頼任親王の子道乗は、児島盛綱の所領は従兄弟にあたる成尋の子家長(上沢氏)に伝わる

c0095642_19004816.jpg
道乗僧正の室となり6人の子を産んで五流を継いだ
頼宴僧正が継がれ、児島範長室(紀家広女子)石清水八幡家の女子

頼仁親王(1201-1264)は、鎌倉時代初期の後鳥羽天皇の皇子で1219年に征夷大将軍候補になりましたが、承久の乱の後に父の後鳥羽上皇らが隠岐に流されると親王もこれに連座し、備前・児島へ流され同地において死去したとされています。

https://www.youtube.com/watch?v=P7cY6gVjCBA&feature=player_embedded#t=46

道乗僧正の室は上沢氏である。
上沢氏は、
上沢姓は、現・塩谷町上沢発祥

この道乗が上沢氏の娘を娶って六子を生み、
その第二子頼宴が和田備後守範長の娘を妻として生まれたのが児島高徳である。
宮家とは、皇室の○○宮ではなく、尊のあてな、をいう。

上沢家長『中原家長』となのった。家長が上沢、を、名乗ったのは?
中条氏は横山党成田氏の一族、藤原氏ともいわれます。
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=635
中条 家長(なかじょう いえなが、長寛3年(1165年) - 嘉禎2年8月25日(1236年9月26 日))は、鎌倉時代の武将。義勝法橋盛尋(中条兼綱)の子。横山党小野氏の出身。従五 位下、出羽守。 八田知家の養子となり、道兼流藤原氏を名乗って苗字を中条と改名

藤原道兼の子孫である有力御家人八田知家の養子となる。武蔵国埼玉郡中条保を本拠として,中条氏を称した。右馬允,右衛門尉を経て,貞応2(1223)年従五位下出羽守に至る。治承・寿永の内乱では,源範頼に従い一の谷の戦(1184)に加わり,その後豊後国に転戦。文治5(1189)年奥州藤原氏の追討に参加。源頼朝以下藤原頼経まで歴代の将軍に近侍して,鎌倉幕府宿老として重きをなした。また評定衆創設(1225)以来その職に任ぜられ,幕政に参画した。

成綱の弟成尋は中条義勝房法橋を称し、甥の盛綱とともに武蔵国北埼玉郡中条保に住していたが、兄成綱とともに頼朝の旗揚げに加わり石橋山の合戦で奮戦した。
 成綱の死後、盛綱がその所領を相続し、兄義成のあとを受けて京都に駐在した。ところが承久三年(1221)五月、承久の乱が起ると盛綱は上皇方に属して幕府に討たれてしまった。その結果、盛綱の所領は従兄弟にあたる成尋の子家長に与えられた。家長は父の成尋とともに頼朝の旗揚げに参加してのち、源平合戦、奥州合戦などに出陣して多くの戦功をあげ、すでに幕府御家人として知られた人物であった。
 ところで、家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだ女性で、頼朝の乳母の一人としても知られる近衛局であった。八田知家は成田成綱らと同様に、流人として伊豆で不遇をかこっていたころの頼朝に忠勤を励み頼朝から厚い信頼をえた。家長は父成尋が僧であったことから八田知家の猶子となり、本姓藤原氏を称して中条藤次家長を名乗った。

東寺長者道乗室、上沢家長、栃木県塩谷郡塩谷町大字上沢住

形跡は、家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだ女性で、頼朝の乳母の一人としても知られる近衛局であった。八田知家は成田成綱らと同様に、流人として伊豆で不遇をかこっていたころの頼朝に忠勤を励み頼朝から厚い信頼をえた。家長は父成尋が僧であったことから八田知家の猶子となり、本姓藤原氏を称して中条藤次家長を名乗った。

盛綱死後に所領を賜って尾張守護・三河高橋庄地頭に補せられたのである。
文永十一年(1274)、三河高橋庄にある猿投神社に深見郷の内を寄進した文書が伝えられ、建長のころ(1250年代)、尾張守護であったといわれている。中条氏はのちに三河高橋庄と深い関係を結ぶが、そのはじめは頼平のころであったと推察される。
家長は出羽守に補任され、出羽地方にも中条氏の痕跡を残した。

小野氏系図(「続群書類従」巻第一六六)によれば、野三太夫成任の二男中條盛尋に三子 あり、嫡男を藤次出羽守家長、二男を苅田平右衛門尉義季、三男を左衛門尉実広とした。

小野氏系図に「中条藤次出羽守家長の弟 苅田平右衛門義季(和田義盛の子と為り、氏を平に改む)?

八田知家 (*)源ノ・(宇都宮・小田)・四郎・右衛門尉・筑後守・朝家。下野国の有力豪族、宇都宮氏の一門、宇都宮(八田)宗綱の息。兄に宇都宮朝綱。実父は源ノ義朝、母は宇都宮朝綱の娘で、外曽祖父の宗綱が養子として迎え養育したともいう。横山党・中条(出羽守)家長を娘婿とする。

嘉禄元年(1225)に評定衆が定められると、三浦義村らとともに評定衆に登用され、「御成敗式目(貞永式目)」制定時には評定衆十一人のひとりとして連署している。また、尾張国守護職に任じられ、守護職は南北朝時代のはじめまで中条氏が世襲した。ちなみに、中条は「なかじょう」ではなく「ちゅうじょう」と読む。

幕府に重きをなした家長は、嘉禎二年(1236)に七十二歳で死去した。
家長が上沢、を、名乗ったのは、
宇都宮家臣帳や軍記物に見られる上沢姓は、現・塩谷町上沢発祥、またはその地区の領主 と思われる。

栃木県塩谷郡塩谷町大字上沢に居た、幕府の家長は上沢家長と名乗る。

上沢の地は、鬼怒川のすぐ北に位置し、両側を山に囲まれた地域である。

東寺長者道乗は父頼任親王、母を、加地信実の女で、祖父北条時政としていた。
東寺長者道乗の子、頼宴僧正は、備後の児島尊滝院、に居たとある。
ここに、頼宴僧正の母を、上沢家長としている。
後鳥羽上皇ー頼任親王ー東寺長者道乗ー頼宴僧正ー児島高徳が、宮家祖となる。

『上沢系図』
義勝法橋盛尋(中条兼綱)→中条藤次出羽守家長→

平安時代末期、藤原氏から出た常光(つねみつ)は中条の地に館を構えて中条氏を名乗り ました。常光の孫の家長は鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう)となり貞永式目( じょうえいしきもく)の制定に加わりました。

道兼流藤原氏を名乗って苗字を中条と改名

藤原道兼の子孫である有力御家人八田知家の養子となる。
武蔵七党のひとつ横山 党の小野義勝(法橋成尋)の子で,藤原道兼の子孫である有力御家人八田知家の養子となる 。


肥前上妻氏 経家の曾孫家宗に至って藤原家宗として史料のうえに あらわれてくる。『草野系図』
系図をみれば、家久の子に隆定・隆則・政則の三子があり、隆則の子に経家・則隆があっ て、則隆は菊池を号したとある。経家の曾孫家宗に至って藤原家宗とある。

建久六年(1195)正月大八日甲午。豊後守季光与中條右馬允家長起喧嘩。已欲及合戰之間。兩方縁者等馳集。仍遣和田左衛門尉義盛。被令和平。於家長者。仰前右衛門尉知家被止出仕。

已に合戰に及ばんと欲す之間、兩方の縁者等馳せ集る。仍て和田左衛門尉義盛を遣はし、和平令め被る。

家長にて於て者、前右衛門尉知家に仰せて出仕を止め被る。養子爲之故也。

家長は壯年之身爲に、知家が養子爲。威權に誇り無礼を現すに依て、季光相咎むと云々。

参考季光は、埼玉県入間郡毛呂山町、家長は、埼玉県熊谷市上中条。

藤原八田権守(はったごんのかみ)を称した。宇都宮宗綱、中原宗綱とも 呼ばれる。宗綱父である宗円。父は藤原宗円、母は益子正隆の女。宇都宮氏第二代当主。

宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡の芳賀氏を傘下に加えながら毛野川(鬼怒川・田川)沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。

児島宮とは何?

児島宮は、後鳥羽上皇の、母と室が同じ坊門家で、あった。

児島宮は、後鳥羽上皇の、室坊門局との間、に生まれた、本朝皇胤紹運録』に坊門局は兵衛尉信業(重)女とある。

第77代 後白河天皇

女御:建春門院・平滋子(平時信の女)

憲仁親王(高倉天皇)→ 後鳥羽上皇→ 頼仁(よりひと)親王児島宮


八条院坊門局の用語解説 - 藤原俊成の娘、定家の異母姉。母は藤原顕良の 娘。応保・長寛年間(1161~65)藤原成親と結婚、四子を産む。『明月記』には「三位公佐 等之母」とある。宮中の故実に明るく廉直な人柄であったという。

鎌倉時代の女官。

坊門信清の次女。後鳥羽(ごとば)上皇の後宮にはいり道助(どうじょ)入道親王,頼仁(よりひと)親王,嘉陽門院(かようもんいん)を生む。承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽上皇が隠岐(おき)(島根県)に流されたときしたがい,延応元年(1239)上皇の没後,京都にかえった。通称は別に西御方。

坊門局(2) ぼうもんのつぼね ?-?鎌倉時代の女官。坊門信清の次女。後鳥羽(ごとば)上皇の後宮ににはいり道助(どうじょ)入道親王,頼仁(よりひと)親王,嘉陽門院(かようもんいん)を生む。承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽上皇が隠岐(おき)(島根県)に流されたときしたがい,延応元年(1239)上皇の没後,京都にかえった。通称は別に西御方。

おん‐かた 【御方】



[名]「おおんかた」に同じ。

[代]二人称の人代名詞。貴人を敬っていう。あなたさま。

坊門 信清(ぼうもん のぶきよ、平治元年(1159年) - 建保4年3月14日(1216年4月2日))は、鎌倉時代の公卿。修理大夫・坊門信隆の子。同母姉に高倉天皇妃の藤原殖子(七条院)がおり、後鳥羽天皇の外叔父にあたる。官位は正二位・内大臣。坊門内府・太秦内府と呼ばれた。

坊門の局と白拍子亀菊ともに後鳥羽上皇の寵愛を受けながら不可思議な絆で結ばれ…上皇を支え共生する

1221(22才) 承久の乱、父・後鳥羽上皇隠岐に配流、母・坊門局、上皇に供奉する

嘉陽門院

1221(22才) 承久の乱、父・後鳥羽上皇隠岐に配流、母・坊門局、上皇に供奉する

礼子内親王..1200~1273

.<法名:真如性>

父:後鳥羽天皇

母:(内大臣 坊門信清の女・坊門局)

(異母兄)土御門天皇・(異母弟)順徳天皇

後鳥羽天皇の第二皇女。母は坊門信清の女・坊門局で、鎌倉3代将軍実朝正室の姉妹です。

. 5才で内親王となり、賀茂斎院に卜定。さらに准三后を宣下されました。13才の時、病により退下。以後、賀茂斎院は卜定されず、最後の斎院となりました。

. その後、15才で女院号を受けました。

道法法親王(どうほうほうしんのう)

生没年: 仁和寺

f:id:muoon:20050706162512j:image

頼仁親王(よりひとしんのう、建仁元年7月22日(1201年8月22日) - 文永元年5月23日( 1264年6月18日)は、鎌倉時代初期の皇族。後鳥羽天皇の皇子で、母は内大臣坊門信清の 娘西の御方。卿二位こと藤原兼子に養育される。号は冷泉宮。

頼仁親王は後鳥羽上皇の皇子であり承久三年(1223)承久の乱のためこの児島に配流 された。

児島高徳誕生の地の碑である。

高徳公は、当院の出身です。

後鳥羽天皇 皇子 頼仁親王墓

頼仁親王とは

実朝の嫁と後鳥羽上皇の嫁は実の姉妹であって、後鳥羽上皇と実朝は親戚関係にあった。

そこで、実朝が死んだ後、

四代将軍に後鳥羽上皇の三男の頼仁親王はどうかという話が出た。

この承久の乱により、幕府と京都との関係は変わった。

後鳥羽上皇は、隠岐に配流。

順徳上皇は佐渡。

土御門上皇は土佐。

後鳥羽上皇の長男は但馬。

そして三男頼仁親王は備前児島尊瀧院へ。

頼仁親王の実子、道乗大僧正を後継とされました。

道乗大僧正→頼宴大僧正→高徳(夏后宮家)→

「日本第一熊野神社 十二社権現」

御祭神:熊野牟須美神(伊弉冉大神)、泉津事解之男神、速玉之男神、伊奘諾大神、家津御美子大神 (素戔鳴尊)、天照大神、忍穂耳尊(正哉吾勝勝速日天忍穂耳命)、瓊瓊杵尊(天津日高日子火瓊瓊杵命)、彦火火出見尊(天津日高日子穂穂手見命)、鵜草葺不合尊(天津日高波限建鵜草葺不合命)、軻遇突智尊、波邇夜須毘賣神(埴山姫尊)、罔象女尊、稚産霊尊、八百萬神

太平記全四十巻の作者が小島法師と云われる児島高徳である。

「天勾践を空しうするなかれ」は(夏后宮家)の歌である。

第四皇子冷泉宮頼仁親王が 児島に配流されました 。

冷泉宮頼仁親王は1247(宝治元)年4月12日に 薨去され、桜井宮覚仁親王は1263(弘長3)年3月28日に薨去された。

、「五流尊滝院世系譜」によると、この道乗が上沢氏の娘を娶って六子を生み、 その第二子頼宴が和田備後守範長の娘を妻として生まれたのが児島高徳である。

中条氏は越後和田氏の嫡流である。祖は小野姓中条氏の系で、鎌倉御家人中条義勝(法橋成尋)の次男家長。中条藤次家長(中条家長)

中條藤右衛門尉家長。



五流尊龍院、頼仁親王御陵.

後鳥羽天皇─頼仁親王─道乗室上沢氏(中条家長、の女)の娘─頼宴母は(中条家長、の女)=

女系季定─季家─家長─定心─【和田】季房─家勝─家弘─範長室紀家弘女─女子=児島高徳

中条藤次家長(上沢氏)の娘1185年吾妻鏡記載。

中条義勝(法橋)・中条家長(藤次)

常光公の孫の中條出羽守藤次家長公は、16歳にて石橋山の合戦には既に頼朝公に扈従し ていて信任が厚く、関東武士では唯一人貞永式目制定に参画した。

常光は白根氏より女を娶り中条新五有家と同新六家資の二人の子が居り、有家の子に中条 藤次(出羽守)家長がいる。また、横山党説によれば成田成任の次子成尋の子に出羽守 家長(上沢氏)が居たという。

上沢姓は、現・塩谷町上沢発祥女と東寺長者道乗妻

藤原北家。「二条家系図」

藤原北家摂関流。明峯寺関白・九条道家の次男良実を祖とする。

銅駄御殿とも呼ばれる。

歌道の家。

宇都宮家臣帳や軍記物に見られる上沢姓は、現・塩谷町上沢発祥、

栃木県塩谷郡塩谷町大字上沢に居た、幕府の家長は上沢家長と名乗る。

上沢の地は、栃木県 鬼怒川のすぐ北に位置し、両側を山に囲まれた地域である。

佐貫(さぬき):上沢地区との境

上沢家長『中原家長』となのった。家長が上沢、を、名乗ったのは?

中条氏は横山党成田氏の一族、藤原氏のいわれます。

豊後守季光与中條右馬允家長起喧嘩。吾妻鏡入門第三巻

承久の乱が起ると盛綱は上皇方に属して幕府に討たれてしまった。その結果、盛綱の所領は従兄弟にあたる成尋の子家長に与えられた。

頼任親王の子道乗は、児島盛綱の所領は従兄弟にあたる成尋の子家長(上沢氏)に伝わり、

道乗が上沢の家長の女を妻にした。

これが、上沢の家長の女である。
この東寺長者道乗が、二条藤原良実の養子となり、藤原良実は関白家の元租也。後は鷹司家、が継いだ。
東寺長者道乗の胤、佐久間信盛の女子が、佐々に嫁ぎ、本能寺で没したので、弟に子供は、前田の斡旋により、り、預かりとなり、
藤原良実胤の鷹司信房と再婚し、孝子は徳川三代の正室となる。
この他、姉は狩野孝信の室となる。これは佐久間系図に載せている。

狩野孝信の男子安信が、佐久間信盛の、男子、信栄の男子助九郎長興、秋月祖、狩野孝信祖の、掛け軸を描いている。
この長興胤の黒田長清の女子が島津長溥を養子とし、その女子キン、が児島宮の儀平の室となった。祖祖母である。

児島宮には、黒田長政も、栗山大膳家臣を伴い、毎回訪れていたのは、大膳松の字名を今に残している。

日本の日の丸は、この児島宮から、島津長溥に託し、孝明天皇の元へ届けられてからという。
菊紋が、使用されないように、代紋として、日の丸が、始まったと聞く。
島津長溥公は、徳川慶喜将軍の検非違使、警護をしていた事が知られる。

信栄の男子助九郎長興の子は、浅草寺内の曹洞宗に、

長嗣系

佐久間信栄(正勝)の次男・長興(助九郎)の子孫を称するが、『寛政重修諸家譜』には信栄の子として長興なる人物は記録されていない[9]


[PR]
by kouhoka | 2017-03-24 19:33
<< 道乗僧正の后は上沢女とある 夜須のおひなさま >>