「ほっ」と。キャンペーン

カテゴリ:縄文と弥生の年代( 1 )

縄文と弥生の年代

縄文とは土器から付けられた近代の年代であるが、とう児島宮歴研会では、こうなづけた。

原始時代一期

とし、原始とは、未開発という意味である。事から原始初期
この時期ははっきり記録が古代中国にも相似していて、
それは夏王朝の終焉後に、
原始生活のところから、原始民とか、夷人とか、いの音が頭につく、殷民或は、
殷王朝で知られる民族の時代を相して、原始生活&環濠集落の倭族の、習性が引き継がれたのでその特徴から、殷王朝が分裂して、
周国に敗れて、敗退し、世界に散らばった民のうち、
流れ着いたのがこの国土日本東北で、
彼等の事を、土器の形に縄模様がある事から、縄文時代としている。
ここに別に分かれた民族の事を、周国と縄文国と名づけた。
互いに共通する民族ではあるが、
殷王朝から渡海して流れ着いた紀元前三千年前の夷国に住む夷人或は習性を引き継ぐ、ところから、土器から付けられた縄文国時代とする。
ここでは農耕はまだ未開発であった。
ここに別に分かれた民族の事を、周国時代とも、殷末、周初の紀元前11世紀は、ちょうど殷代の末期で、殷国(商国)の紂王末期

今から約3000年前、中国の王朝「周」国 禹王の司馬職をしていた家系
太公望呂尚【本名:姜子牙(釣りの名人として有名)】は、周の文王を助け、当時の殷王朝を滅ぼし、周王朝創建
文王(ぶんおう、? - 紀元前11世紀ごろ)は中国周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。季歴の子。周王朝の創始者である武王の父にあたる。
【周の文王】. 部落「周」最後の長である文王(昌)
貴族の恨みをかっていることを見て取り、その貴族達に支持されるであろう公約を締結して、周囲の 部落や国の間でその威信を固めた。周の文王・武王は必要以上に善王とされています。

父である季歴の死後周の地を受け継いだ
古公亶父ー季歴に殷から嫁を迎え、殷の血筋の孫・姫昌(文王)が産まれた。
文王の息子武王姓は姫。名は発。初代周王ー成王姓は姫。名は。2代周王ー成王の息子康王ー康王の息子昭王ー昭王の息子穆王ー穆王の息子共王ー共王の息子懿王ー懿王の息子夷王ー夷王の息子ー厲王

古公亶父ー季歴の兄である長男・太伯(呉国を立てる)と次男・虞仲
姓は姫。名は太伯太伯の子孫はのちに「呉」の国を建てた前身にイレズミをほどこしザンバラ髪となり(文身断髪)、野蛮人の姿をしていた。
古公亶父ー姓は姫。名は虞仲。仲というのは次男という意味。ぐちゅう。

昌と同じく三公の一人、鄂崇禹が残酷な殺された
文王は太公望呂尚を軍師に迎え
死後息子の武王が文王の積み上げた物を基盤として商を倒し、周王朝を立てた。武王は姫昌に対し文王と追号した。

前十一世紀、殷の紂王は東夷の富と奴隷を手にしようと東の山東方面へ遠征に出かけた。
この時、火の徳をそなえた周の文王(季歴)、その児・武王(昌)は先王の遺志を継ぐや商を倒し、周王朝を立てた。
武王は、殷を平定した

太公望(呂尚)は、東海のほとりの人です。
その先祖は、四獄(地方を治める長官)となって、禹を輔佐して、大きな功績を残した。
太公望は、そんな氏族の末裔で、本姓は姜氏で呂氏を姓として用いました。太公望に営丘周辺(斉)を領地として与えました。


周の成王が若くして即位すると、管叔と蔡叔が反乱を起こし、淮河周辺の異民族も周にそむきました。成王は、召公を通じて太公望に、こう命じ他国を征伐する権限を獲得し、大国となる

『史記』世家・呉太伯に以下のような記述がある。
 呉太伯、太伯弟仲雍、皆周太王之子、而王季歴之兄也。季歴賢、而有聖子昌、太王欲立季歴以及昌、於是太佰?仲雍二人乃・荊蠻、文身斷髮、示不可用、以避季歴。季歴果立、是為王季、而昌為文王。太伯之・荊蠻、自號句呉。荊蠻義之、從而歸之千餘家、立為呉太伯。

江蘇省南部や浙江省北部のあたりと倭民祖

呉は闔廬、夫差の時代に栄華を極めたが、越(句践)に攻め入られ滅亡した。
闔廬後裔後の倭民となる、紀元前秦始皇帝時除副渡来し、倭国を建てる。
周王朝二期

原始時代二期

とう児島宮歴研会では、こうなづけた。原始とは、未開発という意味である事から、原始晩期

弥生筑紫国時代

夏王朝二期(シュメール民三期)祖禹王
越(句践)と夏王朝は南越国王時、紀元前百十一年渡海し筑紫国に土着弥生(稲作農耕)始まる
筑紫の日向のたちばな、のおとの大木原に、神殿を造る。
とう児島宮歴研会では、こうなづけた。春に種をまく事から、春の弥生から、付けられた。

夏王朝天神
今世紀になってから炭素14年代測定法により、河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡や河南省新密市の新砦遺跡が夏の時代に相当する
夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり顓頊の孫
禹の死後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていないこともあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる

啓の死後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』によれば「国を失った
都(神殿)はやすむら(安邑の会稽)
夏王朝と都(神殿)はやすむら(安邑の会稽)南越王に至る。
相似した日本の筑紫の夜須邑に土着した。ゆえに、夜須の地名の起こりとなる。

帝禹
啓 - 禹の子
太康 - 啓の子
中康 - 太康の弟
相 - 中康の子
少康 - 相の子
予 - 少康の子
槐 - 予の子
芒 - 槐の子
泄 - 芒の子
不降 - 泄の子
扃 - 不降の弟
廑 - 扃の子
孔甲 - 不降の子、廑の従兄弟
皐 - 孔甲の子
発 - 皐の子
桀 - 発の子

中国では2000年から教科書は「夏王朝は実在した」と書き換えられた。
「暴れ川・黄河を制するものが天下を治める」
といわれるように夏王朝の始祖は大洪水を治めた禹(う)である。
運河を作り、稲作を始めた

二里頭第4期以降も、
二里頭遺跡では朝会儀礼や各種器物の製作が継続していた
黄河下流、河南省偃師 (えんし) 県(洛陽東方)
竜山文化晩期→二里頭文化
竜山 (ロンシャン) 文化
「陶爵」と呼ばれる土器(シュメール民)
初歩的な青銅酒器「爵」も発掘夏代すでに二輪車 (戦車?) が使用されていた
夏啓は堯舜禹時代の禅譲制度を廃止し、世襲制度を確立した人物

越(句践)ー南越国王ー児島高徳ー児島宮
(春秋五覇の越王句践)[百越]軒轅氏 浙江越人
龍君是[炎帝神農氏]姜魁隗的曾孫姜明之孫 越南人 越帝國]或[大句越帝國])及年號[太平],真正[中國]皇朝的控制而獨立。呉王夫差或其親族的後裔。
[五代十國]之一的[吳越]開國之君 錢鏐也是越族 祖先來自福建。

越国は句践―与―不寿―翁―翳―之侯―無彊と続いたが、楚に滅ぼされた。
越王一族は海岸沿いを占有して、楚に朝貢
無彊から数えて七代目が東甌王揺
東越は諸侯に属すこととなり共に秦を滅ぼした。
項羽は王侯を任命する際に無諸・揺を王に立てなかった為、東越は項羽に親しまなかった。
劉邦が項羽を撃つと、無諸・揺は東越の兵を率いて漢を助けた。
東越兵は強兵だったらしく、項羽を滅ぼした後の論功行賞で侯に任じられた
無諸・揺が最初に属した君呉は長沙王となった
無諸は越王に任命され、中郡を領地として与えられ冶を都とした。
恵帝三年には揺が東海王に立てられ、東甌を都とした。世間では揺を東甌王と呼んだ。
景帝三年、呉王劉が反乱し、越・東甌に誘いをかけた。
越は従わず、東甌のみが反乱に加担した。
越王に東甌を討つよう、たびたび勧めた。
東甌は武帝に使者を出し危急を告げた。
越人が互いに攻撃しあうのは常
秦の頃から見棄てられた地であり中国には属していない
秦は都・咸陽ですら棄てた、なにも越を棄てただけではない。
小国が助けを求めてきたのに、天子が助けなければ誰が救えばよいのか田を責めた。武帝は、田は共に語るに足りず、と結論
武帝は、厳助を会稽郡に遣わし、東甌救出の為の兵を集め
会稽郡太守は厳助が虎符を持っていなかったので、徴兵を拒否
越は、厳助率いる漢兵が到着する前に兵を引き去った。
東甌王は国を挙げて中国に移住する東甌は無人の地となり、東海国は消滅した。

武帝建元六年、越は南越(香港~ベトナム北部を領有)を攻撃した。
南越は漢の外藩国として漢の武帝に状況を報告し、勝手に出兵をしなかった。
武帝は、これを機に東甌に続き越も片付けてしまおうと考え、王を豫章郡から、韓安国を会稽郡から出撃させた。
越には城郭や邑里がなく、民は渓谷・竹薮の間に住んでいた
越と漢の地は高山で区切られている
、「無諸(劉邦を助けた初代越王)の孫の君・丑だけは謀反に加わらなかった。」とし、丑を越の王にとりたてて越の先祖をまつる祭祀を継がせた。

武帝元鼎五年(紀元前112)南越が反乱
東越王餘善は八千の兵を連れて楼船将軍楊僕の指揮下に入り南越を攻撃したいと申し出た
餘善は海の波風が強いことを理由に軍を留め、南越にも使者を送って二股をかけた。
楊僕は餘善が二股をかけたことを見抜き、東越も討ちたいと上書した。
東越王餘善は、楊僕が自分を誅殺するように上書
東越を滅ぼそうとしていることに焦り、翌秋ついに叛旗を翻した。餘善に奪われていた王居股が、
東越国建成侯であった敖(姓不詳)と謀り餘善を殺し、その兵を率いて漢軍に降した東越は滅亡
弁常ー句践ー東甌と閩(ビン)越とに分かれる  


越王句践ー東甌と閩(ビン)越とに分かれる  

南越王

趙佗は漢高祖の南越王印綬を受け、漢に臣服し、南越国は漢の冊封
体制に組み込まれることとなった。
南越国(なんえつこく、ピンイン ; Nanyue-guo )は紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部(嶺南地方)に自立した王国(帝国)である。南粤とも記す。

最盛期には現在の広東省及び広西壮族自治区の大部分と福建省、湖南省、貴州省、雲南省の一部、ベトナム北部を領有していた。南越国は秦滅亡後、紀元前203年に南海郡の軍事長官である南海郡尉の趙佗が勢力下の南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せて建国された。
南越国の歴代君主が推し進めた「和輯百越」政策は、漢族と南越国内部の各民族間の融和をも促進し、同時に漢文化と漢字が嶺南地方へと移入され、嶺南文化に大きな影響を与えることになる。
紀元前206年に秦が滅亡した後、紀元前203年には桂林郡と象郡を併合し、南越国を建国し、「南越武王」を自称した。

趙佗は呂后が漢内部の郡国で南越と国境を接する長沙国と同盟を結び南越国を併合しようとしていると判断し、漢朝の冊封体制からの離脱を表明して自ら「南越武帝」と皇帝を称し、また長沙国の国境の数県を攻撃している。

南越国内では帝号が依然として使用されていた。
紀元前122年、病に倒れた趙眛は、武帝に対し漢で宿衛を担当していた息子の趙嬰斉の帰国を要請趙嬰斉は王位を継承した。趙嬰斉は入朝以前に、南越で南越人の妻を娶り長子・趙越をもうけていた。その一方長安でも邯鄲樛家の女子を娶り息子の趙興をもうけていた。趙嬰斉が南越の王位を継承した後、武帝に対し樛氏の立后と、趙興の立太子を上奏した。

紀元前115年、趙嬰斉が病死し太子である趙興が王位を継承した。その母親は樛氏の上王太后
。『史記』の記載によれば、樛太后は趙嬰斉に嫁ぐ前、安国少季と私通しており、安国少季が南越に使者として到着すると再び私通を行い、これにより樛太后は南越で信頼を失ったとある。

南越国の丞相である呂嘉はこの時かなりの高齢であったが、趙?、趙嬰斉の代から趙興に至るまで3代にわたって南越王を輔弼し、また宗族も70余人が官職に就き、更に南越王室との婚姻関係をにうおり国内で確固たる地位を確立し、また周囲からも信頼されており、南越国の実質的な権力者であった。呂嘉は漢朝に帰順することを一貫して反対していた。

丞相・呂嘉は趙興(哀王)を殺害した後、趙嬰斉と南越人の妻の間に生まれた長子・趙越の嗣子
趙建徳(哀王の甥)を新しい南越王に立て、並びに使者を派遣して蒼梧郡の秦王趙光(趙侘の族孫)及び南越国の各官員に通達した。

呂嘉と趙建徳は形勢が不利と見るや余韻に紛れて数百名の部下を引き連れて脱出、船に乗り沿海を西方に逃亡した。路博徳は投降した南越人に尋問し、呂嘉と趙建徳が西方に逃亡したと知る

南越国内の民族の大部分は古越族に由来する土着居民であり、これ以外に中原からの数十万の移民が居住していた。古越族には南越、甌越(西甌)、駱越等の支系に分かれていた。南越は広東東北部、中部及び広西東部一帯に、西甌は広西西江の中流地域及び桂江流域とベトナムの地域に、駱越は広西左江、右江流域及びベトナム紅河三角州、貴州西南部に居住していた。

南越国の民族政策は秦朝のものを踏襲し、趙佗も「和輯百越」の民族政策を採用した。これは漢族と越族の間で相互に融合することを目標とした

日本の筑紫の夜須邑に土着

これを示す資料が「多氏(周民族除副一団)古事記」の中に記している。
葦原の茂った中の松峡宮付近の水溜りに、一羽の鷹が羽を休めていた。
このは南越国王のことで、シュメール王の時に、鷹は王の風貌をした造形が、古メソポタミアの資料に見られる。

松峡宮とは間違った解説が町教育委員会で、町民並びに、全国に伝えているが、「朝倉風土記」作者の古賀氏の書いた中から、参照していて、無意味な、解釈である。
あさくら物語を著した  古賀 益城

明治20年12月26日、福岡県竹野郡船越村(現在の久留米市田主丸町)村山左衛太の第7子として生まれして浮羽郡教員養成所に学び、同郡千歳小学校教員(訓導)として初めて教壇に立ち福岡師範学校(福岡市)に進み、明治41年3月同校を卒業明治45年5月、朝倉郡宮野村烏集院(現在の朝倉市烏集院)の旧家古賀家の婿養子となる 大正6年、30歳の若さで中牟田小学校校長に任命 この頃から「益城」の筆名 朝倉郡内の教員同好者と共に朝倉郷土研究会を結成 益城は太平洋戦争が始まった翌年、昭和17年に退職
昭和26年、64歳になった益城は江戸時代朝倉地方115村の郷土誌を総合した「朝倉風土記」、郷土朝倉2千年の歴史を詳細にまとめた このような経過で、実情がわからないままに、夜須町教員は取り上げたのです。


児島宮の実情は全然、知りえていなかったのですから、児島宮の歴史等知る由も、無く、秋月藩祖が、児島宮祭主の先の、宮家甚九郎正成の弟助九郎長興である事や、大善松地名の起こり、も黒田長政が、児島宮参詣時に、家老の栗山から名づけた事さえ、知る由も、なく、相似なく、空想から、書きとめたのが、今日の町の、起こり等、無意味な筋書きが横行している。

宮家について

宮家を許されるのはシュメールの血を受け継ぐ、家のことで、古代中国夏王朝を経て、王のその子孫の一家、で神殿の祭主、言うところの、正統天皇天智桓武、後鳥羽の、家を相して、宮家とする。
天皇にあってはその流れを受けた、男子で、神殿の祭主は、根幹にあたり、ここの宮家の女が、天皇の正室でなければ、代替天皇でしかありません。
宮家の女がこれまでの、天皇の歴史を、受け継いでいました。

ここで代替天皇は何時から、あったのか?

例を挙げれば、天智の弟、天武がこの代替天皇で聖武天皇迄、続いていました。
それを示すのが、天皇ならば、当然神殿の祭主でなければ、なりません?
然し、聖武天皇は仏教派でした。
他には南北朝の足利将軍三代義満にも、児島宮の縁戚の女良子が、見えます。
天皇家にも、児島宮の縁戚の女が同時に、正室となり、ここでは代替天皇となります。
後鳥羽院の後、宮家の女でない、順徳天皇もこれら、代替天皇となります。


松峡宮は、「朝倉風土記」の紙中のような、本質に相対しない、事が書かれています。
児島宮歴研会では、ネットを通じて、発表、して参りました。
それは、これまでの日本では未発表な、資料が参考になっています。
近年では、夏王朝の実在を、梓書院より、出版したのが、中国で眼に留まり、又ネット中で、裏づけが、あった事で、調査されたのが、発見につながったのは?
梓書院より、出版したのが相似したと、言えるのです。

又ここで取り上げた、縄文と弥生の年代も、本日が、発表になります。
今村峯男氏や藤尾純一郎氏もまだ、弥生年代は紀元前五百年より更に、五百年遡るとしていられます。
ここにはその、説明は、考古と相似して、いないのです。
[PR]
by kouhoka | 2008-07-12 18:05 | 縄文と弥生の年代