「ほっ」と。キャンペーン

<   2006年 10月 ( 9 )   > この月の画像一覧

呉人の埋葬方タコシ遺跡

曽根田常円寺裏の「タコシ遺跡」では中期初めの竪穴式住居跡一軒と貯蔵穴8基(第20図)が見つかっており集落の一端が窺える。
夜須町曽根田の「常円寺」の裏にあり基盤整備の工事人から聞いた話しだが役300個の甕棺が認められたと語る。泉組

c0095642_175576.jpg


お墓は、かめ棺墓4基、土抗墓や木棺墓が11基ありました。これは呉人の埋葬方である。

2 甕棺墓; 3 支石墓; 4 石棺墓; 5 木棺墓; 方形周溝墓(方形低墳丘墓)呉人の埋葬方


呉人の埋葬方
木棺墓. 木棺墓(もっかん
ぼ)は、木製の棺を用いる墓である。近畿地方や伊勢湾沿岸部での主流となった。
支石墓(しせきぼ)は、数個の支石の上に天井石を載せる墓である。呉人の埋葬方
木棺墓(もっかんぼ)は、木製の棺を用いる墓である。近畿地方や伊勢湾沿岸部での主流となった。呉人の埋葬方
橿原市の弥生時代
特に弥生時代前期末~後期初頭の甕棺墓(かめかんぼ)、木棺墓(もっかんぼ)は10以上の
群を為し、総数1200基にも及びます。吉武高木遺跡呉人の埋葬方
須久岡本遺跡福岡県春日市の春日丘陵一帯は、弥生時代の遺跡が非常に密集合わせ口甕棺が出土呉人の埋葬方
参考湖南省長沙曹[女巽]墓 長沙王呉氏の夫人 呉人の埋葬方
三雲南小路遺跡甕棺墓璧というのは中国ではひじょうに尊重されたものなので、ガラス製といえども璧が出土今のところ、この一号墓と上の須久岡本D地点甕棺墓に限られている 呉人の埋葬方

原の辻遺跡安国寺前A遺跡・安国寺前B遺跡・鶴田遺跡北部九州系甕棺片・瓦質土器片・無文土器片 朝鮮半島系住人の居住域の可能性・12基の甕棺墓の確認 車出遺跡銅鏃・獣骨・貨泉・方格規矩鏡細形銅剣・石製剣把頭飾・ココヤシ製笛
中国朝鮮産陶磁器・ベトナム系陶磁器呉人の埋葬方 
原・高元・池田大原・原ノ久保B(H9)甕棺墓・濠・溝・竪穴住居跡呉人 不條・高元(H17)呉人
原・高元・石田高原(H16土坑・竪穴住居呉人不條・八反(H15)土坑・甕棺墓呉人
古賀市馬渡・束ヶ浦遺跡弥生時代中期以降の土壙墓・木棺墓・組合せ式木棺墓などが発掘呉人石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ呉人の埋葬方

藤崎遺跡(ふじさき いせき)早良区百道二丁目、藤崎百基を越す甕棺墓地呉人の埋葬方

土井が浜土壕墓呉人の埋葬方
ここでの埋葬のタイプは3つ <石棺墓><配石墓><土壕墓>
大分県地方の弥生社会
日田 玖珠地方や宇佐 安心院(あじむ)地方において 舶載鏡 の破片や 鉄器 を副葬する 石棺(せっかん)墓 や 石蓋土壙墓呉人の埋葬方(せきがいどこうぼ) が出土大野川上 中流域-墓地土器棺墓呉人の埋葬方 が出土千歳村 平石遺跡 では壷棺(つぼかん) と甕棺呉人の埋葬方13基日田 天瀬地域成人甕棺呉人の埋葬方が出土天瀬町 五馬(いつま)大坪遺跡 の調査例が知られている。遺跡の約半分を発掘した結果、弥生時代中期中ごろから後期初頭の 土壙墓 木棺呉人の埋葬方(もっかん)墓 石棺墓系 甕棺呉人の埋葬方など75基の墳墓群が密集宇佐市の 駅館(やっかん)川 東岸台地には、弥生時代前 中期の拠点的集落 野口遺跡 御幡遺跡 樋尻道遺跡 など300基~80基石蓋土壙墓呉人の埋葬方が主体である15基うちの1基に中国後漢代の 内行花文鏡(ないこうかもんきょう) の破片呉人の埋葬方

佐賀市金立丸山遺跡弥生時代前期の墓は、支石墓呉人の埋葬方、甕棺墓呉人の埋葬方、石棺墓ビン民族の埋葬方。などで約130基がある。 このうち支石墓呉人の埋葬方が最も多く、100基以上検出されている。


ビン民族の埋葬方
遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代中期から見られる。ビン民族の埋葬方。
石棺墓(せっかんぼ)は、板石を箱状に組み合わせて棺とする墓である。箱式石棺墓ともいう。ビン民族の埋葬方。
石棺墓は北部九州から中国地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった。ビン民族の埋葬方。
平原周溝墓ビン民族の埋葬方。
平原遺跡では、方形周溝墓三基、円墳二基が見つかった。ビン民族の埋葬方。

石棺墓は四川西北の茂県・ビン川・理県の三県に密集して分布している特殊な墓葬である。

県府鳳儀鎮の羌族博物館で石棺墓

吉野ヶ里遺跡(弥生時代)石棺墓
石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった。
松延吹田周辺は石棺墓が300個確認できた。
八並畑島赤坂でも石棺墓は確認されている。羌族ビン民族の埋葬方。

箱式石棺墓と
もいう。石棺墓は弥生時代前期に、支石墓に伴う形で現れた。石棺墓は北部九州から中国
地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。

堂ノ山箱式石棺墓(どうのやま はこしきせっかんぼ). 東区勝馬もとは3つの墳丘があったと
いう。細形銅剣鋳型(県指定文化財・志賀海神社蔵)の出土地である。羌族ビン民族の埋葬方。

沖縄ではじめて「箱式石棺墓」が発見日本では弥生時代の墓制羌族ビン民族の埋葬方。
阿嘉島の古墳(箱式石棺墓)慶良間諸島羌族ビン民族の埋葬方。

佐賀県東松浦郡呼子町大友遺跡支石墓8基、甕棺墓4基、箱式石棺墓2基などを発見羌族ビン民族の埋葬方。

産島古墳(うぶしまこふん)3基の箱式石棺や人骨・鉄剣などが発見羌族ビン民族の埋葬方。

天草郡倉岳町棚底
宮崎石棺墓群に残る箱式石棺は22基羌族ビン民族の埋葬方。

福江島農耕文化弥生時代の遺構は板石積石棺・箱式石棺であり、支石墓の外観をもつ遺構も存在する。の流入羌族ビン民族の埋葬方。

原の辻遺跡原ノ久保A(H8)竪穴住居跡呉人・濠・溝・甕棺墓呉人・箱式石棺墓ビン民・土壙墓呉人・集石遺構 閨繰遺跡(H10)箱式石棺墓ビン民・甕棺墓呉人・土壙墓呉人
原の久保・大川(H16)土師器・須恵器・陶磁ビン民

山口市白石茶臼山石棺墓群弥生時代終末期から古墳時代前期計9基の箱式石棺が発見ビン民

小郡市大刀洗町甲条神社遺跡甕棺墓呉人(かめかんぼ)・石棺墓ビン民(せっかんぼ)がある
粕屋地域原石棺群13基の箱式石棺墓と1基の石蓋土坑呉人が発掘粕屋地域では多くの箱式石棺墓があったビン民

山口市朝田の丘陵朝田墳墓群発掘調査により、木棺墓6呉人、箱式石棺墓ビン民
13、壷棺墓呉人4、周溝墓呉人(浅い溝を巡らし封土をもたない墓)8、石蓋土壙墓呉人(せきがいどこうぼ=地表面を堀りくぼめて造られた墓穴)8、が確認された。

東脊振村戦場ヶ谷遺跡甕棺墓160基呉人、
土坑墓87基呉人、石棺墓ビン民5基の252基の墓と、 ... この墓地群では、甕棺墓呉人2基、石棺墓ビン民31基、
土坑墓呉人13基が見つかっています。

原石棺群(はるせっかんぐん)は、犬鳴山塊の南側箱式石棺墓ビン民が16基、土を掘り窪めて石で蓋をした石蓋土壙墓呉人が1基確認された。

佐世保高島宮の本は弥生時代の埋葬(まいそう)遺跡その多くは箱式石棺ビン民という埋葬様式を主体として、多数出土している。
下本山岩陰の弥生人骨 四反田遺跡の支石墓呉人

古代西南諸民族
禹之九州西羌伝太古より甘粛・青海地方から四川に向かって南下遷徙し、雲南・貴州、さらには東南アジアへ移動していった古代西南諸民族の移動ルートキョウ・キョウ都古代四川の非漢族『後漢書』南蛮西南夷列伝成都平原の新石器時代後期の遺跡と古「城址」は強い地方色をもっている時期的には中原の竜山文化期に相当する。成都平原では現在知られているうち最古の文化中原でいえば二里頭文化の第四期
中国西南地区の石棺墓は岷江・大渡河・雅?江・金沙江・蘭倉江流域の川西高原及び?西北高原に広く分布する。岷江上流域のものであり、従来の研究では石棺墓群の年代と分期、文化的特徴、族属などが問題となっている。岷江上流域における典型的な石棺墓は、茂県撮箕山石棺墓群・茂?県営盤山墓群・牟托一号石棺墓・茂県城関墓群・理県佳山墓群の5つである。石棺墓群は1~5期に分期され、墓葬年代はそれぞれ春秋前期・戦国早期・戦国中期・戦国晩期・秦~漢初期である。岷江上流域の石棺墓群の早期には甘青地区の馬家窯文化・成都平原の古蜀文化の影響を、戦国期には甘青地区の寺窪文化・巴蜀文化の影響確認される。

中国先秦時期の西南地方一帯には、蜀と羌という2つの比較的大きな族集団が分布
羌は蜀よりも更に広範に分布し、多くの部落が西南から西北地方の各地に広く存していた。
蜀族の来源は?羌系民族と関係蜀族は新石器時代晩期までにはすでに成都平原に蜀王である蚕叢の事跡 古代の?羌系民族先秦時期の蜀族及び蜀国の王室は?羌系民族の出自
戦国秦は黄河流域の諸国に遅れて成長したが、巴蜀と楚の領域を占領楚の故地からは戦国資料が出土 巴蜀から文字資料が出ない
早稲田大学文学部長江流域文化研究所
[PR]
by kouhoka | 2006-10-20 17:31 | タコシ遺跡

三並の鳥巣池「八並窯跡」と夜須の遺蹟の関係

三並の鳥巣池「八並窯跡

c0095642_1651599.jpg


須恵器は、登り笠を用いた環元焔焼成によるネズミ色をした硬質の土器である。
土師器と用途によって使い分けられる
夜須町大字三並「八並遺跡群」とのかかわりがある。
時期は窯周辺から出土した須恵器と比べ、弥生後期270年には認められる。
決め手は象形文字が刻印された須恵器が夜須全体の遺蹟から出土して、竈の出土した時期と比べられ、甑の用途は「梨の木遺蹟」「梶原遺蹟」「城山遺蹟」稲作に起源していて、中国ビン民族の渡来が確認できた。
豊穣祭礼にミニチュア土器と竈の儀礼に使用されたものが「梨の木遺蹟」で確認されている。
これらは須恵器は、登り笠を用いた環元焔焼成による素焼きではあるが硬質土器である。
中には器台も多数松延周辺では確認され、高床式倉庫が確認され、松延堤北側の水辺に柱跡が確認されている、これは未調査。ここにも祭礼が行われたであろう。


これら須恵器と松延遺蹟出土の角杯や爵は用途が中国ビンと認められる。
夜須の遺蹟の時期は甑が全般から出土した事で、稲作開始と天孫降臨すなわち、神々祭礼と倭国に文明が開いた時期と重なる。
特に惣利遺蹟との関係は弥生ビンの用具が随所に見られ、古代夏王朝の用具と酷似している。甑や稲作と木製農具の類似と住まいが高床式建物が之も類似する。

曽根田「宮ノ前遺跡」、三牟田「下町遺跡」、同「ヒルバタ遺跡」等は有機的に結ぼれた弥生時代の後期中ごろから古墳時代初めにかけての拠点的地域であったことは明らかであり、 一つの「クニ」(やす王国)の存在を想定する所以である。
[PR]
by kouhoka | 2006-10-20 16:48 | 鳥巣八並窯

弥生後期夜須の遺蹟

福岡県夜須町ヒルハタ遺跡出土・弥生時代後期,
窯工房は鳥巣窯、 木工房は惣利遺跡、

福岡県朝倉郡夜須町三牟田鍛冶工房はヒルハタ遺跡、ガラス製勾玉銅鏡の鋳型等出土

夜須町大字東小田「中原前遺跡 中広形銅戈

夜須町文字朝日「宮ノ上遺跡」

福岡県朝倉郡夜須町・東小田峯遺跡弥生時代後期のヒルハタ遺跡

吹田(ふきだ)遺跡(夜須町)

福岡県朝倉郡夜須町の大木遺跡の環濠跡から見える土器の廃棄跡現在地JA夜須

福岡県朝倉郡夜須町七板遺跡

夜須町松延三国手遺跡

福岡県夜須町惣利遺跡出土扉 ...

c0095642_1354827.jpg
福岡県夜須町の大木遺跡から弥生時代中期のものと見られる日本最古の彩色絵画が発掘.
[PR]
by kouhoka | 2006-10-20 13:54 | ヒルハタ遺跡

天日鷲神

「古語拾遺」によると、天日鷲は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。
太玉命の孫天富命が、天日鷲の孫(阿波忌部氏系図では由布津主命)を率いて、阿波の国(徳島県)、更に総の国(千葉県)を開拓したとある。阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の義理の兄弟で、天富命と由布津主命の娘は夫婦である。尚、四柱の神とは以下の通りである。
 天日鷲命(アメノヒワシノミコト/阿波国忌部の祖)、
 手置帆負命(テオキホオイノミコト/讃岐国忌部の祖)、
 彦狭知命(ヒコサシリノミコト/紀伊国忌部の祖)、
 櫛明玉命(クシアカルタマノミコト/出雲国忌部の玉作りの祖)

天富命は更に沃穣の地を求め阿波の齋部(いなべ)一族(四国の豪族)を率いて東国(房総今津朝山)に下り、麻穀を播殖したところ良質の麻の産する所と知り、この地を「総の国朝山」と名付け、天日鷲命を守護神として奉祀した。鷲神社

忌部氏の祖、天日鷲命を祖神としているところが各地にある。 ... これは文字どおり麻を栽培することであって、大和から阿波の地に派遣され、国土開発の命をうけた天日鷲命が、この地に麻が豊富に自生していることに目をつけて、麻を栽培する適地としたからであろう。

奈良時代720年の日本書紀神代上第三の一書に「...粟国の忌部の遠祖天日鷲命の作れる木綿(ゆう)を懸けて,忌部首(おびと)の遠祖太玉命に持たせて...」とあり,この天日鷲命の子孫によって阿波を開拓していった事が古語拾遺にある

天日鷲神 (あめのひわしのかみ) ... 天日鷲神は一般にお酉様 として知られ、豊漁、商工業繁栄の守護神として古来郷土の人々の篤い信仰をあつめてまいりました。

天日鷲命(アメノヒワシノミコト)といわれる鳥の神様です。

天日鷲命(あまのひわしのみこと)が弦という楽器を司りその弦の先に鷲が止まったので、世の中を明るくする瑞祥を現す鳥だと大変喜ばれ、天日鷲命は開運 の神 浅草の名所

阿波国を開拓したのは、天太玉命の弟の天日鷲命とされる。
[PR]
by kouhoka | 2006-10-19 15:37

夜須松延早鷹天神

松延に在している早鷹天神社は古代弥生中期を物語る根拠でもある。。
小郡横隈にも早鷹天神社は見えていて、七夕神社として有名である
これも古代弥生中期を物語る根拠で、弥生人と稲作を語る物語として、取り入れたものであった。弥生人と稲作は祭礼ての宇宙天文学での、古代の風習のなごりでもある。
後に日本の各地に移っていったので、早鷹天神社はあちこちに存在する。
その神々は同一のものである。
早鷹天神伝説はいろんな、産物ともかかわっており、世界の文明の創設にも関係している。
夜須のほほ全域の弥生後期の遺蹟には、これらの産物は数を知れない膨大さがある。
これからの夜須児島プログでおいおい紹介していくつもりです。

c0095642_1544798.jpg
これは夜須松延早鷹天神の由来書



ウガヤの時松延の水溜りに鷲が舞い降り、と福本氏の書かれた中にあります。これは古語拾遺にありと載せ、夜須松延には記録にある神社と早鷹天神が祀られています。


【古語、爾伎弖。】令天日鷲神與津咋見神穀木種殖之、以作白和幣。【是木綿也、巳上二物、一夜蕃茂也。】

【古事記上卷】
日子波限建鵜葺草葺不合命、 娶其姨玉依毘賣命生御子名

[PR]
by kouhoka | 2006-10-19 15:21

夜須の由来早鷹伝説

松峡宮(まつのおのみや)(朝倉郡夜須町) とは何処なのか?
この語源を紐解くには、宮とあるのは古代に於いては、神殿の事を意味している。
古代の記録では、ウガヤと早鷹伝説での湿地とは、どのような処を表わしているのか?
その時期の事を思い描けば、定着した住民のことになる、がその訳は農耕が始まったので、食物を求めていく必要がなくなった事に原因している。
すなわち、稲作が始まり其処が湿地田んぼという訳になる。
この場所が問題となるが、話を戻して神殿との関わりから見ていきたい。
稲作と祀りの関係がこの神々を取り込んだ神殿神社の前身の事を話そう、この神々を取り込んだ神殿が謎を解くカギとなる。
古代のビン民族は、生活の物事には必ず神祀りが行われていて、その司が王である。
中国では泰山に、祀られて居たという。
ここでその王は、神殿の中に住んでいたのは、現在の神社の形式で知る事が出来る。
ここに古代のウル王の姿を残された出土品で、見ることが出来る。

c0095642_14235142.jpg


ウル王の姿には背中に羽根があり、これが王の鷹との関係を表わし、『日下部家多氏古事記』に記載されている、ウガヤと鷹の伝説の基になった原本である。

ここで王の住まいは筑紫城とか、平山城とか云われていて、『宋書』の中に記している。
これが日本では、神宮皇后の時に松峡宮に向かったとの記載と同じである。
松峡宮の由来についてだが、松延の老人が語る、砥上山の麗から松延峡(現在松延堤一帯)には、赤松が明治時代迄はあったと語るところから、この松延峡に松峡宮があったとなる。
之を裏付けるのが、宇佐神宮との関わりを持つ作者に親しい小山田徳という、人が語る松延の
筑紫城は松延峡にあるとの、知られていなかった伝説である。
これと、『日下部家多氏古事記』の話は一致している。
これは大きな手がかりである。
[PR]
by kouhoka | 2006-10-19 14:40

夜須の語源

夜須礼祭
桜花と信仰
君がため醸(か)みし待酒 夜須の野に独りや飲まむ。 友無しにして  大友家持
やすらい祭は、「安良居祭」「夜須礼祭」とも書

波迩夜須毘古神(農耕に適した土の神)
北九州夜須の地名と、畿内大和の地名は、共通点が多い。 「やまと」

波迩夜須毘古神と波迩夜須毘売神
大伴家持も、夜須で詠んでいる。


万葉集・4127番

夜須能河波 伊牟可比太知弓
 等之乃古非 氣奈我伎古良河 都麻度比能欲曽

安の川い向ひ立ちて年の恋け長き子らが妻問の夜そ

天のあまのがわ(安の川)に因む。

波迩夜須毘古(ハニヤスビコ)、波迩夜須毘売も楚人の神で、こちらは土師器と土師氏に結びつきます。
楚国歴史封君
禹之九州西羌伝太古より甘粛・青海地方から四川に向かって南下遷徙し、雲南・貴州、さらには東南アジアへ移動していった古代西南諸民族の移動ルートキョウ・キョウ都古代四川の非漢族『後漢書』南蛮西南夷列伝成都平原の新石器時代後期の遺跡と古「城址」は強い地方色をもっている時期的には中原の竜山文化期に相当する。成都平原では現在知られているうち最古の文化中原でいえば二里頭文化の第四期

夜須の語源は古代中国起源前21世紀~16世紀、夏と云う最古の王朝の兎が舜の譲りを受け国都名が安邑としました

波迩夜須毘古神 国之闇戸神. 波迩夜須毘売神  古事記に見られる神の系譜

ここでは語源の由来は神の根源である、古代のメソポタミアに求め委ねなければならない。   神々と農耕の関わりから始まる事は明らかで、モノに宿るとした重なりから、言葉が出来、その音訓が安(夜須)の語源になったものであろう。
土や地名のやすは、(天の川)河に准えた農耕から始まっており、音訓が安(夜須)の語源になったものであろう。
ここでの言葉の夜須の由来は、稲作には水が伴い、土も土器を造る時水は混ぜるものとして、大切なもので、ある事から、ここでの
「やす」とは安心のあんに、音訓しているので、
大切なものとして受け止めていいだろう。

c0095642_10574612.gif

[PR]
by kouhoka | 2006-10-19 10:58

耶麻台は安台若しくは夜須台

ここでの解説の続き
たかあまはら=天空のこと。
天のみなかぬし=太一のこと。
夜須台=天空を見立てたところの事。
耶麻台=天空を見立てたところの事。
安台=天空を見立てたところの事。
倭人自謂太伯之後。》 其後復立耶麻台男王、並受中國爵命。 晉武帝太始初
晉武帝太始初、遣使重譯入貢。 その宗女台与を立て王となす。【魏略に伝わく、倭人は
自ら太伯の後という。
この年、晉の武帝の泰始二年。晉武帝太康元年更名
晉の武帝=司馬
司馬懿=越王家の代々の秘書官職。

司馬懿(しばい、Sima Yi 179年 - 251年8月5日)は中国三国時代に魏に仕えた武将、軍師、政治家で西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。
司馬と除副の関係
職務「司馬」という姓に始まる
 職務についていたから「司馬」という姓を名乗ったの人物が、司馬一族の祖先
司馬遷の家は、はるか古代の周の時代から歴史を司る家
大司馬(だいしば)は、中国の官職の一つで、主に軍事を取り仕切る、現在の役職に例えれば国防長官である。
『司馬法』
法を執ること山の如き司馬穰苴およびその広大深遠な『司馬法』
行司馬 中士 (=両司馬) 海神162 海神159
除副と天子が居たのは伊都?
一大卒に除副の国がある?
除副と天子が居たのは伊都前原平原

司馬職除副は倭国を開いた

王の書記役である司馬氏除副の居る東夷に移りここに,移る
伊都前原平原に耶麻台は開かれたのかといえば、まだ開かれていなかった。
となれば、卑弥呼はどこかになるが?
おそらく、天子に同行したのであろう。
それは卑弥呼は鬼道に使えていたとあるから。
鬼道とは一生の終わりを行う儀式は巫女によって執り行われる
別神を副へ 賜ひて、詔りたまひしく、「此之鏡者、專ら我御魂とし而、吾前を拝くが如く拜き奉れ。卑弥呼
其國人伊都都比古、吾は是國の王なり、吾を除きて復二王なしといひしも、其の人と爲りを見て必ず王に非ざることを知れりといひ、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡の徼より起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く

其地大較在二會稽東治之東一。與二朱崖耳一相近。故其法俗多同。
又有二夷洲及洲一。傳言秦始皇遣二方士徐福一將二童男女數千人一入レ海(中略)所在絶遠。不レ可二往來
日本人のルーツが中国大陸から渡来した人
夜須の語源からついた、安河(七夕妙見菩薩)は越王が名した地名である。
故に邪馬台国は朝倉郡夜須町也。
この場所が天安河原だ。すぐそこで八百万(ヤオ
ロズ)の神々が相談していそうな天の安河原はそんな雰囲気のところです。
天照皇大神が居る天空の太陽は天照皇大神
安河原とは天の川です。
皆が求めても何万年も解らないでしょうよ。
天安河原事対極園也

邪馬台・夜須台・太一は天の中心に位置する北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神と同定される
邪馬台・夜須台・太一著作権


陰陽、万物という宇宙生成論


天上世界における宮殿である紫微宮のなかに位置する星邪馬台
北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神
「天地自然之図」または「天地自然河図」太極(たいち)
天の安河原とは之也。
葦原中国平定の記述は宇宙生成論道のこと。
台とは太一也。


侵害壱出典: フリー百科事典『ウィキペディア
天照大神が太一と連系したなど、何人も日本には居ない。
天の安河原とは之也。
葦原中国平定の記述は宇宙生成論道のこと。
台とは太一也。
天の安河原とは天の川か。
そうなんだー
元々邪馬台国見つけてもなかった訳かなあんだ。
では鷹ってなんですか?
この意味わかりますか
ウル王のシンボルってなんだったですか?
では鷹ってなんですか?
  これは星空のアルタイ☆
この意味わかりますか
つまりアルタイ☆が王に当たるわけ。
ウル王のシンボルってなんだったですか?
  それは鷹でしょう、だから王者。

これて基本中の基本。
夜須の語源について述べてみましょう。
これがヒントですから。
祝詞の中に葦原国をたいらけく、やすらけくとあるのは、
言葉の語源にあり、ことばはそのまま、応用していいでしょう。
これは平常心という言葉にも、なっているのは、その言葉が中心に置かれているのです。
ですから、ここでは、
天空での表現も意味し、地上では人や化身も、地名やご神体が耶麻にも、なりますから、ここでのビン民族の住まいの土地とも、受け取れます。
ビン民族は夏王朝の後裔ですから、融合した弥生倭人も、これに当てはまりますね。
ここでの夜須の語源ですが夜の巣、つまりは夜の星の事を表わしているのが、安の語源ともなります。
神の起こりはこの天空にあって、地の農耕と深くかかわりを持ちます。
でその中で神の形は三角形の取り合わせですから、つまりは、
安や夜須は、☆共通のことばを表わしているのです。
この三角形を古代人は耶麻と音していたので、三輪山のようにご神体として表わされているのです。
ですから、邪馬台三角形は夜須台ともなるのです。
[PR]
by kouhoka | 2006-10-18 23:04

ガラス三片円板壁は、中国では天子からの下賜品

ガラス三片円板壁は、中国では天子からの下賜品

夜須の遺蹟
篠隈「大木遺跡」 北側を曽根田川が西流する。竪穴式住居跡  2軒
   掘立柱建物跡            3棟
   土坑(貯蔵穴を含む)        36基
   祭祀土坑              9基
   不正形土坑   かめ棺墓             104基
   土坑(木棺)墓           八茎
   薄状遺構
 が見つかっている。 七号方形住居跡からは、石包丁(第8図)が出土している。石包丁は一孔のみを穿つもので、このタイプのものとしては、筑紫野市「大島遺跡」の前期の土壌からも出土しており古いものであろう。
東小田「峯遺跡」「沼尻遺跡」では水稲耕作の様子が種籾壷出土により、弥生後期と推定される。



小字名の「峯(みね)」、「坂口(さかぐち)」、「沼尻(ぬまじり)」、「塚本(つかもと)」の各遺跡を包括し、今後東小田「峯追跡」とする

墳丘墓二墓、竪穴式住居跡457軒、甕棺墓(かめかんぼ)532墓をはじめ、弥生時代中期から後期にかけての大規模な集落跡で、出土造物も、膨大な量にのぼっている。
ここでの墳丘墓二墓はビン民族の墓である。甕棺墓(かめかんぼ)が圧倒的に多く倭人の様子が見えている。奴国との境界に位置しており、隣は西小田遺蹟に近い。
時期は弥生時代中期後半代(今から約2000年前)に比定されよう。  この甕棺墓(かめかんぼ)の副葬品(巻頭カラー)は,他者を圧倒し、
  甕棺外から
   鉄戈(か)         ・・・・・・・1口
  甕棺内から
   ガラス壁片円板   ・・・・・・・2個
   内行花文「清白」鏡 ・・・・・・・1面
   内行花文「日光」鏡 ・・・・・・  1面
   鉄剣           ・・・・・・1口
   鉄鑷(しょう)     ・・・・・・ 1個
     (国指定重要文化財名称による)
ガラス三片円板壁は、中国では天子からの下賜品として、また夜光の壁として珍重された。  日本では三遺跡からのみ出土しており、いずれもガラス製品である。それは、「峯遺跡」の他、「王墓」といわれる「三雲遺跡」、「須玖岡本遺跡」の甕棺墓(かめかんぼ)から前漢鏡などとともに出土しており、前漢からもたらされたものである。 夜須町史より


武帝は元封三年(紀元前108年)朝鮮半島に楽浪郡以下四郡を設置した。 これは前漢の出先機関で日本に漢代の文物が流入するのばこの楽浪郡設置以後のこととされている。 中国前漢時代のいわゆる前漢鏡が日本において、甕棺墓(かめかんぼ)等副葬されるのは、弥生時代中期後半代のことであり、これにより年代の上限がほぼ決定できる。
夜須町の東小田「七板遺跡」での竪穴式住居跡からの他は全て墓地からの出土で、時期的には、弥生時代中期後半に中心があり、 一部後期初頭に及ぶ。
「峯遺跡」一号墳丘墓と若干様相を異にする
十号甕棺墓(かめかんぼ)の被葬者の支配する領域は、独立丘陵城山(130.6m)の北、草場川以北、宝満州以東のほぼ現在の夜須町一帯と考えたい。

10号甕棺墓(かめかんぼ)の被葬者はこの地域としては稀有のガラス壁片円板二個、前漢鏡を二面、武器としては鉄戈(か)、鉄剣各一口を保有していた。





c0095642_2240179.jpg

ガラス壁片円板二個




c0095642_22412657.jpg

鷲尾塚から出土した爵













c0095642_22421718.jpg

鷲尾塚から出土した角杯








c0095642_2243444.jpg



白鳥のミニチュア頭部鷲尾塚周辺から出土した。





c0095642_2244984.jpg




ヒルハタ鉄工房から出土のぼうせい鏡






c0095642_22453511.jpg

惣利木製工房出土酒器杯

[PR]
by kouhoka | 2006-10-18 22:46