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『児島宮伝記』

『児島宮伝記』

幼名は高丸。幼少の頃より、朝廷政事、殊に皇位継承に至るまで、幕府が干渉することに対して強い反感を抱いていたという。15歳または17歳のときに元服し、児島三郎高徳を称した。

児島高徳が『太平記』記中で、古代中国の事を『礼』として取り上げている。
日本では誰も今でも、証明は取れないでいるのに、
取り上げたのは、
越王勾践が、祖という事を知っていたのである。

「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」

朝廷政事、殊に皇位継承に、こだわったのも、越王が日本の天皇の祖ウガヤと、知っていたのである。
現に亀山天皇より、醐醍醐天皇の後になる事、を、醐醍醐天皇に、亀山天皇より伝えられていたとある。
又、児島高徳は、大覚寺大僧正に、ついており、亡くなった後の戒名でも、晩年は出家し、志純義晴と号した。正式な法名は、志純義晴大徳位。

児島高徳は宮家祖であった、宮家とは、越の宮家の主体の事である。
児島高徳の後は、近衛中将にも続けて、任じている。
今、鬼瓦が、それ越の宮家を証明している。
児島高徳は城を愛知に立てて、その後継が佐久間信盛、という。
もともと佐久間は藤原系や、佐々木とも、つながっている。
佐久間中興の祖が、鎌倉の和田義盛、の子が、児島に婿となり、児島範長に至っている。

石清水八幡家の坊門家、は、紀氏とされ、紀家弘の女の婿になったのが、児島範長で、足利義満と、親戚にあたる。
坊門家、は後鳥羽上皇の時定家で知られる家で、天皇に繋がっていた。

実の天皇家は、宗家で宮家が、その証でもある。
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by kouhoka | 2013-03-25 18:30 | 夜須人の源流