで付けられたのは、神々の住いの野洲の原をそのまま、類比していたのです。
ここに会稽の安邑が起こりました。
すべては類比するという自然の法則に従い、天子はその地を安邑やすむら、としたのです。
凡そ検討が付いてきたと思い、ここ弥生の南越王は豊葦原の国をたいらけく、やすらけく、安
と名づくとしています。
ここに始めて、夜須の名の語源となったというわけです。
それと同時に、夜須の名の語源は神殿に捧げる器を作る黄土土を、はに夜須彦神、と名づけています。

こうしてこの夜須では稲作農耕がはじまったと言うわけです、それに付随しているのが、農耕の祈願する為の祭祀も、はじまったという訳です。
夜須町教育委員会が調査して、これらの出土品土器は、会稽の安邑の土器と類比していたのですが、この理由がわからず、二年前から、児島宮歴研会により論文が公開されて、インターネットを通じて、みんなが知るようになりました。
いまだに夜須町教育委員会は出遅れております、がプログで論文が出てからは、盛んに聞き入れた方々が、プログに載せて説明していますが、根幹がないままて、考古学者はやはり出遅れていますので、まだ実情がつかめていない、となるでしょう。

それは考古学者が知らないのに、外の盛んに聞き入れた方々には、神の定義さえわかっていないでしょう。
最近になり星座や神々の正体が取り上げられてはいるが、どれも盗作したものに、なるでしょう。


c0095642_22142135.gif

[PR]
by kouhoka | 2007-07-21 22:14 | 夜須弥生民族の正体