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甘粛省から甑が出土夜須との関連が裏づけ

古代シルクロードの重要な一部となり、社会と経済が栄えた。

甘粛省は黄河上流域に位置し、古来よりシルクロードに通じる交通の要衝である。
4000年前の大型史前集落遺跡を発見 甘粛省河西回廊に4千年前、高度な農業文明が存在が確認できた。
陶窯9基と精美な陶器、物を焼いたり、あぶったりする「焼コウ(火+考)坑」430カ所余りを発見
その焼成法は硬質土器に酷似したもの。
この土地は古来、ここは長安から西域へ入るための黄河の渡河点、つまりシルクロードの宿駅として栄えてきました。

甘粛省でこのほど、約2800年前
の甑が見つかった



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セットで見つかり筑前夜須との関連が、尚且つ鮮明に浮き上がってきた。


夜須での甑は北部九州でも先駆けて西新遺蹟でも出土していて、稲作が中国からもたらさせられた事も証明された。
筑前夜須の甑を見てみようこれは文化財で最近撮影したものである。


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米などを蒸すために使用された土器。底に穴が開いており、そこから蒸気を取り込み、蒸し器のように使ったと考えられる。
上帝様は、宇宙の主宰者、三界大権の主宰者です。
‘上帝’という言葉は東西文化の神観、世界観、宇宙論の特徴を分け隔てる
帝とは、上帝様の帝、天帝の帝を示します。“天帝が辰方、即ち東方の地に降誕なさる”、という意味です。秋の開闢を強調なさいます
ここでの秋の開闢とは稲の収獲のことです。
次に出てくるのが、火と水のものがたり、夜須では炭焼き長者伝説で、あまり、地元では馴染んでいないが、時期が古代であるゆえ、文化財は知らないようである。
この伝説は、力の事ゆえ、目で確かめられないが、いろんなものに変化している。
稲作では蒸して食べるまでの経過を表わし、ているのが、各地に伝わる長者伝説である。
今は、天と地と人が、開闢する時稲の収獲のことです。
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by kouhoka | 2006-11-04 13:53 | ヒルハタ遺跡

耶麻台の鉄が鋳造されていた

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ヒルハタ遺蹟では主に青銅器や鉄で加工した刀子や鉄刀などが鋳造されていた。この技術は何処からもたらされたのか、気になるところで、これまでチ朝鮮半島とされてきたが、新羅を治めていたのは倭国であり、それ以前から、鋳造技術はすでにイラクに始まり、5000年前に鉄は説かされていたこともあり、それが日本とのかかわりとは、すぐにはならないけれど、鉄で造られたイラクの糸切り鋏と日本の倭鋏の関係から明らかになります。児島歴研会説
糸きり鋏)は日本
独自の伝統的な工芸品です。といわれるが、そうではありません、そんなに
賢くはないのです、素晴らしい日本古来の技術が失われようとしています
新しきものは、破滅へ繋がるとシュメール王の言葉にある。


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ではイラクから直接渡来したといえば、それは無関係である。
それは中国の歴史を経てのことで、
イラクから移動して中国雲南に入ったのは今から5000年前に、黄河流域の稲作が起こったのが、日本との関係の原点の始まりであった。
ここでの稲作と建築法や習性が長く中国の文明を作り上げてきたのは、イラクから移ってきたシュメール人であった。
特に夜須との関連があるのは、この稲作の米を食べる習慣にあり、煮て食べる現代とは少しばかり異なります。
ここ雲南では硬質土器で焼いた器が、メソポタミア技法による、焼成法にあって燃焼率の高い穴窯が、この土器を造る原点であった。メソポタミアでは鉄の鋳造が始まり、火とモノとの関わりがここに、始まり、日本の神々の原点はここにあったのだ。
イラクシュメール人は麦を生産していたので、竈が世界で最初に作られたのも、ここだけである。
竈は日本の神話のみなもとで、火の尊はここからきている。
ここではフイゴがあり、鉄の鋳造には欠かせないものであった。
シュメール人は麦を粉にしてパンを焼いていたのも、竈なくしてはできません。
竈は人間にとり、かかせないもので、風と水も欠かせませんでした、これが日本に渡来した時携えてきたのが神々の始まりと言えるでしょう。
ここに神々として記されていたのが、記紀に記されている。
同じことの繰り返しがあるからこそ、人間は生きてこられたのですから。
途切れていたとしたら、現在はなかったでしょう。これを整合法といいます。
夜須で突然始まったのでもなければ、朝鮮から取り入れたのでありません、それは中国から渡来した紀元前111年前の中国会稽の王南越王その人でありました。
それがこの甑にあり、甑の始まりは雲南の河姆渡(かぼと)という遺跡
黄河文明
雲南省が稲の起源 甑はメソポタミアから持ち込んだ蒸し器
弥生人の王の先祖にあたるのですべてが夜須と同じ要素がある。



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夜須文化財課
縄文時代紀元前1000年前から弥生まで、これらの、習性は何もなかったのです。
それは縄文人と呼ばれる民は、殷の民で、あった為思想感が弥生人とは違い、それは暮らしに見えています。
彼等は狩猟をして暮らしていたので、神はあることにはあるが、それも人間が神でキリスト教と同じ思想感がありました。
それで人形を形作り、儀礼に使っていたので、殷の民だとすぐに判ります。
何故違うのかが、ここにあり、彼等の祖先は、実は
イラクシュメール人ではないのです。
彼等はイラクシュメール人と交易していた祖インドの山岳民族インドラ民でした、後の中国に移動したのは、矢張り同じく、アーリア人に侵略されてから、移ってきたといわれています。
ここに中国の二代民族がはじまりました。
インドラ民は、後の倭人となりました。
一方イラクシュメール人は夏王朝を造り都を造り、ここに中国の文化を広めたのが始まりといわれています。
ここでもシュメール人は名を変えて農耕から夏に関わることから、彼等は夏と呼ばれました。
日本の風習が夏にかかわるのも、こうした長い歴史上をささえて守りとおしてきたから、日本の名の如く、二つの民族から、日本筋の名が出来たのでしょう。
夜須との関係を上げるとしたら、鉄の生産もあるが、何といっても、火と水は欠かせない一つでしょう。
メソポタミアでウル第1王朝(シュメール人)。1927年の
発掘により、王墳がみつかり、殉死者が知られます
メソポタミアで初期農耕と牧畜の開始彩文土器の生産の中心地であったメソ
ポタミア ウバイド系彩文土器

北西シリアの遺跡から出土するウバイド系の土器は、起源地である南イラク
のウバイド土器
器の形や描かれている彩文の図柄などは他の地域では見られないものがある。
この特徴は天文学模様の描かれていることにある。
今を遡ること8000年前。ビールは、古代メソポタミアでシュメール人が大麦
パンを水に溶かして食した(=大麦粥)ことから誕生したと言われています。

古代メソポタミア文明の麦の収穫量は、1粒の麦を播いて20倍
から 80倍の収穫があったといわれている。

そこから米との関係が受け継いできたので、夏時代の道具がここ夜須に、関わっていたのは、火と水で米を蒸してだべる習慣が残るのがお正月の餅つきがその名残なのです。
めでたい時には餅つきが昔はありましたが、現代は西洋の風習に変わっているので、あまり感じなくなってしまいました。
これには勿論竈で鎌に水を入れて蒸すという古代の習わしを、守りとおしていたのですが、、現代はなくなりました。


許諾がしたくない方は、リンクするか種元を参考としてください。
                ☆児島宮刊行会
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by kouhoka | 2006-11-03 17:30 | ヒルハタ遺跡

大木遺跡出土の甕棺線刻画はものがたる

大木遺跡から弥生時代中期のものと見られる日本最古の彩色絵画が発掘.した
福岡県朝倉郡夜須町の大木遺跡出土のかめ棺に描かれた動物や建築物は、弥生中期初めの絵画としては比類ない物語性をにじませている。

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最古級の着色線刻画 夜須町・大木遺跡出土の甕棺 福岡県朝倉郡夜須町教委は七日、同町篠隈の大木遺跡から出土した約二千百年前の弥生時代中期初めのかめ棺に、黒く着色されたシカの絵と家屋などの線刻画を確認した。これまで最古とされる福岡市の吉武高木遺跡から出土したかめ棺のシカの絵とほぼ同時期のもので、同町教委は「弥生の絵画としては最古級。当時稲作に適したこの地に既にクニがあったと思われる」としている。
大木遺跡III 福岡県朝倉郡夜須町大字篠隈所在遺跡調査報告 夜須町文化財調査報告書 第56集
鹿の生態は
角が生えているのはオスだけで、メスにはありません。角は1歳になる頃に生えはじめ、毎年春頃に生えかわります。春-出産、夏-育子、秋-繁殖、冬-雪とのたたかい。
  シカは四季折々に、それぞれの土地で、それぞれの自然と深くかかわって生きて
  いる。
大切なシカを守ることは、種が守られればよい(系統的保
 護)とするのでなく、その種が生態系の中で生きている状態を守る(生態学的保護)
 ことにある。


稲・太陽・鳥の信仰は長江からやってきた
揚子江(長江)下流域から東シナ海を越えて日本列島に伝播した
稲作と太陽・鳥の信仰をもたらした

農耕(水田稲作)儀礼―供犠としての「鹿」の生態は、民俗学の他、歴史的にも重要なところです。

自然のサイクルを古代人は鹿の生態を農耕の暦に重ねてとらえていた。
1年を365日とする太陽暦と同じ周期の暦がこの農耕暦
自然と生命のサイクルである28日を1つのまとまりとした13ヶ月364日に、もう一つの全体である1日を加えた1年365日という
天体観測による方法
自然周期により知ることができる。つまり、自然のサイクルを古代人は鹿の生態を農耕の暦に重ねてとらえていた。
太陰の一連の位相変化(月の満ち欠け)によって簡単に知ることができる。
暦という字は,中国古代の伝説的帝王の黄帝が始めて暦を作ったという「漢書律歴志」
農耕開始の目安とする自然暦として ... として農耕儀礼・稲作儀礼・畑作儀礼となっていった。

農耕から始まる現在の文明はこの鹿の生態を農耕の暦に重ねてとらえていた。
最終的な形の文明への進化に失敗したら文明と人類は悲惨な結末を迎えるかも知れない。
古代人は鹿の肩骨を焼き、ひびの入り方を調べる占いをしていました。
再生と循環の中に身を委ねた。宇宙の生きとし生けるものは、みな平等の価値をもち、その命はともに永劫の再生と循環をくりかえしている。

農耕から始まる鹿の生態起源は今から8000年遡る、イラクのメソポタミアのシュメール王により、開かれた。それはシュメール王が身に付けている手に携える七木と鹿から、天文学との関わりを、見ることが出来る。
世界で最初に文明が開かれたのはここ、メソポタミア国であった。
鹿と農耕のサイクルの暦はこの時に始まったもの。
農耕民は天体の運行と作物の植え付けとを同期させた。
中国伝来の天文学は主に占いと農耕用の暦に使われた。

稲作を中心とする農耕のサイクルは秋の収穫でいったん閉じます。
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by kouhoka | 2006-11-03 14:51 | 大木遺蹟